4.■感覚―
そして彼女に災難は降りかかる――
『あんた記憶力だけはいいわね』
とは、誰の台詞だったか。
とうに摩耗した記憶を探ろうとして止めた。今更起源を探ったところで、何が変わる訳でもない。
「色、音、感触……そのどれもが混沌と混ざり合ってこの世の中は認識されている訳だが――」
誰に聞かせる訳でもないが、彼は両手を広げて講釈を始めた。
「認識されている訳だが、常にそれらは混ざり合っていて、判別がつかない。認識できないのであれば、ないものと同じだ。コンピューターではまだまだ再現できないほどの情報を受け取れている人間の感覚受容器ってやつは優れているような、そうでないような」
懐からポケットウィスキーを取り出すと、ふたを開く。しかしそれには手をつけないで、目の前の女性の鼻元へと突きつけた。
「優れているが、やはりいい加減なもんだ」
ニット帽を目深に被り直し、男はスンと鼻を鳴らす。
甘ったるい香りが屋内へと広がっていくことを確認する。
「これらの感覚情報と一緒に人間は、感情や出来事を一緒くたに記憶してしまっている」
「……ぅ」
女性が小さく呻いた。その姿を見て、男は耳元へ何事かをささやいた。
「……」
女性は虚ろな目をして呻きを止める。
「ウィンターソングも真夏に聴き続ければ、ついつい夏の感覚にスイッチいれてしまうアレね。うーん、人間って本当にいい加減。そして、こと嗅覚に関しては、意識を失っていたとしても残るほど強烈なもの。気つけ薬を嗅がせるとか発見した昔の人、マジ天才」
ウィスキーを胸元に直しながら、ケヒヒ、と漏れ出る下卑た笑いを止めようともしない。
「……ぁ、ぁ」
目の前には、先日いなくなってしまった愛しい衣新奈の姿。視線を中空へとさまよわせながら、口をパクパクとしている姿は美しくないが、それもあと少しの辛抱だ。
「殴らせたりしてごめんよ。トドメはきちんと俺が刺すから。新奈を人殺しになんかさせないよ」
女性の手を取り、慈しむように撫でる。酒も飲む前から心酔しきった様子で、まだまだ講釈は続く。
「強い香りと強い記憶はセットになっている。始めからこうしていれば、首を絞めずに済んだのに……」
先程思い出すのを止めた事柄が、少しばかり脳裏をよぎった。その記憶をかき消すように、男は別のウィスキーを取り出して一口煽った。
「しかし、今回の新奈は素晴らしい……理想的だ」
彼の視線の先、新奈と呼ばれた女性が顔を上げる。先程とは違い、意識が確かにあるようだ。
そう、この新奈はこれまでのどのニイナよりもニイナらしい。
「おはよう、矜持 」
しばらく離れた恋人と再会し、女性はほほ笑む。その声の調子は、彼が離れることが考えられないとまで切望した彼女そのもの。
「ああ、おはよう新奈」
男は打って変わって爽やかに返事をしてみせた。
七人目にして、ようやく理想の新奈と出会えた。
泉矜持 は満足げに頷くと、部屋を満たす香りを確認するために、スンと鼻を鳴らした。