3.旧感覚―了
「あれ――」
新奈が自宅の鍵を入れてからニ、三秒。扉はびくともしなかった。
「鍵、間違ってませんか?」
アパートについてから、怪訝な表情を浮かべる新奈に、海里は視線を送った。
「あ、いや――」
ギィ――
言うや否や、扉が開け放たれる。新奈も、緊張を表に浮かべたまま『開いてました』と一言述べては固まっている。
「ちょっと、ごめんよ」
鍵を回すまでもなく開いた扉に違和感を覚えて、海里は先んじて我が身を突入させる。
「……」
緊迫したまま身体を突っ込んでみたが、なんということはなかった。ただのアパートの一室が、海里の目の前に広がっていた。
「ほっほーう……」
唸ってみたが、特に何と変哲のない部屋であることに変わりはない。2DK、別段広いとも狭いとも言えない。二人ぐらしとしては質素というか、むしろそこそこではないかと、海里は思った。
「あ――」
新奈が走る。部屋に懐かしみでも覚えたか。自分の家に戻ってきたにしては、間の抜けた言葉を発している。
「なんだろう……」
一日を置いて戻った我が家には違和感があるのか……
本人にもまだよくわかっていないらしい。ともかく、戻ってきたという感覚が今の彼女に去来しているに違いない。
海里は玄関に立ったまま、依頼人の姿を見送った。
新奈はきょろきょろと視線を送りながら自身の落ち着きなく、行ったり来たりとしている。
「あ、お茶くらい入れましょうか」
そうこうしている内に、新奈が台所に立っていた。お茶を探して台所の棚をあさっている。
「ああ、お構いなく」
海里はその機先を制して、ダイニングへずかずかと歩を進める。これ以上、水分で腹を膨らませたくはなかった。
うーん、とうなる新奈を尻目に、海里は海里で部屋の様子を探っていた。
『生活した感じがないな』
それが海里の第一印象だった。人が暮らせば、嗜好品の跡や生活用具を使った跡など、それなりに色が出るものだ。
しかしこの部屋にはそれが感じられなかった。であるというのに、この部屋は確かに人が暮らした感じが残っている。
「……うん?」
海里は首をひねらざるを得ない。愛憎入りまみれて、彼女を殺すまでに至ったのであれば、この部屋はもう少し雑然としていい筈だ。
そうであるのに、この部屋は人間が暮らした跡だけを残していて、生活の乱雑さが見られない。
ということはやはり、『彼女は殺されていないのか?』
「……ふぅ」
認めたくもなかった結論へと導かれつつあるのか、海里はため息をついてみせた。
「――あ」
観念しようかとしていたところで、新奈が漏らした声を聞いた。
「イヌカイさん、これ……」
彼女の手の中には、古い日記が納まっている。
この日記を読めば、少なくとも同居人の足取りが辿れるのではないか。
「ああ、いやいや」
それは他人のプライベートだ、と自分に言い聞かせていると、海里は背後で妙な気配を感じた。
ここで尻込んでしまうのは、お屋敷の魔女の僕失格ではないかとも思うが、敢えて人間の尊厳を勝ち取りたいとも思う。
いままでになく、神妙な顔の彼女。
「イヌカイさん……」
海里はその様子をしばらく見守っていたが、ぱらぱらと日記をめくっていた、彼女の手がある点でこつ然として止まる。
「お茶なら結構ですよ……と、どうしましたか?」
そのただならぬ雰囲気に、海里も緊張がうつってしまった様子だ。
「この日記に出てる……」
その間は何を意味していたか。
「 オトウト、 って誰でしょう ?」
ごくり、と海里の生唾を呑む音が響いた。
彼女の目は、海里へと向けられているようで、その実どこも見ていない。
弟?
初めての言葉に、海里は困惑する。これまで、新奈は姉の話はすれど、弟の話など――
ギィ――
扉が鳴った。
同時、甘ったるい匂いがフロアに伝わる。そのあまりに強い香りに、意識が奪われそうにもなる。
「――かっ!?」
香りから逃げようとして喘いだ肺から、空気が強制的に漏れ出た。海里は臨戦態勢を取っていたつもりも、そのモーションは幾分か遅かった。
身を捻ろうとする間に、半身に衝撃が走る。
「く、そ――!!」
不意を打たれた。海里は額に、嫌な汗が伝うのを感じていた。
扉側から不意打ちを受けたので、まだ彼女は無事な筈だ。海里は身体にムチを打って、身を起こす。
ここで初めて、玄関から現れた人物へと対峙した。
――スン、と鼻を鳴らす音が響く。
「おまえ、」
言葉を続けたかったが、再び繰り出された蹴りに遮断されてしまう。
「ごっ――」
無様な音を漏らして、海里はキッチンを転がった。
その様を、海里がのろのろと立ち上がるのを見送りながら、青年は改めてニット帽を目深に被り直した。
この後ろには衣さんがいる。海里はそのことを忘れてはいない。
這いつくばったまま、相手を止めるため、ポケットへと手をやった。
『止まれっ』
カチャ――
手をポケットから引き抜くと同時に、またしても男の蹴りが海里の手を打った。
ジッポが壁にぶつかって、頼りのない音を立てる。
このままでは、動きが止めらない。
『と、なれば』
海里は右のポケットから手を引き抜く。
「……!?」
男は無言で上体を逸らした。
海里はポケットから引き抜いた、トランプのカードを投げつけていた。
威力は皆無。だが、この状況でトランプが飛んでくることを想像できるだろうか?
『今度こそ、もらった!』
海里は胸中で、つぶやいた。
そう、この一瞬、相手は意識に空白を生じた筈だ。
ガン――
全く思いもよらなかった。
後頭部へ一撃をもらい、海里は膝を折る。
『なんで』
とすら言えなかった。
新奈は今振り下ろしたばかりの灰皿を手に、青年へと歩み寄る。
スン、とどこかで聞いたような音を聴きながら、海里は意識を闇に落とした。