音無 アリア
「おや、自殺とは今時だね……お嬢ちゃん」
少女の願いは、かくして叶えられた……かに見えたが、男の声が少女の一歩を停止させた。あと、もう一歩で彼女の願いはたやすく叶えられてしまうだろうという危うい位置で、停止させられた。
「……誰」
後ろを振り向くと、そこには、サンダルに、黒いステテコパンツ、ピンクのポロシャツを着た男がいた。
普段のアリアなら、たかが声をかけられたくらいで、自分の行動を中断したりはしないのだが、今回は状況が違った。
なぜなら、この男は、アリアが死ぬ直前に、立ち入り禁止の、この屋上で、このタイミングで声をかけてきたのだ。そんな偶然が起こりうる確率は極めて低い。目新しさに欠けていた人生に落胆した彼女には、その奇跡のような確率は自殺の意思を一旦取りやめるには充分な理由であった。
いや、それとも、わたしは死にたくなくて、臆しただけかもしれないな。
だとしたら、わたしはわたしに失望するよ。所詮口だけということか。
もちろん、生命体の本能として、死への躊躇いはアリアといえど当然持ち合わせていたが、例えばこの場に、この男が現れなかったとするなら、間違いなくアリアは飛んでいたのだが。この少女は、それには気付くことはない。
「誰ときたか。フフッ……そうだな、今の君にとっての僕は、通りすがりのお兄さんというのが適切だろうね」
「お兄さん……?」
アリアは怪訝な顔でそう反復した。それもそのはず、アリアの目の前にいる男は、お兄さんというには少し年を重ねすぎていた。見た目だけなら三十代後半といったところだろう。そこに、アリアは違和感を覚えたのだ。
とはいえ、そんなところを追求しても仕方ない。もしかしたら、老けて見えるだけで、実際にはお兄さんと呼ぶにふさわしい年齢なのかもしれないし。そこはもうスルーすることに決めた。わたしが訊きたいことはもっと別のところにある。
「なぜ、ここにいるの?」
この瞬間、この時間、このタイミングで、なぜ、ここにいるのか。そう彼女は質問した。
「誰? の次はなぜ? ときたか。やれやれ、質問の多いお嬢ちゃんだね。」
「……まだ二つしか訊いてない」
というか、まだ一つ目の質問にすら答えてもらっていない。通りすがりというのは、ありえない可能性ではないが、通りすがりというには、あまりにもできすぎだ。たまたま通りがかった場所で、誰かが自殺を試みているなんて、こちら側としては信じられない。
「はぐらかさないで」
「はぐらかしてはいないさ。ただ僕は事実を述べているだけだよ」
そう言って、男は胸ポケットからライターと、タバコを取り出し、タバコをくわえて、火をつけ、有害な煙を肺を満たすようにして吸い、やがて、
「ぷはっーー。」
吐き出した。
男はドア付近にいて、わたしは屋上の端にいるため、煙は届かないと高を括っていたが、風に流されて私のところまで運ばれてきた。嫌な臭いが鼻につく。
「おや、悪いね」
「……別に」
男は言葉では謝っていたが、ニヤニヤとした軽薄そうな表情からは自責の念が全く感じられなかった。
やがて、男はタバコを半分ほど吸ったあと、それを地面に捨てて、私の隣に移動した。
「……っ!?」
一瞬でだ。
見えなかった。移動する素振りさえ感じられなかった。男とわたしの距離は目測でざっと二十五メートル。それを瞬きよりも速く動いてここに来たの?
「なっ……なんなのよ、アンタ!」
戸惑いをあらわにするアリアとは裏腹に、謎の男はひどく落ち着いた様子で言った。
「音無 アリア。僕は君に用があってここに来た」
「ッ、なんで……私の名前…………」
動揺を隠せないアリアを尻目に、男はなおも無視を決め込み、自らの言葉を紡ぐ。
「君にはあるミッションをクリアしてもらいたい」
何を言っているのか分からず、男を言及しようと試みるも、男は見計らったようにアリアの言葉に被せて話を続けた。
「攻略難度SSS。その扉が発見されてから十年、挑戦者は総勢5億人にものぼるが、未だ誰一人としてクリアには至っていない。各国は躍起になってクリアを目指しているが、積み重なるのは死体の山だけ」
扉? 挑戦者? キーワードが抽象的過ぎて相手の意図が読めない。なにかのミッションをクリアしようとしているのは混乱したわたしの頭でもわかるが、逆に言えば、それ以外何もわからない。確か、わたしは自殺するためにここに来たのではなかったか? いつの間にか、男の変な話を聞く状況になっている。いや、この男がこの場を整えたと言ってもいいだろう。
「そこで、この日本の政府が選んだ道は、少数精鋭のチームによる攻略だ。今までもチーム攻略は各国でも行っていたが、大人数での人海戦術ばかりだった。しかし、今回はこの僕、『扉攻略対策本部人員スカウト課の社員兼扉攻略部隊日本支部部隊長』の荒巻 武が直々に攻略に適性のある人員を見つけ、スカウトしてくるように仰せつかった訳だ。ったく、長ったらしい肩書きだよ……自己紹介の度にこれを言わされる僕の気持ちを少しは考慮して簡略化してもらいたいね」
そこで、沈みかけた太陽を眺めていた謎の男改め荒巻は、アリアのほうに目をやった。
「そして、君が選ばれたんだよ……音無 アリア。僕は、君の類稀なる才気に可能性を感じた。僕達と一緒に、戦ってくれないかい?」
「…………………………」
普通に話を聞いただけなら、信じようとは思わなかったろう。荒唐無稽で、具体的なことは全くわからず、命懸けときた。大抵の人間なら、このまま立ち去るのだろうが、わたしは見てしまっている。この男の異常性を、命をひろう奇跡のようなチャンスを、男の真剣な眼差しを。それにあいにくわたしは自殺志願の死に急ぎ野郎だ。いや、女の子なんだけどね。
ともかく、わたしの行き止まりの人生に、一つの分岐ルートが生まれた。自殺するか、……この与太話に付き合うか。……答えはもちろん決まっている。
「…………っ!?」
わたしは、飛び降りた。風を感じながら、余裕のあった荒巻の顔が驚愕と困惑に変わるのを見て、高笑いをした。
「アハハハッ、アハハハハ!」
別に捨てる命だから、荒巻達に協力してやるのも悪くないと考えたが、荒巻の思い通りに事が運ぶのがなんとなく嫌だったので、飛んでみた。
こうして、少女の願いは今度こそ叶えられた…………かに見えたが、
「まったく、予想外のことをしてくれるねお嬢ちゃんっ! やっぱり天才って奴はよくわからんね」
なんと、コンマ数秒遅れで、荒巻も飛んだ。
「……っ!? 何やってんのよアンタ!」
「よもや飛び降り自殺している人からそんなセリフを言われるとはね、やはり人生は面白い!」
数秒で地面に激突して、デッドエンドを想像していたアリアは、予想外の展開に戸惑う。天才というのは、自分の計算が狂うと、頭が停止しやすいのだ。
その瞬間を見透かしたように、荒巻はアリアの右腕を掴んだ。
「《Move Ability―――光輪飛弾》」
荒巻の足が輝き、空を蹴り、超高速で向かいのビルの屋上に到達した。
「ハァハァ、まったく、ヒヤヒヤさせてくれるよ」
「…………今のなに?」
荒巻は、コイツ頭おかしいんじゃね? というような顔でアリアを一瞥した後、立ち上がって、溜息を吐いた。
「やれやれ、もう僕は最近の子にはついていけないよ。あれだけの場を用意して、命を捨てようとしていた少女に生きる指針を与えて、それを無下にされてもカッコ良く助けたってのに、最初に出てくる言葉が 今の何? かい。僕はもうめんどくさくなっちゃったよ。おじさん、ヘトヘトだよもうっ」
当初のキャラが若干崩れてはいたものの、荒巻は気を取り直して、少女に向き合い、いまだ尻餅をついている少女に手を差し伸べた。
「せっかく拾った命だ。その才覚と一緒に、有効活用してみないかい?」
「………………」
かくして、少女は差し伸べられた手をしばらく眺めたあと、微笑みを浮かべながら掴んだ。
「わたしの有り余る才能を使いこなせるなら」