96話 「選ぶ者、下す者、抗う者」【後編】
――これがジュリアスさんの切り札。まともな手段を断った先にある最後の手。
アリスはジュリアスの背中を見ながら胸中で言葉を紡いでいた。
『王神』、『神々の王』、なるほど、名称を反芻すればどことなくあの存在の相貌が浮かび上がって来る。
天空神ディオーネでさえ委縮を見せる相手。
その委縮はまるで民が絶対権力者たる君主に対して、畏れとして見せるかのようなものだ。
――『より上位の神族』。
ときたまディオーネら神族が話中に挟んでいた言葉の意味を、アリスは察した。
「主神系よりも上位の神族がいるのでしょうか。それとも、単純に主神の中に序列があるだけなのでしょうか」
天空神でさえ自分たち純人にとっては規格外過ぎる存在だ。
それ以上がいるとなると想像するのも難しくなってくる。
ともあれ――
「今はジュリアスさんがどういう選択をするのか、ただ待つしかないのでしょうか……」
アリスはどうすることもできずに、ただ小さくつぶやいていた。
◆◆◆
「ああ、少し……興奮しているのかもしれない。今のは撤回するよ」
『お前が侵略を切望する征服の王になりたいと思うのならその攻め気自体は良いものだが、その攻め気によって選択の的確さを欠いては元も子もない。余の加護を受ける者ならなおさら、愚王に傾くのは許さぬ。――で、どうするのだ』
「……」
ジュリアスはユウエルの促しを受けて、一息の間をおいた。指を顎にあて、考えるそぶりを見せる。
「……一月」
そして、一拍の後にジュリアスは言った。
「一月でいい。僕の寿命と引き換えに、ロキへの一月の命令権を」
『一月か。それは絶対命令権か?』
「いや、僕はロキを奴隷にしたいわけじゃない。ただ、僕への反逆を許しては命令権も何もあったものじゃないから、最低限その辺は縛りたいね」
『わかった。しばし待て。公平性を規するためにテミスの判断も参考にする』
するとジュリアスの願いを受けたユウエルが、おもむろに宙空に掌をかざした。
瞬間、ユウエルの掌から神界術式陣が広がり、空間に奇妙な裂け目が生まれた。
その隙間から、
『……え、あ、あの、いまさら私の出番あるんですか? 最近私の規律の尊厳が……法神としての尊厳が異族どもにめちゃくちゃにされてて、その……ちょっと傷心気味なんですけど……』
『では法神としてではなく余の法務官として質問に答えよ』
『は、はい……』
やけにびくびくとしながら顔半分だけひょっこりと神界術式陣から出したのは、頭から地面まで一直線に届きそうなほど異様に長い白髪を宿した女だった。
その長髪は同じく白磁の顔の大半を覆いつくしていて、表情はうかがえない。
どうやら少しやつれていることだけはかろうじて見て取れる程度だった。
法神テミスを呼んだユウエルは、二人の間だけでいくつか会話をしていたようだが、しばらくすると片手で事務的にテミスを追い払い、再びジュリアスの方に向き直っていた。
『答えが出たぞ、ジュリアス。テミスの意見も参考にした。絶対的に公平とは言えぬかもしれぬが、秩序と規律を重んじる法神をして公平を意図した答えだ』
「それで、僕の支払う対価はどのくらいだい?」
『――三年だ』
「一月に対して、三年か」
そこには時間的な開きがあった。
神族の一月と、純人族の三年。
何を基準にしているかは現界の愚鈍な民である純人や異族にとっては定かではないが、少なくとも、それが種族的差異だった。
これが、
「現在の神族と純人族の差なんだね」
ジュリアスは自嘲的とも苦笑的とも取れる笑みを、一度だけ浮かべる。
「わかったよ。渡そう。――ロキ、僕の三年を君にくれてやる」
『……』
ロキはジュリアスとユウエルのやり取りを傍から見ていたが、その顔には一片の戯心も見て取れなかった。
ただ真面目に、静粛として事の成り行きを見定めようとする傍観者。
『……破格ですねえ』
しかし、ロキはついに表情をややほころばせて、両手を開きながら「やれやれ」と繋いだ。
『本当によろしいのですか? あなたは王になるのでしょう? 王の頂きを得るまでの時間、在位の期間、身体、精神が健やかでいられる時間、それらを考慮すれば、あなたの王としての真っ当な寿命はそう長くはならない。そのうえに、仮にあなたの王位が安泰で、在位が長引いたとしても、後ろから生物の寿命が追いかけてくる。三年も支払えば自らの構想を実現するための時間が足りなくなるかもしれない』
ロキはまくし立てるようにつづけた。
『それでもよろしいのですか?』
「先も大事だ。でも今をなんとかしなければ先もない」
『……あなたは劇物ですねえ。生半可な劇薬では逆に食いつぶされてしまいそうなほどの――劇物です』
ロキはステッキをくるくると片手で回転させながら、一拍の間をおいた。
『――わかりました。良いでしょう。ワタシの一月に自らの大事な三年を捨てる覚悟をお持ちの王ならば、あるいは信用のおける王なのかもしれない。もちろん、それすらも謀略の内かもしれませんが』
「疑い深いね、君は」
『性分です。ですが、あなたの内心は高尚で、ワタシなどには理解も及ばない。ゆえに、ワタシがそこまで疑う意味もない。ワタシはただ、あなたの差し出した命を喰らい、せめてその命の対価に応えられるような働きをしてみせましょう』
そこで、ついにユウエルが二人の間に立った。
『では、ジュリアス。命神の名のもとにお前の命を削る。その削り取った命を対価に、神をも跪かせる王神の権威をくれてやろう。それで良いな』
「ああ、良いよ――」
ジュリアスが目を瞑り、身体を差し出すかのように両手を開いた。
ユウエルが再び片手で神界術式を展開させ、その巨大な術式陣の中に空間の裂け目が生まれ――
「――良いわけないだろう」
次の瞬間に、全てを引き裂く一つの声が場に反響した。
◆◆◆
行動を起こしていた当事者たち以外の誰もが凍り付いていた状況の中で、確かにその声は外部から放たれてきた。
ジュリアス、ユウエル、ロキはとっさにその声の出どころを探し、その姿をついに見つける。
その者は地面に伏したままで、片腕で上半身を支え、立たせ、なんとかといった様子で声を放っていた。
「――サレ」
ジュリアスはその姿を見て、彼の名を呼ぶ。
『まだ動くんですか? 本当に魔人というのは化物染みていますね。我々神族の感覚をもってしても、その馬鹿みたいな耐久性は驚嘆に値しますよ』
身体的にも、そして精神的にも。そうロキは末尾に一人ごちて呟いた。
ロキはそれ以上何も言わなかったが、最後にサレに視線を向けたユウエルは若干目元をゆがませて言葉を放っていた。
『――魔人。魔人か』
ユウエルは自分に言い聞かせるように紡ぎながら、なめるようにサレをまじまじと観察し、ややあって言葉を付け加えていった。
『――ああ、間違いない。その反抗の力に満ちた目。神族を前にしてまるで光の衰えぬ反逆の目。それは確かに魔人のものだ。よくよく見ればテオドールの面影がある。実に――』
大きく息を吸いこんで、
『実に忌々しい顔だな』
そう吐き捨てた。
するとユウエルはゆっくりと片足を前に踏み、おもむろにサレに向かって歩み始めた。
ユウエルが身体にまとう不穏な空気を察し、ジュリアスがとっさに言葉を放つ。
「ユウエル、彼は――」
『案ずるな、手は出さん』
ジュリアスの制止を振り切るユウエルの言葉には有無を言わさぬ迫力があった。
かたや立ち上がることもままならずに上半身だけをなんとか持ち上げて、下からユウエルの顔を見上げるサレは、ユウエルが歩んでくるのを微動だにせずに待った。
剣を抜き放つ力もなく、術式を編む精神の精彩さも欠き、頼みの〈神を殲す眼〉からは血の涙があふれている。
ついにサレから数歩のところへ歩みいでたユウエルが、サレを見下ろして再び口を開いた。
『何が良くないのか、詳しく聞こうではないか』
対するサレは、怖じ気の一つも見せずにまっすぐユウエルを見据えて答える。
「神族と純人族の命の等価についてだ。命令するもの、されるもの、そういう関係の中に色々な条件があって、それゆえに多少の時間的開きが出るのはまだわからないでもない。だが一月と三年はあまりに違い過ぎる」
『――ハ、ハハハ、なるほど、なるほど。――今代の魔人はいささか手が広いらしいな。ついに貴様らは他種族と神族の関係にまで口を出してくるようになったか』
「違う。俺はジュリアスの命を問題にしているから口を出しているだけだ。勘違いするな。俺は関わりのない者についてはいっそ悪魔的なまでに無関心でいられるつもりだ」
『そうか。だがそれでさえも変化だ。魔人は魔人以外の同志に対する仲間意識はとうの昔に捨てたものと思っていた。――散々歴史の中で他種族に裏切られてきた貴様らが、いまだ他種族に対して同調する精神の働きを見せるとは驚いた。たとえそれがジュリアスという個人のみにおいてであっても』
だが、
『殊、今この状況において貴様の駄々は場をややこしくする。余の機嫌を損ねるし、この場で冷や汗を流している他の現界の民たちにも負担をかける。余がこの場にいる限り緊張し続けなければならないからな。そして何より――』
ユウエルはさらに一歩を踏み込んで、ついにサレの目の前に立ち塞がり、次いで、少し屈んでサレの胸倉をつかみ、無理やりその身体を立たせた。
『現状において貴様は無力だ』
ふと、その顔を靄のように覆っていたユウエルの白光が薄くなって、至近にいるサレにのみその顔が見えるようになった。
サレはサレで、胸倉をつかまれて顔を近づけられても、その視線は微動だにせず、ただユウエルの目を射抜いていた。
『それがすべてなのだ。抗議をするのも良い。反抗心を見せるのも良い。だが今貴様ができるのはそれだけだ。これはお前の祖先にも言ったことがある言葉だが――』
ユウエルは軽く息を吸って、口元をサレの耳に近づけて、囁くようにいった。
『王の令をくつがえしたいならば、王を追い落として見せろ。方法は問わん。それが叶えば、貴様の意見は通るだろう。神族の定める令も変わるだろう。余の臣下ではない、外部の存在である貴様ら魔人には、嘆願によって余に意を通す力はない。貴様らに行えるのは、余の座る玉座への征服と――』
神族への制圧のみだ。
『だが今の貴様にその力はない。だからジュリアスの三年はもらっていく。ジュリアスも言っていただろう。重要なのは「今」なのだ――』
そう言いながら、ユウエルはゆっくりとサレの耳元から口を離していった。
サレはユウエルの言葉を黙って聞いていた。
聞いて、反芻して、そして――
「ハハハ」
乾いた笑い声をあげた。
感情のこもっていない、乾いた笑いだ。
喜色からのものではなく、怒気を紛らわすために本能が反射として起こした笑いのような。
そして、次の瞬間――
「なら今、『玉座から墜ちろ』」
声と共に、ユウエルを見るサレの両眼には金色の術式紋様が浮かび上がっていた。
「【砕け散れ】――」
『それは悪手だな、魔人』
瞬間、凍てついていた周りの空気が一気に融解し、弾けた。