94話 「選ぶ者、下す者、抗う者」【前編】
それは言葉にはならなかった。
口の中からこぼれ出す血によって、発声を邪魔されながら紡がれた音。
だがアテナはその音が何を『言葉』として体現しようしていたかに気付いていた。
――〈血の涙〉がでているのに。
魔人は眼を見開き、金の術式紋様を赤の瞳に浮かばせながら射殺すかのようにこちらを見つめている。
魔人はうまく言葉がでなかったことに一瞬の悪態をつき、その際に口の中の血を思い切り吐き出して、そして再び口を開いた。
――ごめんね、セシリア。
「【死――】」
私、負けちゃ――
◆◆◆
「――私の負けだ」
◆◆◆
しかし、魔人の言霊は最後まで紡がれなかった。
その言葉を遮るようにして、アテナから声があがっていた。
正確には、
「もう一度言う。『私』の負けだ」
〈セシリア〉の言葉だった。
◆◆◆
「――」
サレは口を開いたまま、しかしセシリアの首を掴んでいる片手はそのままに、彼女の顔をまじまじと見つめた。
その眼からは血の涙が流れ、口から下は吐血によって赤にまみれている。
だが、そんな状態でもなお、サレの目には理性の光が灯っていた。
「――証拠は」
おもむろにセシリアの首から手を離し、サレは問うた。
サレの手から解放され、ようやく地面に足をつけたセシリアは、一度だけ咳き込んでからゆっくりとサレに視線を合わせる。
対するサレは、セシリアの視線を受けたあと、近場に落ちていたアテナの神格剣を見つけて片手に拾い上げていた。
一拍をおいて、セシリアが先に動く。
彼女は最初に膝を折った。
サレの前に『跪いた』のだ。
跪いたセシリアの顔を見ながら、しかしサレはまだ体勢を崩さない。
それどころか、片手に拾いあげた神格剣の刀身をセシリアに向け、その首元に突きつけた。
些細な妥協すら、稚児染みた悪戯すら許さない、そんな姿勢がサレの立ち姿に顕れていた。
対するセシリアも動揺は見せていなかった。
ただ整然と、次の動きをおこす。
彼女は両の掌を天に向け、だらりと地面に垂らした。
サレに対して掌を見せたのだ。
まるで抵抗の意志はないと訴えかけるかのような仕草だった。
さらにセシリアはそのまま身体を少し前へ傾け、頭を――
「――もういい」
最後の動作をサレが止めた。
サレは一二度頭を左右に振り、その手に持っていたアテナの神格剣を放り投げた。
投げられた神格剣は地面に落ちるより先に、空中で白い粒子となって霧散し、完全に消え去ってしまった。
代わりに、同様にして霧散したアテナの盾に突き刺さっていたサレの皇剣が、カランと音を立てて地面に落ちて、サレは数歩を歩いてそれを拾い上げると、ゆっくりと腰の鞘にしまいこんだ。
ついでに、無造作に地面に落ちていた自分の片腕を拾い上げて、切断面を傷口に押し付けながら踵を返す。
再びサレがセシリアの前に仁王立ちした。
そして、いまだに跪いてサレに乞うような視線を向けているセシリアに確かめるように言った。
「『セシリア』の負けなんだな」
「ああ、『私』の負けだ」
「……そうか」
サレは納得の面持ちを見せていた。
セシリアの懸念に関して、サレは察しがついていた。
「おもいのほか、神族を思いやるんだな。『アテナ』には負けさせたくないか」
「……」
もちろん、サレとてアテナに勝ったとは思ってはいなかった。
彼女が本来の身体で本来の力を出し切ったならば、
――勝てはしなかっただろう。
まだ今は、という話だ。
負けるつもりもないが、現状で勝てる気もそう多くはしない。
ともあれ、
「〈戦姫〉と謳われた女が目の前で跪いて負けを乞うている光景は悪くない」
アテナの代わりに自分の負けを『乞うて』いるのだ。
負けを乞う行為すら珍しいことだというのに、王女でありながらその自尊をかなぐり捨て、こうしてよくも知らない男に頭すら垂れようとしている。
セシリアの背負う背景を見て、サレは彼女の行為の重さを理解し、
「――わかったよ。わかった。そういうことにしよう」
了承の意を見せた。
「証印とか、いろいろ気になる手続きもあるだろうけど、そこらへんはアリスやジュリアスに任せよう……俺も……そろそろ……限界……」
ふと、急に重くなり始めた目蓋をなんとかこじ開けようとしたサレだが、結局はその重さに耐えられず、
「……疲れたー……」
空に抜けていくような声と共に、その場に大の字に倒れ込んだ。
◆◆◆
『本当に勝ったぞ、あのアテナに』
ジュリアスは耳元でディオーネの驚いたような声を聴いた。
「さすがだね」
ジュリアスは嬉しげな笑みで答え、すぐさま正面に意識を戻す。
戦況の変化に気付いてか、ヘルメスの半神は動きを止め、また椅子に座って悠々と観戦していたロキも驚いたような表情を浮かべながら硬直していた。
しかしロキはすぐさまいつも通りのケラケラとした笑いをあげはじめ、
「おやぁ、まさかあの脳筋な姉上が争い事でああも追い詰められるとは思いませんでした。少し驚きましたよ。頭の固さはそれとして、一応これでも真面目に姉上の戦闘能力には一目おいていたのですが」
そういうロキの言葉端にはそれらしい真面目さも漂っていた。
「どうしましょう――どうしましょうね」
演技ぶった身振り手振りで、さも当惑する様子を表しているかのようにくるくると回りながら、ロキは続ける。
「一応は戦景旅団の一員ということになってますから、その最後の城たるセシリアが負けを認めるとなると、私が戦う意義も薄れるのでしょうか」
ふらふらと舞うロキとは逆に、セシリアの負けを知った戦景旅団のギルド員たちは続々と動きを止めていく。
それらを見ながらも、ロキは言葉を紡ぎ続けた。
「いやいや、しかしまあ、これは私とジュリアスのゲームですし、もう戦景旅団の後ろ盾も必要ありませんし、そもそもあなたと刃を交える口実のために戦景旅団の籍を借りたまでですしねぇ――」
ロキが末尾を濁しながら、不意に鋭い視線をジュリアスに向けた。
対するジュリアスは、
「そうだね。僕と君の間の勝負ということなら、ここでやめる必要もないだろう」
「ほう、ジュリアスにしてはえらく好戦的ですね?」
「僕は目の前にエサを撒かれても動じないような節制者でも禁欲者でもないよ。むしろそのエサに価値を見出したならば、是が非でも奪いに行くとも」
「私の見知った情報にそこまでの価値を見出しているというわけですか。嘘かもしれませんよ?」
「君は確かに戯れの神だけれど、僕との勝負にこれまで嘘を賭けてきたことはないからね」
「積み重ねた善行のおかげですか。いっそ善神にでもなってみましょうか。徳の神とかどうです?」
「そんなものいないし、いても君には向いていないからやめたほうがいいよ?」
「フフフ、やはりあなたと戯れているのは楽しいですねジュリアス」
ロキは含んだような笑いを浮かべ、その後で佇まいを正した。
姿勢を正し、仕込みステッキを地面と垂直に立て、悠然とした歩調でジュリアスの方に歩みはじめる。
「……わたし、やる?」
「あなたはじっとしてなさい」
「……んう」
途中、半神の女が歩んでいくロキに首を傾げながら質問したが、ロキは視線も交えずに淡々と命令を下した。
ロキの視線はただジュリアスにのみ向けられていた。
むげに扱われた半神の女は、これまで表情の変化に乏しかった顔に小さな悲しみと怯えの色を浮かべ、素直に一歩引きさがっていった。
その間にジュリアスは自分の肩のあたりで浮遊していたディオーネに、
「たぶん、もう出番はないと思うから、疲れたなら神界に戻っていていいよ」
そう告げていた。
ディオーネはジュリアスの言葉を受けて、
「私がロキを潰せばそれで話は終わるんじゃないか?」
そう返していた。
「ロキは力ずくじゃ口は割らないよ。〈戯神〉は自分で定めた遊びの規則に存在を賭けるからね。ロキ自身が負けを認めない限り、彼はきっと何も喋らないだろうさ」
「馬鹿なのに頑固だと実に扱いづらいな。いっそ〈凱旋する愚者〉の奴らと近しいかもしれん。……仕方ない。お前がいうなら手を出すのはやめよう。だが結末は見ていくぞ」
「分かったよ」
ディオーネは離れすぎない程度にジュリアスから間を空け、宙空に静かに佇んだ。
ちょうどそのあたりでロキがジュリアスから五歩ほどの距離にまで歩みいでてきて、
「私を満足させられたならば、あなたの勝ちとしましょう」
「ずいぶんと君に有利な気もするね」
「言ったでしょう。私はジュリアスに甘いですからね。これは意外とあなたに有利でもあるのですよ」
ロキは仕込みステッキの剣先をジュリアスに向けた。
「私がいくばくかの放浪を経て、わざわざこんな時期にあなたの前に現れたことにもいろいろと理由はありますが、その理由ゆえに、私はあなたに問いましょう」
「答えて見せよう」
ロキは剣先を向けたまま、小さく息を吐いて、そして言った。
「あなたは本当に『テフラの王』になるつもりがあるのですか?」
「――ある」
「その理由はなんですか?」
「――アテム王国の〈異族討伐計画〉に対抗するため。異族の多いテフラを、その異族たちの活動によって存続するテフラの文化を失わせないためだよ」
「よろしい。その点は良いでしょう。私があなたの前に現れた理由に、アテム王国と〈異族討伐計画〉は大いに貢献していますからね」
「興味深いね」
「では最後に、大事なことを問いましょう」
「なんでもどうぞ」
ジュリアスがやや身構え、ロキの先を促す。
そのロキの口から出た言葉は、ジュリアスの内心を――
「あなたには〈神族〉を敵にまわす覚悟がありますか?」
大いに揺るがした。