93話 「終幕仕舞」【後編】
一滴の雷水滴による衝撃は、負傷と呼ぶほどの痺れを起こさなかった。
だが、完全に無視できるほど些細なものでもなく、アテナの内心に焦燥が生まれる。
――セシリアの身体に……!
傷か、ただの衝撃か、判断に難い。
だが自分の行動結果としてこの身体に敵の攻撃が届いてしまったのも事実。
神族として、この結果をどう受け止めるべきか。
【行け、アテナ。その程度は傷ではない】
すると、アテナの思考の隙間にある声が割り込んできた。
それはセシリアの声だった。
アテナの戦闘思考を邪魔すまいと状況を静観していたセシリアだったが、ここにきて彼女がアテナの心を立て直させるように言葉を放っていた。
――悪いわね。
【もとよりお前の導きがなければ〈魔人〉に殺されていた。だから、その程度を気にするな】
凛々しいセシリアの声が身体の内から響くように伝わってきて、その声を受けてアテナは内心の体勢を整えた。
――散々やって、私に衝撃を与えたことは褒めてあげるけど。
二策、三策と重ねてこれだけが結果というのならば、まだ温い。
そうこうしているうちにアテナの身体から痺れが抜けていき、
――行ける。
確信し、一歩を踏もうとしたところで――
それは来た。
視線だ。
おぞましい何かに見られているという茫漠とした不安感が、アテナの意識の中を強く速く廻った。
後ろ側から『恐ろしい何か』に見つめられている。
アテナはその不安を薙ぎ払うようにして、腕を水平に降りながら後ろを振り向いた。
――分かってる。
「【壊れろ】――【壊れてしまえ】」
そこに魔人がいることは。
◆◆◆
戦況が加速する。
いくつかの連携が重なって、ついにアテナにわずかな埃を付けたサレたちだったが、まだその攻撃は終わっていなかった。
もとよりサレたちにとっての勝利は、アテナの神族としての譲歩にはない。
はなから神族をも葬るつもりで動いている。
――まさしく愚者だ。
「本気で私に勝つつもりなのね……!!」
いまさらとも思うが、長い時の間、信仰ばかりを受けてきた自分にとって、こうまで明確な殺意と害意は久しく感じられていなかったものだ。
信仰と、委縮と、稚児の悪戯じみたちょっかい。
よくてその程度で、神族をひれ伏させようとする者はほとんどいない。
時代を経るごとに神族としてのそういった立ち位置が固定化していって、余計に従順な者が残ったような気がする。
そんな時代に、愚者ばかりが集まった集団が生まれた。
「戦神の盾ッ!!」
アテナは関係のない思考を切って瞳の映し出す光景に集中する。
剣を腰脇に構え、『神殺しの眼』を発動させながら突貫してくる目の前の魔人に意識を向けた。
神力の関係上あまり使いたくなかった完成型〈戦神の盾〉の二枚目を召喚し、魔人の視線を遮るべく身体の前面に落とす。
「プルミ!!」
瞬間、魔人の叫びがあがり、あらかじめそういう打ち合わせをしていたかのごとく――
「やってくれるわねっ!!」
盾が召喚された瞬間に、その盾の中心を『金色の矢』にぶち抜かれていた。
金色の矢は盾の中心をぶち抜いて貫通し、アテナの肩口すれすれを通過していく。
矢が身体から外れたことに安堵するのもつかの間、盾に空いた穴を目がけて魔人の持った金色の術式兵装が突きこまれる。
「っ!」
アテナはとっさに首を寝かせてその剣を避けた。
盾一枚を隔てて繰り広げられる一瞬の攻防。
――離れて。
魔人の手が盾のへりを掴んで、今にもどけようとしている。
矢の軌道から逆算した方向に目を向ければ、天使族がフラつきながら次の矢を装填している。
――いや。
矢の射出位置は割り出せた。
まだ右手には剣が残っている。
そしてまた、矢に対する『新たな盾』もある。
アテナは戦時の閃きを得て、
「撃てるかしらね……あんたに!」
行動を起こした。
◆◆◆
サレはアテナの盾に開いた大穴に〈改型・切り裂く者〉を突き刺しながら、その柄から手を離して即座に次の行動に移った。
術式も切れかけだ。
剣を引きぬいている時間さえ惜しい。
――捉えろ。
アテナを。
サレは目の前の盾を可能な限りの速度で手でどかし、その裏に潜んでいるであろうアテナを探した。
瞬間、
「――っ!!」
盾の陰から一振りの剣が振り下ろされてきて、サレが盾をどかすために使った左腕をばっさりと割断していた。
腕が宙を飛ぶ。
――まだだ。
だがサレは止まらない。
なりふり構わず前進し、ついにアテナの姿を捉える。
彼女は穴の開いた盾をその場に置き去りにし、右手に剣だけ持ってサレと対峙していた。
「【弾け散れ】」
目視と同時、サレが言霊を紡ぐ。
アテナはサレの言霊が紡がれる直前に、一気に加速前進を見せていた。
彼女の片手には破かれた大きめの服の破片。
彼女の服が大きく破かれているところを見ると、とっさに自分の服を破いて調達したものらしい。
サレの〈神を殲す眼〉の発動と同時に、その布切れが宙を舞った。
――視界が。
布きれによってアテナの顔と胴部が隠れる。
〈神を殲す眼〉は布きれを破裂させたが、アテナには傷を負わせなかった。
さらに、
――涙。
その〈神を殲す眼〉の発動後に、サレの目元から意志と関係なく溢れてくる水滴があった。
〈血の涙〉だった。
魔眼術式の限界兆候。
最悪のタイミングだった。
すると、破裂した布の向こう側から、不意にアテナの剣が差しこまれてきて。
サレは条件反射的にそれを避けるが、すかさずアテナの剣は一度引かれ、神速の二撃目を放ってくる。
サレの剣は盾に突き刺したままで、手元にはない。
――プルミ。
サレは胸中で天使の名を呼んで、判断を彼女に委ねていた。
◆◆◆
プルミエールはサレたちから少し離れた位置から攻撃を放っていた。
そしてまた、サレの左腕が飛び、〈神を殲す眼〉の不発と、アテナの反撃に見舞われたのを見て、
――盾ね。
さらにアテナの抜け目のなさにも気づいていた。
――射線に重なっているわ。
アテナが盾にしたの『サレの身体』だった。
さっきの矢の一撃から逆算してこちらの射出位置を把握し、ちょうどその射線にサレの身体を割り込ませるように位置を調節したのだ。
当然、こちらが動けばその盾も意味をなさなくなるのだが、
「――」
動かなかった。
足が、一歩すら。
満身創痍とはこのことかと、内心で朦朧としながら思い浮かべる。
どちらにせよ、こちらが動いてもアテナが再びサレを盾にするように位置を調節してくるだろう。
その点には絶対的な信頼を抱ける。戦神アテナがそういう次元の存在であることを、この戦闘でよく思い知らされたからだ。
これが限界だった。
集団戦を理解し始め、それらしい連携を行うようになっても、まだ熟練者とは呼べない。
まして、戦神を相手にするには自分たちは拙かった。
「フフ――」
でも、
「だからって抗わないのは、私たちが一番やっちゃダメなことなのよ」
プルミエールは霞みがかかり始めた視界にサレの背中を当てはめ――
弓を構えた。
頭が破裂しそうな頭痛を感じながらも、右手に天術式で作った矢を装填し、震える指先を叱咤しながら弦につがえる。
肘を身体横に大きく張り、弓を胸に近づけ、地面と垂直に構える。
最後に照準をもう一度だけ確かめて、
「撃つわ」
言った。
どうせ、ほうっておけばサレは死ぬ。
「撃ってあげる」
だから、
「敵に殺されるくらいなら――」
目を見開き。
剛健たる男の背を視界にはめ。
「――『私』に殺されなさい」
撃った。
◆◆◆
サレの耳は、わずかな音を聴き取っていた。
自分の後方から、何かが風を切って走ってくる音。
瞳はアテナに向き、今にも彼女が剣でもって自分を貫こうとしている姿を捉えている。
――使うべき、使わざるべきか。
生存本能と、戦闘理性がせめぎ合った。
血の涙に従うか。それとも――
――否、使え。
サレの中の天秤は、戦闘理性の方――言い換えるなら、その『勝利への執着』の方に傾いていた。
勝利という結果への貪欲な欲求。
その時にはサレの中の生物的な防衛本能は『壊れていた』。
タガの外れた勝利への欲望によって、越えてはならない一線を越えようとしていた。
そして次の瞬間、サレの後方から近付いてきていた何かが、サレの身体を貫いた。
金色の矢だった。
◆◆◆
――撃った。あの天使、本当に撃った。
そんな驚愕の言葉を思い浮かべていたのはサレではなくアテナだった。
剣を刺しこもうとした瞬間に、その対象である魔人の腹をぶち抜きながら、多量の魔人の血を纏ってなお突き進んでくる矢があった。
金色の矢だ。
――仲間を巻き込んだ捨て身。
単体での捨て身ではなく、複数人で行う捨て身だ。
「くっ……!!」
アテナがこれまでの観察の結果として得た情報の一つは、〈凱旋する愚者〉の繋がりの強さについてだった。
不利を承知で、非戦を願うものを戦況から遠ざける。
その際に生まれる戦の負債を、他の戦える者が不平もいわずに背負っていく。
そういう要素がこの闘争のところどころに表れていた。
そしてそれゆえに、彼らは仲間の負傷に敏感だ。
死の匂いにはもっと敏感だ。
だから、捨て身は結局個人の判断のもとに行われるものだった。彼らにとっては。
捨て身の原因を他の者に押し付ければ、その者が発狂しかねない。
戦に際して彼らは冷酷に徹しきれないし、無情にもなれない。
だから、口ではどういっても、味方を巻き込む攻撃は彼らにはできない。
そう思っていた。
だのに、
「本当にやったのね……!!」
魔人の腹部を貫いて飛んできているのは仲間の矢だ。
――当たる。
経験と観察と、それによる予想を裏切られた攻撃に、アテナの超反応がわずかな遅れを見せる。
魔人の腹から現れた矢は、とっさに身体を傾けたアテナの右上腕をかすめ、その腕の内側に大きな裂傷を生み出し、そのまま猛然とした勢いで後方へ吹き飛んでいった。
――傷が。
傷がついてしまった。
アテナの血の気が引く。
上腕についた裂傷から噴き出る鮮血を見て、血の気が引き、身体の内から震えがきた。
言い訳のしようもない、明白な『傷』だ。
右手の握力がふと弱まって、握っていた剣が地面に落ちていく。
落ちた剣がカランと音を立てて地で弾んだ頃になって、アテナは力なく前を見た。
そこには、
「――」
ぽっかりと空いた腹部の穴とその口元から、多量の血液を噴き出しつつ前進してくる魔人の姿があった。
よくよく見れば、その目元からも血の涙があふれている。
一分も経たずして失血死しそうな状態だ。
なぜ立っていられるのかさえ不思議な状態。
いっそ死体の方がまだ健やかに見えかねない姿だが、
「――」
その男が確かな一歩を踏んでくる。
きっちりと閉じられた口元の端からは、それでもなお赤い雫が噴き出し、こぼれ、地面に赤い花を作っていく。
――恐ろしい。
その姿に、アテナは畏怖を抱いた。
何が彼をこうもつき動かすのか。
死が恐ろしくないのか。
「なんなのよ……」
精一杯の声をあげた瞬間、魔人の手が伸びてきて、首を掴まれた。
そして、そのまま凄まじい膂力で身体を片手で持ち上げられ、
「■■■」
魔人の口から言葉が絞られた。