92話 「終幕仕舞」【中編】
視界が否応なく空を映しだした。
猛烈な勢いで右腕を斜め下にひかれ、身体がねじれながら地面に近づく。
疾走してきた勢いと、獣人系人狼の膂力が加算された引っ張りの力は、アテナの不意と相まっておもいのほか容易に彼女の身体をひっくり返した。
アテナの身体が地面に叩き付けられ、その影響で動きが止まる。
その瞬間に周囲の愚者たちが一斉に動きを開始した。
「イリア――!!」
真っ先にあがったのはサレの雄叫び染みた声だった。
サレが呼ぶのは、今現在でも降り続けているこの碧い雨の主だった。
碧い雨は、アテナの不可視術式に対する即興的な対応策として猛威をふるってはいたが、今のところそれ以外の脅威は見せていない。
直接的な害を及ぼしてはいなかった。
真っ向からの戦闘者がそれをやったのではかえって不気味にも思えただろうが、それまで戦闘に参加していなかった年端もいかぬ少女がやると、その容姿も相まってわずかな思考の弛緩が生まれる。
あんな年端もいかぬ少女には人を真っ向から害する覚悟など持てない。
これまで後方で戦線に参加せずに留まっていたのは、非戦に傾いた意志の持ち主だからだ。
だが、次の現象を視覚に捉えて、アテナは前者の思考を即刻取り消した。
アテナの身体が地面と激突し、その衝撃に若干のめまいを感じながらも即座に起きようとしたその瞬間、それまで降り続けていた『碧い雨』が一瞬のうちにパタリと止んだ。
わざわざこちらの不利を帳消しにしてくれるとはなにごとか、とアテナは思ったが、それは別の攻撃の予備動作に過ぎなかった。
「っ――!」
それはまるで『槍』。
『碧い水の槍』だった。
雨は止んだのではなく、不自然な動きで宙空を泳いで、一点に集まっていたのだ。
辺り一帯にふり続けていた水珠が、続々と空中の数点に向かって集まり、巨大な水弾になり、そしてその流体質な身体を可変させて、ついに槍のような凸型に形状を変えた。
いっそ幻想的な美しさすら見て取れるその槍は、しかし鋭すぎる切っ先に洗練された害意を顕現させている。
それが五本。
アテナの身体に狙いを定めて先端部を微動させていた。
「やってくれるわね……!!」
その水槍の形成をアテナが確認し、刹那、一本目がアテナに襲い掛かっていた。
猛烈な勢いをたたえて真上から襲いかかってくる水槍。
「くっ!」
まだ右手は手首のあたりで人狼に掴まれているらしく、とっさの動きに反応できない。
この状況で水槍以外を見ている余裕もなかったため、アテナは触感でそれを察知しながら、一本目の水槍を左手の大盾を掲げることで防ぐ。
盾と水槍が真っ向から衝突し、硬質な音をあげるが、盾と衝突した水槍はしばらくしてもとの柔らかな水珠群に飛散し、アテナの盾と身体に覆いかかった。
「意外と脆いのね!」
どうやら盾で遮りさえすれば問題はないらしい。
最高神格を有する〈戦神の盾〉を貫かないならば、当分の身の安全は確保できたものだろう。
そうアテナは胸中に安堵を抱いた。
次いで、二本目の槍が斜め上から角度をつけて襲いかかってくる。
その後尾には、すかさず三本目も滞空していて、
――同方向からの連続攻撃。
槍の動きは直線的だ。
それならそれで、残り四本もあるのだから四方からの攻撃や挟撃など、少し工夫を凝らしてもいいものを。馬鹿正直に同方向からの攻撃にこだわるのはあの少女が戦闘者としてまだ未熟だからだろうか。
思いながら、その二本の槍を盾で防ぐ算段をつけ、アテナは今度は自分の右手を凄まじい握力でつかんでいる人狼に目を向けた。
瞬間の攻防の最中、槍から目を離す余裕がアテナに生まれていた。
「放しなさい、狼」
「――やだ」
口角をつりあげて言うシオニーを前に、アテナは少しむきになったように眉尻をあげて、
「刺し殺すわよ」
右手首の捻転と器用な指の運動だけで剣を逆手に持ち替え、同じく手首の稼働を最大限に使い、逆手に持った剣の刃部分をシオニーの腕に近づけていく。
ちょうどその頃、予想通りに二本目と三本目の水槍が盾と激突したようで、三度の安堵を胸中に抱きつつ、さらにアテナの意識はシオニーに集中した。
だが、三本目の水槍が盾にあたった頃になって、いまさら人狼が、
「それは怖いから、やっぱり放すよ」
唐突に掴んでいた手の力を緩め、言葉どおりにアテナの右手を解放した。
「――は?」
「ん? 放せって言ったのはそっちだよね?」
雨に濡れて湿気を含んだ銀髪で顔半分を艶めかしく覆い隠しながら、銀の人狼が微笑を浮かべる。
なんとも魅惑的な微笑であったが、アテナの関心はこの人狼の行動の謎を解くべく別の方向へと彷徨っていた。
どこから、なにが、どのようにして。
命さえ懸けてこれまでこちらに向かってきた愚者たちが、その執念が、いまさら怖じ気に帰するわけがない。
そんなことを考えながら、身体の自由が戻ると同時に無意識的に体勢を立て直そうとした。
思考のさらに一片では、先ほど形成されていた水槍の四本目と五本目の動きについても考えつつ――
「重っ――」
そこでようやくアテナは異変に気付いた。
体勢を立て直し、それまで地面を支えの一部として構えていた左手の大盾をもたげた瞬間に、その盾から伝わる異常な重さにアテナは気付いた。
支点を使わずに独力のみで構え直して初めて気付く妙な重量。
盾が重すぎる。
人狼への注視が外れたことで、まともな感覚が盾の方向に行き渡ったゆえの気付き。
アテナは即刻盾の表面に目を向けて、ようやく異変の正体を知る。
先ほどアテナの盾と衝突した二本目と三本目の水槍が、先端部のみを柔らかなクッションのように変性させて、アテナの盾に引っ付いていた。
まるで川辺の蛭か何かのように、盾の表面にひっつく槍。
槍と形容する所以たる先端の鋭さはもはやないが、ともあれ、その槍のような何かはアテナの盾に器用にくっつき、さらに三本目のそれが二本目の槍の尻部分に吸着していた。
「な、なにこれ気持ち悪いんだけど!!」
振り払おうと盾を揺らすと、盾にくっついた水の柱は強力な粘着性と収縮性を発揮してふらふらと舞い、しかし決して盾から離れようとしない。
そのうえ周囲の水気を吸ってさらに巨大化していく。
すると、今度は四本目の水槍がアテナではなくその盾にくっついた水柱を目がけて飛翔した。
そして命中し、
「っ!!」
アテナの盾にさらなる重量を加算する。
そこには『水の道』が出来ていた。
アテナの盾に吸着し、膨大な水気を吸ってぶらぶらと伸びる不気味な碧い水の柱。
巨大な半透明の蛭のようなそれは、アテナの動作につられて微動する。
――こんなもの。
盾を投げ捨てればいい。
右手の〈戦神の剣〉で割断してしまえばいい。
アテナの脳裏に即座に選択肢が思い浮かぶ。
身体の自由は戻っているし「もう盾がなくても」と思う節もあった。
だが、そこで最後の水槍――五本目の水槍がアテナの視界に映って、
――最後の槍を盾で止めてから、使い捨てにするべきね。
判断を下す。
だが、アテナの予想に反してその五本目の槍は飛翔してこなかった。
これみよがしにふわふわと滞空するばかりで、一向に飛んでくる素振りを見せない。
いいようにじらされていることに自覚が及んだ時、アテナの頭に血が上った。
が、そこで同時に起こった次の愚者たちの行動を見て、彼女の内心は焦りを灯す。
『青雷を纏った鬼』が、その電光のほとばしりに違わぬ速度を保ってこちらにつっこんできていた。
鬼の瞳は当初こちらを見ていたが、すぐさま視線が揺れ、その瞳はある一点をみつめるようになる。
鬼の瞳はアテナの盾から伸びた水柱――その『水の道』の端をみつめていた。
「あ――」
――離せ。
すぐに離せ。
盾を離せ。
アテナの頭の中に警笛が鳴り響く。
一本目の水槍で盾の表面に塗布するように撒かれた水気。
二本目と三本目、さらに四本目で形成された雷伝導の水の道。
警笛の認知と同時に、アテナは脱力するようにして最速で、その左手に持っていた盾の取っ手から指を離した。
そしてすぐさまその場を離れようと足に力を込める。
しかし、
「くっ!」
そうはさせないとばかりに、これみよがしに滞空していた五本目の水槍がその頃になって発射され、アテナの身体の直前で『弾け散った』。
身の内にためこんだ膨大な水気をまき散らすように、アテナの身体の直前で弾けた水槍は、その水しぶきでもって、離れかけたアテナの左手と盾の取っ手を再び細い水の道で『繋いだ』。
アテナが思い切りその場から動けば切れてしまいそうな水の道。
だが、アテナの足が地を蹴るより先に、それは来た。
盾に繋がれた長い水柱の先端を、青雷を纏った鬼の手が捉え、
「ビリビリじゃぞ――!!」
その水の道を青雷が伝導した。
◆◆◆
碧い水の道を、青い雷が走る。
「っ――!!」
そしてその青雷はアテナの全身に一瞬にして走り、瞬間、アテナは言葉にならぬ声をあげた。
「ぬっ、やはり保険をかけておったか」
だが、トウカはその様子を見て首を傾げた。
伝導した青雷はアテナの身体の表面をなぞるようにして巡ったが、その身体には焼き痕一つ残していなかった。
不自然に『表面のみ』をなぞっただけで、決して内部にまで浸透しようとはしていなかったのだ。
まるでアテナの身体の表面に展開されていた透明な膜だけを焼き尽くしたみたいで。
「そりゃあね。多少はビリビリしたけど」
アテナは青雷が身体を伝って地面に抜けていくのを待ったあと、少し息を荒げながらも一定の余裕を示すようにして言葉を紡いでいた。
「ふうむ、今一歩か。わらわの固有燃料も切れよったし、いざという時にうまくいかんもんじゃなぁ」
小さくため息をついたトウカが、やれやれと肩を揉みほぐしながら構えを解く。
臨戦態勢を解いたかのような仕草で、そのままトウカは踵を返した。
「あら、逃げるの?」
「勝てぬ戦はせんよ、わらわは」
「嘘ね」
「まあ、どうとでも言うが良い」
片手でひらひらと返事をするトウカの後姿を見て、アテナはその背を追おうとした。
――〈鎧神ライラス〉の防護膜を焼き尽くした代償は払ってもらわないとね。
そう内心で思いながら、
「そうじゃ、一応言っておくと『空』には注意した方が良いぞ。わらわは勝てぬ戦はせんが、意気地が良くないので悪あがきの悪戯はするからの」
ふと飛んできたトウカの言葉にとっさに反応して、アテナは視線を上へと向けた。
そこには、
「水――」
一粒の、わずかな水滴があった。
その存在を確認した時には、アテナの腕のすれすれにまでその水滴は落ちてきていて。
アテナはその水滴が微細な『青い発光』を見せているのを見て、
――まさしく悪戯ね……!
のちに来る衝撃に身を固めた。
そうして、
青い雷をわずかに纏った小さな水滴がアテナの腕にぽたりと着弾し、次いで、
「――!!」
アテナの身体をしびれが走った。