91話 「終幕仕舞」【前編】
サレが一瞬振り返った時にその視界に映っていたのは、いつの間にか前線近くまで前に出てきていたアリスの姿だった。
二勢力の境界線、視線が隙間を縫った先にかすかに映ったくすんだ黒髪の少女。
彼女は色の薄い赤の盲瞳をまるで見えているかのようにサレに向けていた。
そして、
『つたえます』
サレが振り返っていた数瞬のうちに、彼女の唇が音のない言葉を紡いでいた。
◆◆◆
ギリウスがぎりぎりのところで時間を稼いでいる間、サレはアテナに悟られないように極小声で言葉をつぶやいていた。
不自然さを少しでもぬぐおうと、アテナの隙を伺う素振りを見せながら、皇剣片手に彼女の周りを回る。
途中、フラつくプルミエールの傍を通る瞬間に、
「『合わせられるか』」
素早い口の動きで、ただそれだけを彼女に訊ねていた。
心配は当然ある。
だが、唯一いまだに神格を有する攻撃を放てる彼女の力は、サレの一手に必要な力だった。
プルミエールはサレの問いかけに、
「当然じゃない。私を誰だと思ってるの。変な遠慮したら許さないわよ?」
笑みを浮かべて答えていた。
身体はかすかに震え、笑みにも力はない。
だが、プルミエールの声は力強かった。
「じゃあ――」
だから、サレはプルミエールに指示を出した。
彼女の覚悟に対し、誠実に、率直に。
一言二言、短い指示を与え、再びサレはプルミエールの傍から離れてアテナに近接していく。
その場に残ったプルミエールは、
「ちゃんと仕留めなさいよ? ――サレ」
かけていくサレの後姿に柔らかな笑みを向けてそうつぶやいていた。
◆◆◆
「――だそうです」
「よくもこんな状況でサレの声を拾えるな、アリス」
「ものすごく疲れますよ。正直もう何もしたくありません」
アリスは額に汗を浮かべ、マリアとトウカに守られながらギルド集団の中心で言葉を紡いでいた。
「それにしてもわらわにさらに仕事を押し付けるとは、サレも副長らしいことを言い出すもんじゃなあ」
トウカが着物を片手で整えながら苦笑する。
「まあ、これで最後ということなら仕方あるまい。倒れるまでやってやろう」
苦笑の後に、抜き身のまま持っていた刀を再度下段に構え、目前で敵と味方がぶつかり合っている密集状況を眺めた。
「となると――ここを抜けねばならんな。サレの提案を実行するにはもう少しアテナに近づかねば。……ところでイリアにも指示が出ていたようじゃが、その……よいのか?」
トウカはふとイリアとマリアを交互に見た。
「いいのか、とはまた含んだ言い方をするのね、トウカ」
「いやぁ、わらわそこそこ気使うほうじゃし、その……な?」
「な、じゃありません」
「機嫌悪いとめちゃくちゃ厳しいの、ぬし……」
マリアはイリアのすぐ傍で細剣を構えつつ、不意の攻撃に備えて適度な緊張状態を維持していた。
顔からは普段の柔らかな微笑は消えており、淡々と周囲を観察する鋭い視線が目立つ。
そんなマリアだったが、トウカと会話をこなしているうちにどことなく緊張もほぐれてきたようで、
「はあ……そうですね、本当は賛成したくありませんけど、イリアの意志を尊重するわ。――今はね」
ため息と共に眉間のしわを緩ませ、イリアを見ながら言っていた。
当のイリアは金色に輝く髪をふわふわと宙に浮かせたまま、にっこりと笑みを見せ、
「大丈夫だよ。私やるよ。超やる。水で『道』を作ればいいんだよね?」
「そうじゃ。できれば他の水気からは独立しているとなおよいの。巻き添えを喰らうのはサレかギリウスかプルミじゃが、前者二人はともかくプルミにはきつかろう」
「あの女の人が止まってくれれば作れるよ」
イリアは笑みを浮かべて言った。
その言葉に対し、トウカも安心させるように笑みを浮かべ、
「よしよし、頼むぞ。ならばアテナの動きを止めねばな。――シオニー! クシナ!」
トウカが不意に声を張り上げ、二人の名を呼んだ。
すると、少しの間をおいて乱戦の最中から一匹の銀狼と、白い猫耳を生やした着物姿のクシナが現れてきて、
「ワウ」
「人型に戻ってから喋れ駄犬が!」
「うむ、元気そうじゃな」
相も変わらぬ仲の悪さを見せていた。
クシナは銀狼形態のシオニーの鼻っ柱を手で押さえ込みながら、気だるそうにトウカに訊ねる。
「で、なんだよ。あんまり俺たちが前線から離れるとあいつら押し込まれるぞ。本当にあっちのギルド長ヤってきたんだろうな、トウカ。向こうの士気あがってるぞ」
「ううむ、少なくとも戦闘不能にはしたんじゃが、もともと戦馬鹿の集まりみたいじゃし、あんまし効果ないみたいじゃなぁ」
トウカは困ったように頭をぽりぽりと掻くが、すぐに開き直ったように両手をあげ、
「ま、あとちょっとなら持つじゃろ?」
「ご愁傷様だな、あいつら」
クシナはトウカの言葉を聞いて、売りに出される家畜を眺めるような目でギルド員たちを見た。
「二人には別の指示を与える。サレからの直接の言葉ではないが、まあ間接的にはそんなもんじゃ。サレの指示を受けてわらわが判断した。ぬしらにはギリウスへの加勢にいってもらう。今すぐにじゃ」
「マジかよ、またあのバケモンの近くに寄るのかよ」
「ワウ!」
「うるせえ駄犬! 分かってるよ! 必要なんだな!?」
「うむ。イリアが精霊術式でアテナを捉えるために、少々奴の動きを止めねばならんのじゃ」
「なんだかよくわかんねえけど、やれっていうならやってやるよ」
「頼む。シオニーもな」
トウカが銀狼形態を維持したままのシオニーの頭を撫でながらいう。
「特別褒賞としてあとでサレに撫でてもらうとよいぞ」
「……」
何気ない言葉に、一瞬シオニーの身体が硬直し、しかし次の瞬間にはその尾が激しく左右に振られていた。
狼の形態であっても変わらずに分かりやすい仕草だ。
「顔そっぽ向いてるからたぶん『べ、べつにそんなこと……』とかちょっと照れてるのかもしれんが尻尾が露骨じゃぞ、シオニー」
次いでトウカはクシナを見て、
「ついでにクシナも撫でてもらうか?」
にやにやしながら言うと、今度はクシナが身体を硬直させ、すかさず少し頬を上気させて、
「は!? なんで俺がサターナに撫でられなきゃいけないんだよ!!」
裏返り気味の叫びをあげていた。
「ほう? 本当によいのか? あれれぇ? ぬしも結構サレのこと気に入って――」
「ぶ、ぶっ殺すぞトウカ!!」
「ううむ、やはり犬と違って猫は内面が汲み取りづらいのう。なかなかボロを出さん。まあよいか」
「おい、なに一人で納得してんだ」
怒りからくるものなのか、照れからくるものなのか、いまいち判断しづらい顔の赤らみをたたえながら、クシナがトウカの胸倉に掴みかかったが、
「く、くそっ、あんまり追求してる時間がねぇ。覚えてろよ!」
「おお、クシナが三下の悪役みたいな捨て台詞を……」
「トウカ? あなたもそろそろ真面目になりましょうね?」
「……はい」
マリアの介入によって一旦その場は収まった。
収まったところですかさず、
「駄犬、背中貸せ。舞神の加速加護で激戦部を抜けてもいいが、歩調維持するのがだるい。お前の方が速いだろ」
「……ワウ」
クシナが言うと、しぶしぶといった体でシオニーがその背をクシナに向けていた。
クシナはその背に跨り、もう一度だけトウカを睨み付けて、
「――っ、覚えてろよ!」
「二回言いよったな。――うむ、覚えとるよ」
言葉のあとに銀狼が疾走を開始した。
駆けていく二人の後姿を見ながら、
「あれ図星じゃろ……」
トウカが苦笑しながら言い、
「あなたも行きなさい」
「う、うむ!」
マリアに肩を強めに叩かれてとっさにトウカも駆けだした。
その場に残ったマリアとイリア、そしてアリスは、自分たちを必死で守っているギルド員の背に再び視線を移す。
「もう少しよ! 踏ん張りなさい!」
マリアが鼓舞の声を張り上げた。
◆◆◆
「も、もう無理!! もう無理であるよ!! 我輩死ぬ!! そろそろ死ぬであるよ!!」
それぞれが動き出した頃、ギリウスがついにあたふたとしながら焦燥のこもった叫びをあげていた。
双腕による連撃に加え、翼撃や尾撃、高速飛翔からの一撃離脱。様々な攻撃方法でアテナと対峙していたギリウスだったが、アテナの対応力がみるみるうちに上昇していくのを間近で体感しつつ、徐々に手に負えなくなってきているアテナにたいして諦念じみたものを感じずにはいられなかった。
とてもではないが打撃は当たりそうにない。
一方で高速飛翔からの一撃離脱にさえも軽々と〈湖上の乙女〉で追従してくる。
戦慄だ。
ギリウスでさえも〈戦神〉には戦慄を覚えた。
どこに離脱してもおっかけてくるのでは一撃離脱戦法に意味などない。
「まるで回避行動にならないのである!」
「あんたが万全ならこうも簡単にはいかないんだろうけど、生憎敵の主力を疲労させるのも戦の術の一つだからね。――っと」
アテナがギリウスの右拳を大盾で防ぎ、すかさず前進して竜の大腿部に逆手の剣を突き刺した。
「ぐぬっ」
「いい加減倒れなさいよ」
切り口から鮮血が噴き出し、アテナの剣を赤に染める。
だが、それでもなおギリウスは倒れない。
あろうことか、突き刺された方の大腿部に体重を乗せて、左拳をアテナに向けて振るった。
アテナはギリウスの拳が当たる前に、それを察知して引き剣を抜き、その場から離脱する。
「戦術も戦法もあったもんじゃないわね」
言いながらアテナは思った。
これは野生動物的だ。
ただひたすらに前へ前へと、身体をいとわずに猪突してくる野生動物。
否、いっそ野生動物よりもたちが悪い。
力の差を認識しながらも逃亡しようとしないのだから。
かすかな音をたててすかさず治りはじめるギリウスの大腿部の傷をみながら、アテナは内心に思った。
――もう少し。
傷の治りはだいぶ遅くなってきている。
竜族の生態能力もここにきてようやく限界に近づいてきたらしい。
内部にため込んでいた栄養素を使いきったとか、そういうところだろう。
ともあれ、もう少しだ。
アテナが剣を振るってその刀身に付着した血液を取り除き、すかさず追撃の姿勢を見せる。
だが、
「――きたわね、魔人」
すぐさま彼女は視線を真横に泳がせた。
踏み込もうとしていた片足のつま先を、ギリウスではなく彼に対して真横に向けて、身体を捻転させる。
目視。
その先には、
「来たとも、戦神」
やや濃さの落ちた金色の術式剣を上段に振りかぶったまま、跳ぶようにして近づいてきていたサレの姿があった。
通常の相手ならば奇襲にもなったであろう唐突な接近からの攻撃だが、いまさらアテナの意識外からの攻撃とはならない。
サレの上段からの振り下ろしを、アテナは左手の盾を上部に構えて軽く受け、即座に右手の剣を無造作にサレに向かって突き刺す。
振りかぶって刺すというよりも、ほぼノーモーションで空間に『差し出された』剣の切っ先が、静かに、しかし凄まじい速度でサレの心臓付近に迫る。
「くっ」
切っ先はわずかにサレの胴部の服を食いちぎって、残りは空を貫いた。
サレは即座の捻転を見せ、切っ先をギリギリで避けたあと、剣を上段に再装填する。
再びの振り下ろし体勢だが、
「ほら、足元がお留守よ」
アテナはサレの足をかかとの方向から払うことで対応してみせた。
まるで落ちていた小石を蹴りだすかのような、軽い蹴撃だ。
自分に対して横腹を見せるように真横に身体を傾けていたサレの後ろ側から、なにげない動作で足を払う。
サレの足はそんな軽々とした足払いを受け、
「馬鹿力が!」
「あんたに言われたくないわ」
思い切り足を払われたかのように地から離れ、支えを失ったサレの身体が宙に浮いた。
尻から地面に落ちたサレは上段の構えを解きながら受け身を取り、立ち上がるより先にまずは横に逃れようと再び身体を回転させようとする。
同時。
真上から降ってくるアテナの剣の切っ先がちょうど視界の端に映って、胆が零下にまで冷えた。
切っ先が頬をかすめる。
「ちっ」
剣の振り下ろしを外したアテナが悪態をつき、しかしすぐさま次の行動を起こす。
盾による押しつぶしだ。
地面に這いつくばりながらその場を離れようとするサレに巨大な盾が振り下ろされる。
そして次の瞬間――
「――っおらぁ!!」
アテナが振り下ろした盾が何者かに『蹴り上げられて』弾かれていた。
アテナがとっさに自分の盾を足蹴にした者の顔に目を向けると、
「さっきの白い猫――」
白の三角耳と、くねくねと柔らかく宙を舞う白尾をつけた着物姿の女がそこにいた。
クシナだ。
だがアテナは大した動揺を見せない。
視線がクシナを捉えた瞬間、すでに右手の剣が迎撃に動いていた。
凄まじい速度で戦神の剣がクシナに差しこまれる。
一方のクシナは、
「っ――!」
舞った。
ゆったりとした着物の袖を揺らし、わずかな歩調を刻むと同時、その身が高速で弾かれる。
アテナの剣が空を切り、思わず彼女は目を丸めた。
剣が空を切ったことにではなく、目の前の女がとった歩調を見ての驚きだ。
「ユーカスの加護かしら……」
――仕方ないか。
アテナはいくらかの逡巡をめまぐるしく動いた思考の中で経て、そんな言葉を胸中に吐いた。
戦神系の上位神族として、戦神の領分に身をおく神族の加護供給を意識的にやめさせることはできる。
試したことはないが、おそらくできるとアテナは確信めいた思いを持っていた。
一方で、
――ユーカスは仕様がないわね。
舞神ユーカスは別だ。
彼女自身がいうように、ユーカスはもともと芸能系の神族だ。
ゆえに、その『権限』は芸能主神の方に多くある。
つまりユーカスに限っては自分の一存で強硬的な命令を下せない。
「まあでも、それだけじゃあねぇ」
見たところ、今の白猫が踏んでいた歩調は神格術式ではなかった。
ただのユーカスの基本歩調だ。
獣人系の異族であることをかんがみても、おそらく加護のみしか与えられていないのだろう。
ならば特に問題はない。
「それに、単調よ、あなたの攻撃」
「うっせえ!!」
間をほとんどおかずに追撃を繰り出してきたクシナの爪撃を、アテナは軽々と屈んでよけながら、攻撃後の足に狙いを定めて剣を突き刺す。
しかし剣はぎりぎりのところで真横から差しこまれてきたサレの術式剣に阻まれ、
「次から次へと……!!」
今一歩のところでそれぞれを仕留めそこなうことに、アテナは苛立ちを覚えていた。
ぎこちないフォローの連続。
連携の拙さは見ていられたものではないが、一つ一つがやたらと高速剛撃で、最後の最後に命の前に立ちはだかる。
「邪魔よ!!」
苛立ちが高まり、思わず空気が震えるまでの怒声をあげるアテナ。
ここまでの長かった戦闘で積もりに積もった彼女の苛立ちが、そのたった一度の無駄な怒声を引き出した。
そして、その瞬間に、
「ガル――」
捨て身の様相を呈して、アテナの背中側から猛然と迫ってきていた一匹の銀狼が、彼女の身体を目と鼻の先に捉えていた。
「小賢しい!!」
アテナはなおもそれに反応する。
振り向きざまに剣を振り下ろし、だが――
「――」
自らの怒声によるわずかな反応の遅れが、銀狼にほんの少し剣を避ける隙間を与えた。
銀狼は振り下ろされてきた剣を両の眼で目視し、身体を無理やりにひねっていた。
軸線を必死で横にずらした影響で四足がバランスを崩し、前脚がつんのめってそれまでの速度を抑えきれずに身体が宙に浮く。
浮いて、身体もろともアテナにぶつかろうとしていた。
横へずれた影響で、当たるか当たらないか際どいところだった。
アテナもそれを察知し、衝突を避けようと身を揺らす。
――もう少し……!
内心で思った瞬間、不意に銀狼の身体が光に包まれ、
「捕まえたぞ!!」
アテナの身体を通り過ぎようとしていた銀狼が瞬く間に『人型』に変身し、その人型の腕を伸ばしてアテナの右手を掴んでいた。
そして、前に飛ぶ勢いのままアテナの右手を思い切り引っ張り、
「ちょっ――」
自分の身体もろともアテナを地面に引っ張り倒していた。