89話 「愚人の意志、戦人の決意」【前編】
「なんで雨なんか降ってくるんだ?」
「さあ? でも汚れが落ちるわね、涼しいし、結構いい感じじゃない?」
「うむ。それにしてもこの雨なんか碧くないであるか?」
ギリウスは空から降りそそぐ雨を両手の受け皿ですくって、そこにたまる雨水の色をまじまじと見つめながら言った。
ギリウスの問いにサレとプルミエールも同じ動作で雨水をすくい、
「確かに碧いな」
「ナイアスに流れてる湖の水と同じ色ね」
「言われてみれば確かに」
そんな声をあげていた。
少なくとも碧い水なんてものはそれ自体が珍しい。
「雲もないし、なんかおかしいわね、これ」
「だがしかし、この雨は――」
ギリウスがふと何かに気付いたように視線を横へと映した。
つられるように向いた先にあるモノが見えて、サレはギリウスの言葉に続けるように紡ぐ。
「――俺たちに味方してくれるらしい」
サレたちの視線の先には、空からの碧い雨を受けて不自然に水滴を反射する透明の『動く物体』が見えていた。
「透明なのに見えるってのもおかしな表現だが――」
深く考えるまでもなくそれがありえることを三人は知っている。
不可視の術式を使える神族がいる。
なれば、自分たちには透明にしか見えない物体が存在することもまた然り。
「天候が思わぬ味方をしてくれたなぁ――!!」
そしてサレは真っ先にその透明の物体へと金色の術式兵装を構えて猪突していった。
◆◆◆
「――ああ。これ、あの子のおかげね」
「あの子?」
プルミエールはサレの後姿を見ながらその手に術式大弓を召喚し、同じく透明の動く物体に狙いを定めるように構えながらも、ふと視界の端で光がちらついたのを見て、ほんの少し視線をそちらへと移していた。
ギリウスもサレをフォローすべく大翼を雨の中で羽ばたかせたが、プルミエールの言葉を受けて同じように周辺を見回した。
すると、
「あれは……イリアであるか?」
「そうね。――ぷぷっ! 見なさいよあのマリアの顔! マリアがしょんぼりしてるわ! これいいネタね!! マリアのあんな顔めったに見られるもんじゃないわ!!」
プルミエールが高笑いを始めた。
「ま、まさしく外道であるなぁ……」
「だって私マリアにやられっぱなしなのよ!! いいじゃない!! 少しくらいマリアにも弱みがあったっていいじゃない! 愚魔人が私たちのフォロー信じて一人でツッコんで、でも私たちがそれ無視して危ない感じになるよりも、マリアの弱みを握る方が重要よ!!」
「サレの命はマリアのしょんぼり顔より軽かったのであるか……!!」
この状況でなお、仲間の弱みを見つけて喜ぶブレなさはもはや神の粋に達していると言っても良いのではないか、そう思いながら、ギリウスは再び金色の髪と精霊眼を閃かせている少女に目を向けた。
「精霊術式であるか?」
「眼を見ればわかるでしょ。金色の精霊眼なんだから、精霊術式に決まってるじゃない。天力燃料とかぶってるけど、なんか関係あるのかしらねぇ」
なんともなくプルミエールが言った。
「そうなると、この水も精霊によるものであるか。――というかこの色で察するに……まさかナイアスの『アレトゥーサ湖の水』をこっちに持ってきているのでは……」
「……ああー……そうかもね」
「お、おお……もし本当なら想像絶する感じであるな……」
「なによ! あの子あんなに高貴だったの!? あっ、ちょっとまって!! 今私の高貴さが霞んできてるわ!? 私より目立つのはだめよ!!」
二人はなんともなく会話しながら、徐々に現状のおかしさに気付いていき、まじまじとイリアを見た。
「お、おい! ちょっとは手伝えよ!!」
すると前の方からサレの悲痛な叫びが聞こえてきて、
「お、おお、すまんである。つい」
「あんたが尚早に突っ込んだのが悪いのよ」
仕方なく二人はイリアから視線を切ってサレへの助力に向かうことにした。
◆◆◆
「あんなのまで……!」
アテナはその雨の異様さに気付き、数瞬のあとにいくらか離れている位置にいた一人の少女の姿を見てそんな言葉を舌にのせていた。
一体此度の闘争で何度驚いたことだろうか。
――神族の優位性が霞むわねホント。
思いながら、アテナは大きく息を吐く。
――まずは落ち着きなさい。
動揺は直に判断力の低下に結びつく。
「――っと!」
そう言い聞かせた瞬間、その動揺をまるで察知したかのように、自分の頭部目がけて一本の金色の矢が飛翔してきた。
アテナは反射的に首を傾け、ほんのぎりぎりのところでそれを避けきる。
矢が飛翔しながら弾いた雨粒が少しだけ頬にかかるが、傷にはならなかった。
「いい加減当たりなさいよ! 高貴な私の矢よ!? 自分から当たりに来ても罰は当たらないわよ!?」
矢が飛んできた方に視線を向ければ、白翼の天使が弓で矢を放った体勢のまま地団駄を踏んでいた。
「馬鹿じゃないの、嫌に決まってるじゃない」
――本当にめざといわね、あの天使。
言いながら、アテナは天使族の絶妙な牽制に戦神として内心で賛辞を贈る。
一瞬の隙とはよくいったものだが、その『意識の隙間』を察知して攻撃を打ち込むことがどれだけ難しいことか。
行為に隙が現れるならまだしも、内心の機微を察知するのはもはや才能に近い。
「この雨じゃ――もう〈闇夜の踊子〉は意味ないわね」
豪雨じみた水量が空から落ちてきて、まんべんなく周囲に降り注いでいる以上、透明化しても身体の輪郭が雨を弾いてしまう。
言ってしまえばそのほんの少しの視覚効果でしかないのだが、今相手にしている敵を思えば、その程度でたやすくこちらの位置を察知してくるだろうとの予想も立ってしまう。
ならば〈闇夜の踊子〉の舞の歩調を維持して移動能力を制限するよりも、
「あとは〈湖上の乙女〉だけでなんとかするわ……!」
そういう手段を取った方が利は大きいだろう。
いずれにせよ、ユーカスに言われた言葉も気にかかっていた。
ユーカスの術式は利便性も高く効力も絶大だが、戦神と芸能神の領域の狭間に存在しているゆえ、主神の威力をして対価の融通が利かない。
ある程度はもちろん利くのだが――
――超過分の対価は払えっていってたものね。
そしてその対価を払うのは自分ではなく、術式の媒体となっているセシリアになる。
――ややこしいわ。
憑依している意志が自分なのだから、という言い訳もあるが、
――そう、結局私は憑依してるだけ。
忘れるな。
この身体はセシリアのものなのだ。
この闘争の本質を考えるに、現状のようにセシリアの意志をほぼ押しのけてしまっている状態もおかしいといえばおかしい。
相手が同じく憑依した主神系神族ならまだしも、ただの異族とあっては『均衡』の矜持に傷がつきかねない。
――まあ、ロキやヘルメスの半神みたいなおかしな神族がでてきてるわけだし、もう気にすることじゃないのかもしれないけど。
ただ、ディオーネがいまだにその旧来の神族の均衡をそれとなく守っている以上は、
「あんたより先に根をあげるわけにはいかないわ……!!」
◆◆◆
「ん? なんか今モヤっとしたものが頬を撫でたような……貧乳のオーラ的な……」
「具体的過ぎるよ! あと僕結構必死だからよそ見とかやめて!」
「そう喚くなジュリアス。なかなか不愉快な感覚だったからな。つい」
◆◆◆
ちょうどジュリアスがヘルメスの半神との攻防を繰り広げながら非難染みた声をあげたころ、精霊術式を駆使し始めたイリアのもとに姿を現した者がいた。
「ふぃー、わらわがんばった。わらわすごくがんばった」
着物をぼろぼろにしたトウカだった。
身に纏っていた激しい青雷はいまでは見る影もなく、時折ばちりと身体の周りで小さな花火のように弾けるばかりで、迫力はあまりない。
「トウカ?」
唐突な来訪者に、イリアは少しだけ目を丸くしてその名を呼んだ。
イリアとマリアを最後方にして、その周りから襲い来る戦景旅団の敵兵から二人を守るように展開している〈凱旋する愚者〉のギルド員たち。
最後の総力戦と呼ぶにふさわしい激しいぶつかりあいの中で、その中心部へと避難でもするかのように一息つきにきたトウカは、黒髪を再び紐で結び直しながらイリアの声に応えた。
「うむ、わらわじゃ」
「サボりじゃないでしょうね? トウカ」
「お、おお、そんな恐い顔するでない、マリア。ちゃんとやることはやったのじゃぞ。向こう方のギルド長打ち負かしてきた」
何の気なしに放たれたトウカの言葉に、マリアとイリアは眼を丸めた。
「え? それじゃあもう勝ったってこと?」
「んー、殺してはおらんからなあ。気絶もしとらんし。まあ、死んでも負けを認めるか怪しい奴じゃったから、完全に勝利したとはいえんかもしれんの。ただ――」
トウカはやや残忍な笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「しばらく『立てはしない』じゃろ。サレ並みの回復力がなければ、当分はな」
トウカが言いながら、イリアをちらりと見たのをマリアは察知して、
「そう。分かったわ。いずれにしても、あの神族に憑かれた第一王女にも勝たないといけないわけね」
「ま、そんなところじゃ。ジュリアスの思惑にはそれなりにそえたと思うぞ。わらわにしてはうまいことやったんじゃから、あとで団子の三十本や四十本はおごらせて然るべきじゃな」
「んん?」
トウカとマリアの間で会話が成立していた最中、イリアだけはよくわからないといった表情で首を傾げていた。
「イリアはべつに知らなくていいのよ。あなたは副長たちのフォローに集中すればいいの。あの人たちがなんとかするまで、周りの皆があなたを守ってくれるから」
「うん!」
快活な返事を返すイリアを見て、トウカとマリアは同じく笑みを浮かべた。