88話 「精霊少女の決意」
「来た」
サレが短く告げる。
その声に、近場にいたギリウスとプルミエールの二人はアテナの方を向き、おもむろに言葉を紡いだ。
「さっきの間に〈神を殲す眼〉とかプルミの弓とか、仕掛けなくてよかったのであるか?」
「どうせ素振り見せた瞬間にアテナは動くわよ。だったらぎりぎりまで戸惑ってもらって、他の愚衆どもに考える時間を与えた方が建設的だわ? それに、そろそろ私も頭痛くて高貴に倒れたい気分なの。無駄撃ちはできないわよ」
「魔眼術式の発動を雰囲気とかわずかな術式紋様の輝きとかで察知してくるアテナが規格外過ぎるんだよなぁ……」
「というかアテナ消えたであるな。これ逃げなくていいのであるか?」
「どこに逃げるんだよ」
「私の高貴な空?」
「どうせ〈湖上の乙女〉で空中を足場にして追ってくる」
「じゃあどこにもいけないじゃない」
「そうだな……」
「つまりどうしようもないのであるか……」
そうして、三人はあたかも余裕があるかのように含み笑いを浮かべ、その場に固まって立ちすくんだ。
その含み笑いがかえって不自然で、
「これ逆効果じゃない?」
「気にしたら負けよ。高貴なら不自然でもなんとかなるわ」
「そろそろ本気でヤバいのであるなぁ……」
言いながら、自分たち以外のギルド員たちによる新たな手を期待しつつ、覚悟を決めるしかなかった。
◆◆◆
――群がってきたわねえ……!
マリアが珍しく勝気な笑みを見せながら、内心でつぶやいていた。
その笑みはいうなればハッタリで。
これまでは後方にいたことや、自分の前で陸戦班員や空戦班員が暴れまわってくれたことが幸いして、自分に対して注意が向くことがあまりなかった。
当然、その注意の散乱を利用して敵の視線を掻い潜るように術式を発動させてきたつもりだが、
――さすがに気付かれちゃったわね。
向こう側のギルドの長がこちらを指差していた。
細心の注意を払っていたにも関わらず、この激戦下でこちらの急所を的確に嗅ぎ分けてくるのはさすがとしか言いようがない。
ああいうのが戦の才能なのだろうとマリアは思った。
「お願い、もう少しだけ私の願いを聞き届けて……!」
マリアは視界にまばらに映る薄緑や茶色の発光体に声を掛ける。
〈精霊〉だ。
当初はもっと多くが周辺に存在していたが、酷使を重ねた結果、徐々にこの場から去って行ってしまった。
自惚れではなく、冷静な客観視として、自分が並みの精霊術師よりは精霊たちに好かれているのは知っている。
精霊族であることも起因しているし、性格や体質が彼らの好みなのかもしれない。
ともあれ、その自分をして精霊が離れていってしまうということは、
「『限界』かしらね……」
どちらにせよ仕様がない。
精霊にかけた声はもう届かないのだ。
こちらに続々と集まってくる敵勢集団を、陸戦班員や空戦班員たちが必死で押さえてくれているが、マリアにはもはや術式によって彼らを補助する力はなかった。
だが、それでも――
「まだよ、まだ諦めない」
術式が使えなくとも、声は出る。指示は出せる。
「もう私を守らなくていいから、あなたたちも彼らの補助を!」
自分の護衛にあたっていた海戦班員たちに指示を出す。
好戦派の中の女性が多く集まった海戦班にあって、彼女たちに前線にでるよう指示を出すのはやや気が引けたが、その覚悟をいまさら問うのもかえって礼を失する。
そしてそのマリアの意気に答えるように、マリアの護衛にあたっていた女性海戦班員たちは力強くうなずき、臆すことなく前進への一歩を踏んでいた。
――ありがとう。
自分はまだまだ未熟なのだ。
自分だけで闘争をどうにかできるとまで自惚れてはいないまでも、もっとうまくできるはずだという上昇志向は消えない。
消してはならない。
迫ってくる敵勢も最後の力を振り絞ってか、大きな雄叫びをあげ、徐々に徐々に最後方のこちらへと向かってくる。
ここを抜かれればあとは非戦組への道しかない。
抜かれれば終わりだ。
戦況が過激化し、もはや後方からの指示の意味さえなくなりそうなほど混戦し始める。
――なら、私も前へ。
指示の意味がないのなら、せめて『壁』になれるように前へ出よう。
マリアは飾り気味に腰に履いていたなけなしの細剣を抜いて、その一歩を踏もうとした。
しかし、不意に自分の服を後ろから引っ張る感触に気付いて、とっさの反応でそちらを振り向く。
すると、そこには――
「もういいよ、マリア」
「……イリア?」
銀緑の髪と透けた右腕を持った人形のように愛らしい少女がいた。
その少女がマリアの服の裾を握っていた。
次いで、少女は困ったような、それでいて嬉しいような、曖昧な笑みを浮かべて言葉を紡いだ。
「――知ってるよ。マリアが私にはこういうことに関わってほしくないって思ってること。だからいろいろ勉強して、無理して、精霊に嫌われるって分かってても何度もあの子たちに願いをかけて、私が何もしなくてもいいように、私が何もしないように頑張ってたこと。――超知ってるよ」
「……ち、違うわ――そうじゃないのよ」
「違わないよ。精霊たちが言ってた。無理してるって。それに、精霊が言わなくても分かるよ。マリアはいつだって私を大事にしてくれるから。みんながいなくなって、私だけ残って、それで泣いてた時もマリアは私を見つけて守ってくれたね。でも、『もういいよ』、マリア。私、自分でやるよ」
「……イ、イリア……だめ……だめよ! あなたは――」
「マリアのおかげでアリスやサレや、皆と会えた。それで毎日楽しくなった。それに、皆は今もこうして私を守ってくれてるもん。もちろん一番はマリアだけど、他の皆のことも私超好きだから。――だから決めたの」
私も皆のことを守るって。
「あなたはまだ幼いのよ! 幼すぎるの! だから『だめ』なのよ!」
イリアの言葉を聞くや否や、マリアは涙目になりながら彼女に訴えた。
イリアの手を握り、これ以上動きを起こさせまいと押さえ、
「あなたの心にこれ以上傷をつけさせるわけにはいかないの! 失って、傷ついて……!! これ以上あなたの心におぞましいものを近づけさせるわけにはいかないのよ!!」
「『お母さん』にそう御願いされたから?」
「違う! たとえ精霊王にお願いされなくたって、私はあなたを守るの……!!」
マリアは心からの言葉を放った。
対してイリアは、マリアの言葉に照れくさそうに笑みを返し、
「そうだね。マリアはいつも優しいから、私のためを思ってるもんね。でも、ごめんね。私まだ子供だから――」
――私もサレみたいに『我がまま』いうんだ。
「サレ、言ってた。我がまま言えって。前買い物にいったとき言ってたよね」
「副長……」
「そう、サレ。だから、私も正直に言うことにしたんだ。あんまり言うとマリアに怒られそうだから、超たまにってことにするけど!」
そうだ、確かにあの〈錬金術師の家〉に言った時、そんな会話をした。
マリアはサレの言葉を思い出し、脱力したように肩を落とした。
「……もう……副長はここぞというときにやってくれますね。……なんなのかしらね、ここにきて過去からの痛烈な一撃をもらうとは思いませんでした」
「サレ超天才だよね! 未来でも見えてたのかな!?」
「絶対適当よ。あの副長にかぎって伏線を張っておいたなんてこと、あるわけないわよ。自分でいったことすら覚えているか……」
「サレ超ダメダメだね!」
◆◆◆
「へっぶし!!」
「この状況でクシャミとかあんたホント愚かね? 愚魔人ね?」
「我輩もたまにメイトと盤上遊戯してる時にコマを吹っ飛ばすのにクシャミするであるよ。負けそうな時によくやる戦法である。まあ駒の位置を覚えられてるのであんまり意味ないのであるが」
「それはまた別の愚かよ」
「そうであるか……」
◆◆◆
「……いいわ。分かった。でも、あなたはいずれ〈精霊王〉になるのだから、私が『ダメ』だと思ったら止めるわね。あなたが精霊たちに嫌われることだけはあってはならないの。王になるまでは、ただの一度でも」
「大丈夫だよ」
「そう……ね」
――イリアなら、そうかもしれない。
でも、
「いいの、私がそう言っておくことに意味があるんだから」
「うん! 超わかった!」
無邪気に言い放つイリアと同じ目の高さにまでかがみ、マリアは彼女を真正面から見据えた。
幾秒か目を合わせたあと、一度だけ彼女の頭を撫で、ついに彼女の身体を解放する。
当のイリアは徐々にせまりくる戦景旅団のギルド員たちを真っ直ぐ見据えながら、一つもひるんだ様子なく、
「サレたちも助けないとね」
一瞥のあとに遠くのサレとギリウスとプルミエールも見て、そして、
「来て、『皆』。私はここだよ」
不意に両手を真っ直ぐに伸ばし、掌を空へと向けて、かすかに腕を上方へ傾けた。
まるで空をやわらかく持ち上げるかのような、そんな仕草。
次いで、
「来て、私の言葉を聞いて」
言いながらイリアは目を瞑り、
「皆を守るの」
言葉のあとに開いた。
その開けた瞳は、通常時の瞳とは一線を画した明度の金色を映し、マリアの精霊眼以上の輝きを放っていた。
しまいにはその銀緑の長い髪までもが輝く『金色』に変色していき、まるでその場にだけ吹く柔らかな風に揺られるように、ふわりと浮きあがった。
周辺にいた者たちはそのイリアの変化に気付いていたが――
彼女の掌が向いている方角――その天空に起こり始めていた『変化』には、まだ誰も気づいていなかった。
◆◆◆
その場に起ころうとしていた変化に誰よりも先に気付いたのは一人の神族だった。
「……ん? 空に圧迫感があるな。なんだ?」
天空神と呼ばれる神族、ディオーネだった。
彼女は独自の感覚網で、自らと縁が深い『空』の変化に気付いた。
半神との攻防の最中に、わずかの隙を得て空を見上げる。
「……碧い水?」
ただ一言、疑問符を含めた言葉をディオーネはつぶやいていた。
◆◆◆
続いて変化に気付いたのは、先ほどの水膜の罠をくらって若干水に対しナイーブになっていたアテナだった。
〈闇夜の踊子〉を発動しながらマリアの息切れを察知し、
――これで本当に万全よね。
もう自分の舞を邪魔するものはいないと、そんな確信を抱いて、ぎこちない笑みを浮かべている魔人と竜と天使に襲い掛かろうとしたところだった。
しかし、またしても――
ふとその顔を冷たいものが撫でていった。
わずかな感触だ。
先ほどの水膜のように顔全体を覆うような感触ではない。
ほんとうにかすかな、一滴の水滴が頬をなでたかのうような感触。
――また……?
思うが、一方で、
――誰が、どうやって?
そんな疑問も抱く。
あの精霊術師は息切れを起こしたはずだ。
本当にかすかな感触だし、今のは気のせいかもしれない。
そう思いながらも、一旦攻撃への予備動作を中断する。
不可視の舞の歩調を維持しつつ、標的である三人の周りを公転するように舞った。
――やっぱり気のせい?
アテナの頬には再度の水滴の感触はなかった。
しかし、そんな安堵を得た直後、ほんの一拍をおいて、
「……は?」
思わずアテナは声をあげてしまった。
水滴だ。
まるで『雨』のように天から勢いよく落ちてくる水滴の群だ。
雲はない。
まばらな薄い雲は先ほどまであったが、今、少なくとも雨を降らせるような雲は周辺に見えない。
だのに、
「なんで『雨』が降ってくるのよ!!」
空から『碧い水』が豪雨の様相を呈して降りそそいでいた。
青天の霹靂にしても、それは異常な降雨量だった。