72話 「怪物と呼ばれた天使」【前編】
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――もう何かを失うのは嫌だ。
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ならば抗え。
死ぬまで抗え。
生きている限り抗え。
折れぬ限り、抗い続けろ。
それが抵抗者の本分なのだから。
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茫然として力なく地に跪くプルミエールの隣に、ジュリアスと天空神ディオーネが歩み寄ってきていた。
敵の矢の勢いは装填を挟んだことでわずかに弱まっているが、それでも生身で矢面に出られるほどではない。
眼前に立つ黒竜が、いまだにたった一人でそれらから皆を守っていた。
『どうした、天使の小娘。諦めたのか? あの黒竜は貴様らの同胞だろう? 助けないのか?』
プルミエールの隣に降り立ったディオーネはそんな問いを投げかけていた。
――助けたいに決まってる。
身を投げ出してでも助けたい。
しかしそれすらを黒竜本人に制された。
この場で出来ることが、自分にはもうない。
『もし方策がないのなら私がやってやるが、どうするのだ? 本当に貴様らの手で助けてやらなくていいのか?』
クドい女だ。
だから神族は嫌いなのだ。
上方からこれ見よがしに言葉を紡ぐ。
――助けなさいよ。
助けられるなら、助けてくれ。
神族でもなんでもいい。
本当は自分の手で助けてやりたいけれど、そんな自分の思いなどどうでもいい。
ギリウスが助かればそれでいい。
『――答えろ、天使の小娘。本当に貴様には黒竜を助けるだけの力がないのか? 貴様は弱者なのか?』
口に出さずにいたら、また天空神が問いかけてきた。
本当にしつこい女だ。
だから、答えてやる。
「――力は、ある」
けど、その力を出せる状態にない。
〈天力〉さえあれば、『なんとかして見せる』。
でも、天はここからでは遠い。
天は常に上方に存在する。
自分が高みに昇らねば、彼らはこちらを見てくれない。
ここは地上。
天から遠い場所。
『そうか、あるのか』
そう答えるのに動かないということは、何かが足りないのだろう。
天使の言葉に対するディオーネは、それを確信していた。
ゆえに問う。
天空神が天使に問う。
『ならば言え、天使の小娘。何か欲しいものがあるのなら、ダメもとで言ってみろ。――私は〈天空神〉だぞ』
しつこいまでの問いかけに、プルミエールはついに立ちあがった。
苛立ちか、怒りか。
悲しみか、不甲斐なさか。
様々な思いを乗せた表情を浮かべ、天使は言った。
「〈天力〉を。私に『空』をちょうだい」
無限大の力だとか、何物にも勝る力だとか、そんなことではない。
現実的に、自分が導き出した打開策の最良を口にする。
現実を見なければ大事なものを逃してしまう。
戦いはいつだって残酷で、現実的なのだ。
『いいだろう。私に求めるには現実的といえる範疇の答えだ。実にいい答えだ。だから、貴様の望みを叶えてやろう。――あの黒竜は貴様らの手で助けるがいい。――ジュリアス、右腕を借りるぞ』
「ああ、構わないよ」
『この高度に〈空〉を持ってくるにはちと強めの術式を使わんといけないからな。私が直接術式を編む』
そういってディオーネが行動を起こした。
彼女はジュリアスに後ろから抱きつくようにして覆いかぶさり、おもむろにその右手をジュリアスの右手に重ね合わせた。
そして一瞬のうちに『同化』する。
まるでジュリアスの手の中にディオーネの真っ白な手が透過していくような光景だった。
次に、ディオーネの腕が同化したジュリアスの手が空へ高々と掲げられ、掌が天に開かれる。
瞬間、その掌から巨大な術式陣が広がった。
『術式展開――』
ディオーネの言葉の直後、ジュリアスの掌から広がった術式陣が莫大な光の奔流と共に天空に昇って行く。
高速で天に昇って行った術式陣はあっという間に雲を割り、さらに空の奥へと上昇していった。
そして――
『ばかすかと現世で神格術式を発動させよって。〈力神アスラ〉よ、貴様がそのつもりなら私も黙ってはいない。単一概念しか持たぬ神族がこの私と同格だと思うなよ? ――さあ、せいぜい震えろ。そっち側にいたことが貴様の不幸だ。――神術、〈墜天〉』
ディオーネが高揚感を含んだ声音で言い、次の瞬間――
――『空が落ちてきた』。
◆◆◆
まさしく天空が落ちてきた。
そう形容したくなるような光景だった。
先ほど天に昇っていった術式陣が展開されていたのとほぼ同じ領域、その分だけ――空が落ちてきた。
そう認識するに足る要因になったのは、『雲の断絶』にあった。
空へと昇った術式陣の通り道にあった雲が、術式陣の領域内外を境に不自然に『ずれた』のだ。
白い雲に亀裂が入って、術式陣の領域内にあった部分だけがえらく下方に落ちてきた。
空間が落ちてきた。
そんな印象を周りの者たちは得た。
そしてプルミエールは、空が落ちてきたという事実を別の理由から察知していた。
「天力が――」
高空にしか存在しない天力。
それを地上で感じることはない。
だが、プルミエールの感覚器はその場に高濃度の天力を感知していた。
高い空に昇った時のような感覚を、地上に立ちながら感じていた。
普通なら考えられないような状況に自分がいることをプルミエールは理解しはじめていた。
『ほら、空だぞ。私が天空をここまで墜としたのだ。――特別だぞ。ジュリアスと私に感謝するがいい』
「僕はそんな――」
『いいや、言わせてもらおう。ジュリアスは貴様たちを救うためにセシリアとの対等な勝負を捨てたのだ。セシリアに勝たねば達成できぬ己の望みに、わざわざ不利を持ち込んだのだ。大人しくあの竜族を盾にして温存しておけばよかったものを』
ディオーネの言葉をプルミエールは冷静に聞き、同時に内心で――
――本当に、そのとおりね。あんたにも変な気、使わせちゃったわね。
そう思っていた。
もちろんジュリアスとの協同が初めからなければこんな状況になっていなかったと思わないでもないが、それを彼に言うのはお門違いだ。
自分たちは自らの意志でジュリアスと協同することを選び、自らの意志でこの戦いに臨んだのだから。
いろいろ思うところはあるが――今は。
「――なら、今度は私たちが応えてあげる。見てなさい愚王子。あんたが私たちを選んだのはこの上なく正しい判断だったって、すぐに思わせてあげるから」
前だけを向く。
プルミエールの瞳にはいつの間にか力強い光が宿っていた。
そして彼女がギリウスの方を向いて――
「どきなさい、ギリウス。もう十分よ。あんたが受けた痛みは百倍にして私があいつらに返してあげるから――少し休んでなさい」
告げた。
◆◆◆
――そうであるか。もういいのであるか。大丈夫であるか?
まだ少し不安だ。
しかし、
――まあ、我輩の方が大丈夫じゃなくなってきているので、
「では……頼むので……ある……よ」
――その強い眼差しを信頼するのである。
◆◆◆
ついに黒竜が倒れた。
前に倒れたのでは皆が潰れてしまうと思ったのか、わざわざ最後まで気遣うような動きを見せ、無理に後方へと倒れていった。
ドシン、と地響きのような音がなって、黒竜が天を仰ぎながら大の字に倒れる。
すると同刻、矢を放っていた側でも変化が起きていた。
「矢、切れたみたいね」
弓兵たちの矢筒から矢がほとんどなくなっているのをプルミエールは遠目で確認していた。
ようやく矢の斉射が止まる。
わずかの間隙。
しかし、つかの間、向こう側ではすでに新たな動きが開始されていた。
「無手――術式兵ね」
先ほどまで実体矢をつがえては放っていた弓兵たちが二歩ほど下がり、今度は無手の術式兵らしき者たちが一歩前へ歩み出てきていた。
彼らはすぐさま見えない弓矢を構えるかのように両手を上げる。
直後、彼らの手に多様な色味を湛えた術式弓が現れた。
「そう、次は術式矢の斉射なのね」
色に統一性がないのはそれぞれが別の術式燃料を使っていることに起因するのだろう。
そんな中で一番目立っていたのは白い光を放つ弓矢だった。
『弓神アルテミスの神格弓だな』
ディオーネが横から口を出していた。
その光景を目視したあと、ディオーネはプルミエールの顔を見上げて訊ねる。
『どうする? 手伝うか? 天使の小娘。貴様の天術式では神格を止められないだろう?』
「話しかけないで、愚神族。『空』を私にくれたあんたには感謝してるけど、今は話しかけないで。――いい? 今私、物凄く怒ってるのよ。それで、物凄く高貴なの。意味わかる?」
『いや、まったく分からん』
「だから愚かなのよあんたは」
『お、おう、貴様急になかなか強気だな。天空神を愚か呼ばわりするのはたぶん貴様くらいだぞ』
ディオーネは皮肉を込めていったが、どうにもプルミエールの言動がおかしいことに気付くと、すぐにそれ以上の悪態を飲み込んだ。
対するプルミエールの方はいつも以上の傍若無人ぶりを取り戻しはじめ、その尊大さはありありと身から迸るほどであった。
「私、昔から堪忍袋の緒が切れると最高に高貴になるんだけど、言ってしまえば今そんな感じなのね? でも今回は不思議と頭は冷静なのよ。で、分かっちゃったの。私が最高に高貴な理由が。これきっと高貴ゆえの進化ね。私が超高貴人になる時がきたのよ」
『ジュリアス、だめだ、私ではとても話相手にはなれん。代われ』
「ええ……僕もまだ彼らのギルド色に染まって大して時間たってないからなぁ……難易度高いなぁ……」
ジュリアスとディオーネのやり取りをよそに、プルミエールの言語能力が続々と破綻していく。
「ああ!! なんてすばらしい日なの!! わかる!? 今私、神すら超えられそうな気がするのよッ!!」
甲高い叫び。
高揚を抑えきれないと言わんばかりのプルミエールの叫びがあがり、空に響いた。
直後。
変化は起こった。
プルミエールの頭上に『あるモノ』が生成され、現出した。
それは『金色に輝く輪っか』だった。
おとぎ話に出てくる『天使の輪っか』の如きそれは、炎がジリつくような音を奏でながらゆっくりと円形に形成されていっている。
そうして数秒で、広がっていた両端がぴったりとくっつき、ドーナツ型を象った。
金輪が完成する。
その輪っかからは燃え盛るような金色の粒子が絶え間なく溢れ出ており、そのあまりの濃度に周囲の景色をゆがませるほどだった。
まるで太陽の如き輝きすらを感じさせる金輪。
もはや日輪そのものだ。
『なんだ、この莫大な天力燃料は』
ディオーネはプルミエールの頭上に生まれた金色の輪っかを見ながらそんな言葉を紡いでいた。
その言葉を聞いたジュリアスが珍しいものでも見るかのような目でディオーネに視線を送る。
その視線には『何が起こっているのか説明してくれ』というような意味合いが込められていた。
ディオーネはその言外の問いを読み取ってうなずき、再び口を開いた。
『あの金色の輪っかだ。あの輪っかに莫大量の天力が貯蓄されていっている。それも恐るべき速度でな。古代、私がまだ現界にいたころに様々な天力燃料使用者を見たが、その中でも特段に速い天力補給速度だ。この際ハッキリ異常だと言い切ってしまってもいい』
天力の才能はその補給速度に顕れる。
ジュリアスは内心でそんな天力に関する情報を思い出していた。
すると、再びディオーネが言葉を続けていく。
『しかもあの輪っかはそもそも天術式で生み出したものだな。己の身体に貯蓄しきれない分をあの金色の輪っかに貯蓄しているようだ』
「そんなことできるのかい?」
『できるが、術式によるものならそう長くは持たないだろう。輪っかを維持するのにも術式をコントロールしなくてはならないだろうからな。だが短期的になら可能だ。そしてあの天力の補給能力があれば十分な意味を成す』
むしろ、天力でなければ意味をなさない。
そうディオーネは続けた。
『なにしろ他の術式燃料――たとえば魔力だとかは、そんな短時間に回復するものではないからな。術式を一日中維持する技量と根性があるならそのタンクに燃料を貯めることができるかもしれんが、基本は無駄になるだろう。維持に魔力を消費し続けるから結果的に回復速度も下がるだろうしな』
だが、アレは別だ。
『燃料を使用しながらその使用分以上の燃料を天空から補給しているのだ』
アレは――
『神族の目から見ても、常軌を逸した存在だ。天才だとか、天稟だとか、そういう言葉で表すのも生ぬるい。言うなれば――』
――『怪物』だ。
天空神の言葉はやけに明快に、その場に響いた。




