71話 「可能性が弾けた日」
「二重大層、〈前方神力〉」
メシュティエが左から右へ、払うような仕草で大きく腕を振った。
言葉の語感から察するに、先ほどギリウスの攻撃を防いだのと同じような複数層の力場を生み出したのだろう。
しかし、ならば――
――『大層』とはなんであろうか。
ギリウスはメシュティエの一挙手一投足を見逃すまいと意識を集中させる。
だが予想とは裏腹に、その後に行動を起こしたのはメシュティエではなく彼女の率いる〈戦景旅団〉のギルド員たちだった。
その大半が迅速な動きでメシュティエのいるあたりまで後退していったのだ。
「何を……」
ギリウスは次の一手に確信を得られないながらも、嫌な予感を覚えていた。
このままのうのうと相手の攻撃を待つのは愚策な気がする。
この一時の間隙に体力を回復させるよりも、もっと重要な事があるような気がする。
ギリウスは口の端から深紅の炎を吐息に混ぜて吐き出しながら、得体のしれぬ不安感の正体を見極めようと頭をひねった。
そして――
「――っ」
気付く。
同時。
「構え」
メシュティエの周囲にほぼ集まり終えた戦景旅団の団員たちが、長の掛け声に従って一斉に弓に矢を装填した。
斉射の準備段階だ。
その装填の後の斉射が、先ほどまで断続的に行われていたものとまったく同じであったら特に問題はなかった。
実際に空戦班員とマリアの精霊術式等でほぼ全てを撃ち落とすことができていたからだ。
だが、これから自分たちを襲う弓矢による攻撃がそれまでの斉射とはまるで違う苛烈さを伴うことにギリウスは気付いていた。
力神の力場を通した弓矢の一斉掃射。
間違いない。
威力の桁が変わる。
『今まで通りにその矢を撃ち落とそうとしてはならない』。
ギリウスはそれを伝えようとするが、メシュティエの腕が今にも振り下ろされそうなのを察知し、すかさず言葉の内容を変えた。
仲間たちの方を振り向きながら、短く、端的に――
「伏せるのであ――」
叫びが飛ぶ。音が飛び、しかし――
「撃て」
無情なメシュティエの声が、ギリウスの言葉を遮った。
◆◆◆
心臓が強く拍動した感覚を経て、肩越しから見た光景がすべてスローになった。
ピンと張った弓弦から射出された矢は、ゆったりとした速度で宙を進んでいるように見える。
ゆっくり、ゆったり、重さなどないかのごとく軽やかに。
だが、ひとたび『力の層』を通過した矢は、急に不気味なまでの加速をその身に乗せてまっすぐにこちらに飛んできた。
その加速を見た瞬間に、ギリウスは矢の方を振り向くのをやめた。
かわりに、自分の腕と翼を可能な限り大きく広くその場で広げた。
視線を下ろすと、ようやく状況を理解しはじめた仲間たちが各々に回避姿勢を取ろうとしている。
だが、その回避は間に合わないだろう。
だからギリウスは――
仲間たちの『盾』になることをその場で決断した。
手を広げ、翼を広げ、自分の身体の面積を最大限に使って仲間たちを覆う。
己がこの刹那の時間で導き出した最適解。
そして、自分が自分の行いに最も納得できるであろう形。
「――!!」
強烈な加速を得たいくつもの弓矢が身体に刺さるまでのわずかな時間で、黒竜は身体に力を込めるように咆哮をあげた。
◆◆◆
――俺が観察なんてせずにもっと早く加勢に行っていたら、こんなことにはならなかっただろうか。
その考えが自惚れだろうがなんだろうが、〈凱旋する愚者〉の副長として自分がいればこんなことにはさせなかったという自負は抱いているつもりだった。
そうでなければ自らを推薦したアリスにも他の仲間たちにも申し訳が立たない。
そういう信頼を受けることを覚悟して副長の立場を受諾した自分には、せめてそれくらいの自信は持たなければならない義務があると――また背負い癖だと揶揄されるかもしれないが――思っていた。
だが、個人の思いがどうであろうと、結果は結果で厳然たる事実を突きつけてくる。
「ギリウス……っ!!」
サレの視線の先には、凄まじい速度で飛翔する無数の矢をその背中で受け止めているギリウスの姿があった。
まさしく盾だった。
腕を開いて、翼を開いて、自分の懐にギルド員の皆を抱えるようにして守りながら、背中で矢を受け止め続ける黒竜。
「早く――早くっ……!!」
だが、サレの位置はギリウスからは遠すぎた。
なまじ目が良いゆえに、遠くからでも鮮明に見えてしまっていた。
背部で燃え盛る黒翼の推進力を全開にしてもなお、すぐには届かない。手が、届かない。
見る見るうちに黒竜の背には矢が刺さっていく。
一部は竜翼を突き破って貫通している。
「嗚呼……やめろ、もういい――いっそ倒れてしまってくれ……!」
そのまま立ち続ける限り、お前の背には矢が刺さり続けてしまう。
決してそんなことはできないだろうとは分かっていても、サレはそう言わずにはいられなかった。
そして、それは実際に黒竜に守られていた者たちも同じように抱いた思いだった。
◆◆◆
「もういい!! どきなさいギリウス!!」
いつかの自分がアリスに対して取った行動と同じ行動を、自分の目の前で黒竜が取っていた。
その姿は盾だ。
ただ立ち尽くす盾だ。
木偶の如き盾だ。
だがきっと、それしかできなかったのだ。
自らが取れる最も効果的な行動がそれであると、自分の頭が導き出してしまったのだ。
そしてそれに自分で納得できたから、迷わずに行動できたのだ。
そんな思考の流れを、プルミエールは誰よりも理解していた。
感覚的に察知していたと言っても良い。
そして、そんな行動を黒竜に取らせてしまったことを最も悔いていたのもまた、プルミエールだった。
プルミエールはギリウスからやや遅れて、しかし他の面々よりはずっと早く敵の攻撃の脅威性を察知し、まっさきに『盾』を作るべく〈天術式〉を発動させていた。
しかし、プルミエールは防御術式で『非戦組』を守るので精一杯だった。
速度的に――間に合わない。
最優先するべきは身を守る術を持っていない非戦組の命。
他のギルド員たちに手を回している余裕がない。
プルミエールの行動はその時点で最善だった。
だからこそ、自分の不甲斐なさの原因をよく分かっていた。
ただ単に、自分に力が足りなかったのだ。
そう自覚しながら、プルミエールは非戦組を守るべく残りの天力をすべて使って術式を発動させた。
自分の防御すら忘れて、ただ彼ら彼女らを守るべく。
矢が届く前に術式を発動することができて、プルミエールは安心した。
そして振り返ったら――黒竜がさらに自分を守るように身体を張っていた。
「ギリウス!!」
プルミエールに残された天力はない。天力は自然回復しない。
前戦闘で多くを使い、今さっきの術式発動ですべてを使った。
天空に昇るにも、矢が空間を無数に走っている現状ではどうしようもない。
ギリウスの身体がなければ、自分の身体は穴だらけになっている。
――だめよ……これはだめよ……『だめ』なのよ……!
プルミエールは震える足を動かして、前への一歩を踏んだ。
天力を使い果たしてなお使えるものは、己の肉体しかなかった。
竜に比べればあまりに小さく、頼りない身体だ。
だが、何もないよりはきっとマシだ。
プルミエールはギリウスをどうにか矢から守ろうとして、その身を矢面に立たせようとした。
それはもはや錯乱しているといっても過言ではない様相だった。
飛び交う矢を見れば、そんな小さな生身の身体で出ていったところでたいした盾にもなれないだろうことは明白だった。
それでも出て行こうとした。
だが、
「プルミ、だめであるよ」
黒竜に制された。
矢を背中で受けている黒竜が、普段見せるような柔和な竜顔の笑みで言葉を放っていた。
プルミエールはその竜の言葉に対して、今にも泣きそうな顔を返すことしかできなかった。
自分の守るべき者たちのうちの一人が目の前で傷ついていく。
プルミエールにはそれが耐えられなかった。
『独り』になる発端となった事件の映像を、目の前で再生されているような気分だった。
◆◆◆
――僕は動くべきだろうか。
ジュリアスは浮かびあがってきた問いに自らで答えを返した。
――いや、この状況でそんな考えを巡らせられるぐらいならば、きっと僕は『動かないこと』を無意識のうちに選択してしまっているのだろう。
協同関係にある者たちのうちの一人が、目の前で苛烈な攻撃にさらされている。
個人的な親愛の情さえ抱いている者が、脅威にさらされている。
自分が動けば彼の痛みを和らげさせることも可能だろう。
だが、自分はこうしてのうのうと己の心境に思いを馳せている。
少しでも動こうという気があったならば、すでに動いているはずだ。それぐらい彼の今の姿は痛々しい。
――僕は残酷だ。
理性が働いてしまう。
ひどく冷酷で、残酷な理性だ。
――ここで神格術式を使えば、セシリア姉さんに対して不利を生むことになる。
神族の神力も無限ではない。
ディオーネとアテナ。神族の格はお互いに主神級で同等。
実力も恐らく五分だろう。
ならば、いざという時にアテナに対抗できる最後の保険として、ここでディオーネに術式を使わせるべきではない。
ギリウスには耐えてもらうしかない。
耐えて――
「――馬鹿か、僕は」
友が傷つくことを『前提』として予想を進めている自分に、思わずジュリアスは悪態の言葉を贈った。
場合によっては非人道的にもなろうと決めた自分。
その思いは今も変わらない。
それでも――
――『納得できない選択』を取ることを、こうもたやすく自分に許した覚えはない。
ひとたびすれ違えば矛盾してしまいそうな二つの理性。選択。
考えても考えても理性による確かな答えがでないならば、
――いっそ考えるのをやめろ。
正しいと思う、自分が納得できる方を選ぼう。
『ほら見ろ。やっぱりお前は考えぬいたあとで答えが出ないと、最終的には猪突するんだ。昔と変わらん。私の言葉に間違いはなかったぞ、ジュリアス』
嬉しそうに言うディオーネの言葉が聞こえた。
◆◆◆
――何が海戦班長なのでしょう。
目の前の仲間も救えず、危機を退けることもできず、頼ることしかできない。
進んで受けおってこの様だ。
マリアは悲痛な思いで眼前の光景を見ていた。
――副長が倒れた時も、レヴィ第三王子が爛漫亭を襲撃した時も、そして今も、私は何もできていない。
どんなに知識を蓄えても、どんなに修練を積んでも、良い結果を得られないのならばまるで意味がない。
「マリア、諦めちゃだめだよ」
折れそうな自分の心を見抜いたかのような言葉が、不意に後ろから響いた。
見るとそこには――
「イリアッ!! どうしてこんなところにいるの!!」
小さな同族、妹のように愛しい小さな精霊族、イリア。彼女がいた。
非戦組として自分の後方でアリスと共に待機していたはずのイリアが、傍にまで歩み寄ってきていた。
間違いなく危険な位置だった。
「ごめんね。でもマリア、つらそうだったから。ギリウスも、みんなも、つらそうだったから」
「――」
言葉がうまくでない。
その間にもイリアは現状を――この恐ろしい戦況をまっすぐに見据え、言葉を紡いでいた。
「誰かがいなくなるのは悲しいね。私は精霊が死ぬところを何回も見ているし、あの子たちが悲しそうに叫ぶのもよく聞いてる。もちろんそういうのを感じていつも悲しい気分になるけど、『ちゃんと生きている』人たちが死ぬのはもっと悲しいよ。――マリアもそう思う?」
イリアの言葉にマリアは一瞬戸惑ったが、すぐにその意味を理解して言葉を返した。
「……そうね。とても――悲しいわね。精霊も生きているけど、『ちゃんと生きている』人たちと一緒にしてはいけないものね」
本当は、イリアがその『区別』を行えるとは思っていなかった。
精霊に異常に近しい彼女は、精霊と『ちゃんと生きている人』を一緒にして考えてしまうのではないかと、そう思っていた。
――あなたは私が思っているよりずっと大人なのね。
「だから、守らないとね」
イリアが無垢な笑みをマリアに向けていた。
「……そうね。諦めちゃいけないわね」
「うん、マリアならできるよ。皆のことがちゃんと見えてるマリアなら、きっとできるよ。――私の超お墨付き!」
無垢な信頼ほど、力をくれるものはない。
「なら――ちゃんと答えないとね」
その信頼に。
◆◆◆
その日。『超えられぬ者』たちだった彼らは、『超えし者』になるための一歩を踏んだ。
同時にこの時、彼らの中の『建前』は心底からの『本音』にすり替わっていた。
かつて愚者は建前に命を懸けた。
そして今は――
建前という名の本音にも命を懸けていた。