70話 「超越者:黒竜」【後編】
メシュティエは突如として黒竜の双腕に展開された深紅の光を見て、ふとつぶやいていた。
「なんだ? 炎か?」
真紅というよりも深紅。深い色味の紅だ。
そんな深紅の色味が、ゆらゆらと炎のように揺らぎながら眼前の竜族の両腕に纏わりついている。
正確には、その腕そのものから噴出していた。
下腕から上腕、さらに肩までを覆い尽くすように、奇妙な深紅の炎が空へ空へと立ち昇っている。
「ああ――」
メシュティエはそこで気付いた。
「竜力の色味か」
竜の固有燃料。竜力燃料。
――それを使った術式か何かだろう。
あの竜焔砲と変わらない、竜の御業だ。
先ほどの竜焔砲は〈力神〉の神格術式でいなすことができた。
だから――
――問題はない。
そうメシュティエは合理的な思考によって判断を下した。
すると、その直後に竜が動きを見せた。
その動きを見たメシュティエが紡いだ言葉は、
「結局は殴るしか能がないのだな! 生態系頂点の肩書は返上したらどうだ!」
そんな言葉だった。
◆◆◆
「〈上方神力〉」
ギリウスは目の前の標的が再び神格術式を発動させたことに気付く。
数度の攻防でメシュティエが使う神格術式の効果はなんとなく察していた。
――『任意の方向に力を掛ける術式』であろうか。
おそらくそれで合っているだろう。
言葉にすると非常に簡素な効力だが、その実在は恐ろしく強く、汎用性が高い効力だ。
竜神形態の膂力すらもたやすく凌ぐ『力』を、『神格』にて発動させているわけなのだから。
絶対的な防御と攻撃力。
その分対価も強いのだろうが、多用しているところを見ると即座に支払いが求められる類の対価ではなさそうだ。
大方の目算をつけたギリウスであったが、それでも振りかぶった拳は降ろさない。
それどころか、一層拳を握る手に力を込めて――
「木端微塵である!!」
強声と共に繰り出した。
空気を叩き割り、貫き、一直線に空間を進む拳。
そして。
手に何かを貫いた確かな感触を得て――
次にガラスが割れるような破砕音を聞いた。
同時。
ギリウスの胸中に確信が生まれる。
――我輩はまだ世界を『昇れる』。
◆◆◆
――割れた。有り得ない。
いや――今はそんなこと――避けろ。
避けなければ――死――
メシュティエは薄い現実観をたたえる眼前の光景を内心で半分否定しながら、しかしもう半分で自らが生き残る術を導き出していた。
深紅と黒。
炎と鱗。
竜の拳が今にも自分の身体を直撃し、この身体を鉄球に打ち砕かれた木端のごとく粉々に弾き飛ばそうとしている。
身体が硬直する。
脚、腕、体幹、全てが鈍い。
否、たとえ十分に筋肉がほぐれていたとしても、全膂力を総動員したところでこの竜の拳は避けられない。
人の身体には出し得ない速度を出さなければ、この死からは逃れられない。
思考と同時。
メシュティエは『自らの身体』に神格術式による攻撃を掛けていた。
――左方神力……!!
口を動かしている暇さえない。
一刻を争う。
ついに深紅の炎の熱さを顔全体に感じ、そして――
「ぐっ……!! ああああああっ……!!」
メシュティエは自らの身体に強烈な左方向への力が掛かったことに安堵し、しかし、そのあまりの力の強さに身体がひしゃげるのではないかという恐怖を感じた。
「豪胆な女がおったものであるな」
あとには唸るような竜の声が残った。
◆◆◆
視界がごちゃごちゃに回る。
天と地が何度も入れ替わる。
硬い地面の上を、何度も自分の身体が転げているのだ。
メシュティエはただなされるがまま、地面を転げていた。
自分で自分の身体にかけた『左への方向性を持った力』は強烈で、身体に多大な負傷を刻み付ける水準のものであった。
事実、左方向への力が最も強く働いた力の掛かりはじめには、自分の身体が横方向にくの字に曲がったのを感じたし、その時に腰骨のあたりから不気味な軋む音を聞きもした。
吹き飛んで地面に激突した瞬間に受け身をとった左腕も折れたらしい。
頭を守るために投げ出している右手も、硬い地面との摩擦を受けてぼろぼろだろう。
だが、
「……まだ」
生きている。
メシュティエは身体の回転が止まるとすぐさま右手を地面について立ち上がり、周囲を見据えた。
どうにも地面の角度がおかしい。左に傾いている。
「まっすぐ立てないか……」
自分の身体を見ると、脚や腰の支えが十分でなく、立ち上がったはいいものの身体が右に傾いてしまっていた。
腰骨の歪みが一番の理由ではありそうだ。
しかし、まだ立てる。
――まだ立っていられる。
「メシュティエ!!」
メシュティエの耳は少し上ずったセシリアの声を捉えた。
――あの〈戦姫〉もこんなかわいらしい焦りを見せるのだな。
メシュティエは少し笑みを浮かべて、セシリアの声に応えた。
折れていない右腕を軽くあげて、セシリアに適当に振ってみせる。
「いい。……お前は自分のことだけ考えていろ」
息を吐く。
肺腑が重い。
言葉を紡ぐのもいつもより辛い。
しかし、メシュティエは震える身体を叱咤してついにまっすぐに立った。
――ここで私が倒れると、闘争は負けになる。
そうはさせない。
旅団員たちも、まだ十分に力を見せてはいない。
セシリアもまだまだ力を出し切ってはいないだろう。
だから、
「私が倒れるわけにはいかんのだ。――せっかくの楽しみは十分に味わわねばな」
◆◆◆
セシリアはその光景を驚きと共に見ていた。
メシュティエが竜の拳を避けるために、自分の身体に力神の神格術式を使った光景を。
そして――
「まさか、ただの拳で“力神”の神力を撃ち抜いたのか――馬鹿な」
竜の拳が『力神』の力場をただの拳でぶち破った光景を。
セシリアは「ありえない」と叫びたかった。
叫びたかったが――
「……ありえる……のか……?」
それを認めずにはいられなかった。
先ほどから自分の常識を疑いたくなるものばかり見ている気がする。
〈法神テミス〉の防護術式が鬼人の刀の一撃に破られる未来図。
〈力神アスラ〉の方向神力が黒竜の拳の一撃に破られる現実図。
「神格とは――」
なんであったのか。
いや、この際いうならば、
「――なんなのだ! この異族たちはっ!!」
セシリアの声は戦場空間に響き渡った。
◆◆◆
「よくぞすぐに立ち上がったものであるな」
つい、感嘆を含んだ声をあげてしまった。
ギリウスは自分の拳が神格を超えた事実に関してはむしろ冷静に捉えていたが、一方で、その拳の一撃を驚くべき手段で避けきったメシュティエに対しては驚嘆を抱いていた。
――自らをあの神格の力で無理やり吹き飛ばしたのであるな。
彼女には同じ戦闘者として賛辞を送りたい気分だった。
「純たる人族でありながら、実に強い。その精神力も――驚嘆に値する」
ギリウスは純人にさしたる興味は持っていなかったが、今になってその方針を変える。
純人の中にも、面白いのがいる。
この目の前の褐色の女。
〈メシュティエ〉という個人に対して、ギリウスは興味を持ちはじめていた。
「さて、しかし倒れてもらわねば我輩たちも困るのである」
優先順位は変わらない。
後方の仲間たちの戦況を伺えば、人数差を存分に活かされた半包囲陣形に取り囲まれ始めているようだった。
他の空戦班員たちは戦景旅団の後衛による遠距離攻撃をいなすのにいっぱいいっぱいというところだ。
トウカたち陸戦班員は戦景旅団の前衛である硬い重装兵達に手間取っているようだ。
――ギリギリであるな。
かろうじて踏みとどまっているという程度だ。
トウカたちが敵の前衛に押し込まれ、包囲に完全に掴まってしまえば殲滅は時間の問題である。
そうなればアリスを守るマリアたち海戦班への道はたやすく開かれ、同じように嬲られて全滅するだろう。
いっそのこと、目の前のメシュティエは無視して援護に向かうべきかもしれない。
「秘密の言葉の効力も、そう長くは持たなさそうであるな」
神格に繰り上がった自らの竜力だが、思った以上に消耗が激しい。
感覚的には常時〈竜焔砲〉を吐き出しているかのような気分だ。
――敵の集団に他の神格者がいるならば我輩の竜力はそれらを蹴散らすのに使う方が……
一瞬、ギリウスの意識は後方へと向いた。
それは皆を『守らなければ』という盾としての思いと役割に裏付けられた意識だった。
しかし、
――駄目である。今我輩は剣である。敵の首級を討ち取ることを優先すべきであろう。
そうすればすべてが終わるのだ。
この状況では攻撃こそがてっとり早く防御になる。
ギリウスは後ろに向きかけた意識を即座に前方に戻し、
「倒れてもらおう、戦景旅団の長よ」
再び大翼で空を叩いた。
もう一撃。
もう一撃放てば倒れる。
いまさらになって戦景旅団の団員たちがメシュティエを守るように半包囲陣形を崩して彼女のもとに集まりだしたが、今のギリウスにとってはさしたる障害にもならない。
矢や術式弾が身体にぶつかるが、よほどの威力をもっていなければ黒鱗の鎧がそれらを弾き飛ばす。
「死にたくなければどくが良い」
右手で人の群れをかき分けるように押し出し、左手でもう一度掻きだす。
その間に右腕に力を込め、拳を握りこみ、身体の奥底からあふれ出てくる竜力を意識して右手に集める。
数瞬の後、人の群れの奥に再びメシュティエの姿を捉え、その立ち位置を認識するや否やギリウスは高速の打撃を容赦なく打ちこんだ。
だが――
「三重層、〈前方神力〉」
メシュティエに向けて真っ直ぐに打ちこんだ拳が、再び見えない力場の壁に押し返される。
パリン、と薄い壁を割った音が響いたが、そのすぐ裏にもう一枚の壁があって。
ギリウスの拳はその二枚目の力場の壁も割るが、最後に残っていた三枚目の壁に遮られてついに力を失った。
「三重の壁とはなかなかにしぶとい……!!」
うんざりしてくるほどの周到な、そして強固な壁。
「能動的な防御に回られると竜神の拳でも撃ち抜けぬか」
「――防御? 違うな。――これは攻撃だ」
ギリウスが三枚目の壁を打ち砕くべく、今度は左拳で打撃しようと予備動作に入った瞬間、それは起こった。
力場の壁の向こう側から、折れた左腕をだらりと垂らしたメシュティエが、逆に右手を振りかぶって猛突してきたのだ。
――なにゆえ、ここでわざわざ猪突を。
そこまで考え、ギリウスは即座に身を引こうとした。
『勘付いた』のだ。
今自分が競り合った力場の壁は、自分の真後ろへの力を内包していた。
打ち付けた拳が真後ろに押し返されるような奇妙な感覚を確かに得ていた。
そして今、その竜の膂力と拮抗する力場の壁の向こう側から、メシュティエが拳を繰り出すべく向かってきている。
――仮に、あの力場の力を自らの攻撃に上乗せできるのなら。
「〈右方神力〉、〈前方神力〉、〈左方神力〉」
メシュティエの声のあと、ギリウスの目は彼女の姿を見失った。
先ほどの一枚だけ残っていた力場の壁を通過したメシュティエは、大砲にでも撃ち出されたかのような急な加速を得て自らに迫った。
だが、次の瞬間には自分から見て左方向へと鋭角的に加速し、そこまでなんとか捉えて――その後視界から消えたのだ。
「ぐぬっ……!!」
思考の後に衝撃。
自分の脇腹のあたりに強烈な痛みを感じた。
何事かと脇腹の方へ視線を向ければ、右拳を撃ち抜いた姿勢のメシュティエがそこにいて――
「竜でも腹を殴られれば呻くのだな!! なかなか良い声だぞ黒竜!!」
ぼろぼろの状態で哄笑と共に言い放っていた。
笑っていたのだ。
「まさに戦闘狂であるな……!!」
ギリウスは自分の予想が大方当たっているだろうという確信を得る。
今のメシュティエの奇妙な動きと、黒燐の強度を上回る打撃を人の身体でなしえた結果を見ての確信。
――あの神格術式による任意の方向性をもった力は、移動や攻撃力の増大にも応用できるのであるな……!
力の方向性に逆らうものに対してはそれらは減衰剤や壁の役割を果たし、方向性に沿うものに対してはそれらは増幅剤や加速器のような役割を果たす。
思った以上に、厄介だ。
しかし、まだギリウスはその神格術式の恐ろしさを完璧には理解していなかった。
次に取るメシュティエの行動を見て、ようやくギリウスはその恐ろしさに気付く。
そして、やはり自分たちは集団戦に未熟であると、改めて自覚することになった。