69話 「超越者:黒竜」【前編】
「メシュティエが竜族と戦い始めたようだな」
「いかがいたします、殿下。再び前に御出になりますか?」
「いや、良い。少し観察をしたい」
「御意」
セシリアは戦景旅団の最後方にいた。
最後方と言っても、戦景旅団が左右に広がって半包囲陣形をとっている現状、セシリアまでの道のりに人は少ない。
メシュティエが突破されれば目と鼻の先だ。
セシリアの隣には親衛隊と思われる二つの人影があった。
一つは今声を出していた執事風の男だ。
もう一人はその男とは対照的だった。
あろうことか、セシリアの隣で地面に寝転がっているのだ。
地面に肘をたてて頬杖を作っているその人影は、白いローブのフードを被りながらボーっと興味なさげに戦況を眺めているようだった。
そんな姿を見て、セシリアはやれやれと眉尻を下げながら首を左右に振る。
――まあ、今は目の前のことを考えるとしよう。
セシリアは胸中で続ける。
――むしろ、今すぐに考えなければならない。
先ほど見た、恐ろしい光景について。
セシリアの額にはわずかばかりの汗が浮き出ていた。
◆◆◆
多重契約している神族のうちの一人〈狩猟神アルテミス〉。
また〈弓神アルテミス〉として二つ目の概念も司っている神族だった。
そのアルテミスへと繋がる神界術式を開くことで流入してくる加護は『未来視』。
獲物の動きの先、わずか数秒を先んじて認識する破格の効力を持つ。
セシリアはその汎用性の高い能力をこれまで何度も使ってきた。
慣れ親しんだ能力の一つであるゆえに、その能力を疑ったことはほとんどない。
だが、
――今回ばかりは、疑わずにはいられないな。
先ほどの〈鬼人族〉と攻防の中で見た『未来図』を、疑わずにはいられなかった。
――避けるつもりは……なかったのだ。
二撃目だ。
あの背後からの二撃目。
行動の先は見えていた。
目の前のジュリアスと、背後の鬼のどちらをも。
ジュリアスの攻撃は神格を伴うため、当然能動的な防御を行うつもりであった。
だが、背後に回りこんだ鬼人の一撃は〈法神テミス〉の防護術式に任せるつもりだったのだ。
鬼人の刀による一撃目をそうして防いだように。
――あの一撃目がテミスの防護に引っかかったと認識していたのが余計だった。
鬼人の攻撃は神格を超えない。
超えられない。
そういう安堵の確信をあの一撃目で得た。
しかし、
「まさかテミスの神格を超えてくるとはな……」
ぼそりと、近場に待機している二人にも聞こえないような、薄く息を吐くような程度の小声でセシリアはつぶやいていた。
――ありえるのか。一撃目と二撃目の間の違いはなんだ。
セシリアは思考する。
――固有術式か?
雷電。
噂に聞いた雷の化身としての鬼人族。
事実、先ほどの鬼人は青雷を身に纏っていた。
術式描写はなかったから、おそらく固有術式だろう。
だが、固有術式が神格を超えたという話は聞いたことがない。
――竜族の固有術式にすら耐えるのだぞ。
鬼人族が優れた種であることは確かだ。
それにしても、生態系の頂点と言われる竜族を超えるということはないだろう。
なのに超えてきた。
セシリアは先ほど見た未来図を思い出す。
――あのまま動かなければ私は刀で斬り伏せられていた。
胴体から真っ二つだ。
――テミスの神格術式を切り裂くのならば、私たちテフラ王族に防御のアドバンテージはない。
むしろ、テミスの防護を過信する傾向のあるテフラ王族に対しては、強烈な威力をもった奇襲にすらなりえる。
――……。
そのあたりでセシリアは〈戦神アテナ〉の存在に思考を巡らせた。
――アテナを現界に降ろすのは気が引けるな。
あまり取りたくない手段だ。
その辺の折り合いはアテナ自身ともつけなければならない。
「――まあいい。いずれにせよ、少し気を引き締めねばならんな」
そろそろ悠長にしている時間もないだろうと思考を切り替え、セシリアは顔を上げた。
視線の先では、古くからの友人であるメシュティエと、黒い鱗の竜が攻防を繰り返していた。
◆◆◆
――なんと邪魔な存在か。
ギリウスはそんな思いを胸中に抱いていた。
決して神族に対して特別な忌避感を抱いているわけではない。
だが、今回ばかりは、現状ばかりは、そう考えずにはいられなかった。
竜の威をもってしても覆らぬ『格の差』。
竜格と神格とでもいうべきか。
こうまで圧倒的な差があるのか。
竜族とは、神族にまるで手の届かぬ、その可能性すらもたぬ種族なのか。
そんな言葉を無意識のうちに組み立ててしまっていた。
――ならぬ。
ギリウスはその言葉を否定する。
「――ならぬ」
声に出してもう一度否定する。
周囲の人族たちを竜圧で牽制しつつ、さらに目の前のメシュティエに再び拳を打ちつける。
――竜王の系譜に生まれた者が、竜の格を下げるような言葉を口に載せてはならぬ。
「攻撃にまるでひねりがないな、竜族よ。――〈右方神力〉」
打ち付けた拳が、自分より圧倒的に小さい純人の扱う未知の力によって弾かれる。
まるで分厚い空気の壁を殴っているかのようだ。
殴りつけた拳の方が自力に耐えきれず半ば潰れかかっている。
痛みはある。
しかし、すぐに再生するのも事実である。
――魔人の再生力にも負けぬであるよ、サレ。
潰れかかった自分の拳が治っていく様を見て、ふと近頃ずっと身近にいる魔人族を思い浮かべた。
――サレは一族に伝わる特殊な術式炎によって神格を越えたのであったな。
魔人に越えられて、竜に越えられぬ壁があるだろうか、と問うたらサレは怒るであろうか。
――否。
笑いながら「ないんじゃない?」くらい言いそうだ。
「その方が俺は楽できそうだから、たとえ壁があってもがんばって越えちゃってよ、ギリウス」とも続けて言いそうだ。
――そうであるな。
ギリウスは笑う友の顔を思い浮かべて、内心でうなずきを作った。
――うむ。
頑張ることにするのである。
◆◆◆
その日、〈凱旋する愚者〉の面々は初めて、ギリウスの高揚に彩られた咆哮を聞いた。
敵の半包囲陣形の片側に狙いを定めて攻撃態勢に入っていたトウカも、敵の矢や術式弾による遠距離攻撃を天術式で撃ち落としていたプルミエールも、アリスの前面を守りながら精霊術式で広範囲の迎撃を行っていたマリアも、誰もが一瞬動きを止めた。
そして、その咆哮のあとにギリウスの口から出た呪文のような声を聴いた。
「――――」
ギリウスの口から出た言葉は、不可思議な音を持っていた。
普段使っている共通の言語では言うに表せぬ、微妙な音韻の違いである。
あえてそれらしく発音するならば、
「ルデア?」
非戦組の集まる中心部、その最も庇護のあつい場所で少女イリアがつぶやいた言葉が一番近かった。
◆◆◆
――懐かしい響きである。
ギリウスは一人内心でむず痒さを得ていた。
久々に発音した竜語。
――決して忘れぬようにと口ずさんでいたら、いつの間にか変な口癖がついてしまったものであるな。
しかしおかげで忘れずにいるのも確かだ。
父に教わった秘密の竜語。
父は『お前が竜神になるための起動言語だ』と言っていた。
頂点種と謳われた黒竜族の末裔として生まれながら、他竜族との戦に怖気づいていた自分に、『お前が本当に戦いたくなったら、それを使え』と教えられていた言葉。
『お前なら竜神になれる』と飽きもせず自分を慰め続けた父の言葉。
――迷惑ばかりをかけたものである。
思い出すまいと封じ込めていた情景が、ふとした拍子に脳裏に浮かんでくる。
――いかんいかん、今は必要ないのである。
だから、早めに前口上でも述べておこう。
――竜王よ、黒竜の長よ、我が父よ。
あなたが謳った竜の力が、竜族の中でも原点にして頂点と謳われた黒竜族の力が、決して神格に劣らないということを今こそ我輩が証明してみせよう。
黒竜族が決して神族に負けてはいなかったことを、我輩が証明して見せよう。
それが同胞へのせめてもの手向けになると――
「――我輩は信じているのである」
最後にそう穏やかに紡いだギリウスの腕に、深紅の光が揺らめいた。