68話 「神格の壁」
ギリウスが竜神形態へと化身したのを遠目から見ていたサレは、そのギリウスの行動を推し量り、状況が思っている以上に悪いという確信を得た。
――観察は終わりだ。
そして同時に、少しでも不安要素があればすぐさま観察を打ち切ろうと心に決めていたサレは、即座に背部に黒翼を発現させて国門から飛び降りた。
今まで壁や盾としての役割を買って出ることが多かったギリウス。
自分から率先して何かを害するということを、どことなく避けていた節のあるギリウス。
そんな彼がここにきてあの攻撃的な形態を取った。
いつもの竜人型よりは大きいが、竜体形態よりはだいぶ小さい、あの無駄のない洗練されたフォルム。
隆起した人型系の筋肉群と、竜体時のような『前脚』ではなくしっかりとした『腕』として発達した黒鱗の両腕。
いっそう巨大化した頭部の角は巻角がかっており、異様な攻撃性をたたえている。
口から吐息とともに深紅の火煙を溢れさせながら、空中に二足で直立するように滞空している黒竜が、今その背部の竜翼を敵を威圧するかのように大きく広げて見せた。
サレは落下の最中にその光景を見て、
――頼む、ギリウス。
頼むけど……無茶もしすぎるなよ。
友への信頼と心配を胸中に浮かべていた。
◆◆◆
「ギリウスが行くか」
トウカは額にうっすらと汗を浮かばせながら、後方の上空へと視線を移した。
そこには黒い鱗の竜が飛んでいる。
一度だけ見たことのある姿だ。
――本気モードとか言っておったな。
ぼーっとするようになんともなく胸中で言いながら、トウカは再び前方へと注意を向ける。
戦景旅団の密集陣形が目と鼻の先まで来ている。
だが、
――不甲斐ない。
どうしていいのかわからないのだ。
――そう簡単に埋まるものではないな。
戦力の差も、技術の差も、経験の差も。
思えば、一度目の『戦』はサレが超人的な特攻を見せたことでなんとか撃退できたのだった。
爛漫亭襲撃時のいざこざも、サレが神格へと昇華させた黒炎で対抗しなければどうなっていたかわからない。
――わらわたちは……思っている以上にサレに頼りすぎていることを自覚せねばなるまい。
否、分かってはいるのだ。
理解はしているのだ。
自覚もしているのだ。
だが、
――『神格』という壁が、争い事になるや否やわらわたちの前に立ちはだかる。
特に、このテフラ王国では。
そして――
「対アテム王国でも……当然立ちはだかるじゃろうな……」
同族をはじめとして、魔人族やその他の戦闘的上位異族を滅ぼしたアテム王国が、純人としての性能のみでそれを成し遂げたとは到底考えられない。
むしろ、場合によってはテフラ王国以上に〈神族〉の加護を得ている可能性すらある。
となれば、
――越えねばならぬ。奴らと剣を交えようとするならば、越えねばならぬ壁じゃ。
越えてもなお、たったの五十人。
国家軍隊を相手にするには矮小すぎる存在。
だからせめて、神格の壁は越えなければならないのだ。
なのに。
なのに――
「分からぬ……! 越え方が分からぬのだ……!」
トウカは悔しさに下唇を噛んだ。
鮮血が唇からあふれ、細い線となってきめ細やかな肌上を落ち、その顎から地面へとこぼれる。
自分の血が地面に赤い斑点を描いたのを見て、
「やめじゃやめじゃ! 卑屈になるのはわらわらしくないの!」
彼女はすぐさま思考を切り替えた。
「シオニー! 後ろに嗅ぎ慣れない気配はまだあるか!」
不可視術式を使う者がいる。
予測だが、それは誰もが得た予測だ。
目の前に集中するあまりそれらを失念すると、あとで手痛いしっぺ返しがきそうだ。
そう思ってトウカはシオニーに訊ねていた。
「後ろに人が多くてわかりづらいけど、嗅ぎ慣れない匂いをたまに感じるからまだいると思う!」
――その情報はでかいのう。
まったく意識していないのと、多少意識しているのでは反応に雲泥の差が出るだろう。
いざという場合に大方の予想がつくのは行動の迅速化に繋がる。
「じゃが、わらわたちに後ろのことを気にしている余裕もないか」
後ろにはマリアたちがいる。
「任せるしかないかな……」
不安げにシオニーが俯いた。
「そうしょげるなシオニー。かわいい顔が台無しじゃぞ」
「……かっ……かわいい……か……う、うん……だ、だろうな……!」
「ぬしぬし、最近調子に乗ることを覚えたようじゃの」
「冗談だよっ! 冗談いうのも必死なんだよ! みんなからかうし!」
「そろそろ慣れてもいいと思うが、まあサレが言うのが一番効果的か」
「……」
「こんな敵の目の前でもじもじすんなよこの駄犬がっ!!」
クシナの怒号が飛んで、シオニーが我に返る。
「うるさい馬鹿猫!」
興奮気味に言うシオニーの頭から、急に獣耳が生えてぱたぱたとせわしなく動き始めた。
「よしよし、臨戦態勢じゃな」
「こんな回りくどいことしなくてもちゃんと獣化使うよ! もうッ!」
涙目で口元を波打たせながら、シオニーが抗議の声をあげた。
すると次の瞬間、彼女の身体が銀色の光に包まれたかと思うと、そこに巨大な銀狼が姿を現した。
どことなくしょんぼりしているように見えるのは化身前のシオニーがそんな顔をしていたからだろうか。
「カカッ、それじゃ、皆の衆――死ぬなよ!」
雄叫び染みた声をあがり――トウカたちの上を黒い竜が凄まじい速度で飛翔していった。
◆◆◆
「いなせ! 〈竜族〉だ! まともに受けるなよ!」
ギリウスが戦景旅団の密集陣形に向かって高速で迫ったと同時、その陣形の後尾の辺りから怒号にも似た力強い声が飛んでいた。
戦景旅団の女団長〈メシュティエ〉の声だ。
その声が飛んだ瞬間、密集陣形がその数を均等にするように左右に分かれていった。
即決の陣形変更である。
「いなせ」の一言で、それまで強固な密集陣形を築いていた重装歩兵の面々は、自分たちの前方にまばらに集結している〈凱旋する愚者〉を半包囲するように陣形を組み直していった。
見方を変えれば、それは特攻をかけてくる巨大な黒竜に対してまともな防御を捨てた陣形であった。
いわば「殴られるのは仕方ないからせめて薄く広がって一度の犠牲者を減らそう」という気概すら見て取れる方策である。
対するギリウスは陣形変更の意図はまったくわからなかったが、それに構わず真っ直ぐに突っ込んだ。
「わざわざ首級への道を開け広げるか」
重厚な防御壁にもなっていたファランクスを解き、攻撃性の高い半包囲陣形を取れば、当然中心部に構えているだろうメシュティエやセシリアという首級への防御は薄くなる。
竜神形態のギリウスの飛翔能力をもってすればたやすく接近できるほどに手薄だ。
すると案の定、数秒もせずにギリウスの視界にメシュティエの姿が映った。
U字型の半包囲陣形のまさに中心部に立っている。
そこで自らの姿を完全に晒しているメシュティエが、高速で迫るギリウスに対して、
――かかってこいと、そういうわけであるか。
指を上にした手招きを見せた。
「少し頭にくる仕草であるなっ!!」
矮小な存在だ。
小さな人型だ。
それが竜族である自分を挑発するかのような動作を見せた。
その動作がいやに自らの怒気を刺激したように思えた。
そして――
「消え失せるがいい」
その怒気を発散するように、ギリウスは大口を開けた。
〈竜焔砲〉のモーションだ。
ぱかりと口を開けたギリウスの口腔内には、すでに溢れんばかりの深紅の炎が煮えたぎっていた。
それが圧縮され、轟音を発する炎弾になる。
「――ッ!!」
次の瞬間、濁音の咆哮から刹那、ギリウスの拳一つ分ほどにまで凝縮された真紅の炎弾が発射された。
前進飛翔しながら放たれたその炎弾はあまりの高速度に奇妙な高音を発しながら、一瞬でメシュティエの立っていた位置にまで突き進んだ。
着弾炸裂すればたいがいの物は消えてなくなるだろうと容易に連想させるほどのギリウスの竜焔砲。
しかし、
それは『炸裂しなかった』。
吹き飛んだ。
炎弾が、あらぬ方向へと。
真っ直ぐにメシュティエに向かった炎弾は、メシュティエの立っているあたりに着弾しそうになった瞬間に、唐突にその進行方向を『真上』に変え、空の彼方へと吹っ飛んで行った。
見ため的には弾かれたという表現がぴったりだが、弾いたと思われる当の本人はまるで傷を負っていない。
――無傷で……弾かれるとは。
ギリウスは死んでも構わないという意気で竜焔砲を放った。
以前模擬戦の時に放った竜焔砲とは似て非なるものだ。
当然、ギリウスの受けた衝撃は大きかった。
だが、そうこうしている内にも前進飛翔を止めていなかったギリウスはどんどんメシュティエに近づき、ついに鼻の先ほどの距離にまで接近してしまう。
「まさか一撃で終わりではないだろうな?」
口の端をつり上げながら言うメシュティエ。
彼女の周囲に広がっている他の戦景旅団の団員は、自分たちの首級にたやすく接敵されたにも関わらず、まったくメシュティエを守ろうとはしていなかった。
むしろ彼女の邪魔にならないようにメシュティエから離れ始めているようにさえ見えた。
異常な光景だ。
「――無論」
言うや否や、ギリウスはメシュティエの直近で高速を保ったまま急激な方向転換を行う。
真っ直ぐに向かっていっていた身体を、竜翼の力で右に弾かせた。
「その巨体でそこまで速く動くのか。驚異的だな」
明らかにメシュティエの反応は間に合っていない。
彼女の顔はこちらを捉えていない。
なのにもかかわらず悠長な感心の言葉が飛んでくる。
ギリウスは微塵の焦りすら見せないメシュティエの後背に回り込むと、右腕を腰の横に構え、容赦ない打撃を繰り出した。
「ボッ」と空気の壁をぶち破るような音と共に放たれた右拳は速度もさながら、メシュティエの身体を覆い隠すほどの大きさをたたえている。
音速で打ち出された巨大鉄塊のようなものだ。
何の方策も持たない人族がそれをまともに受ければ、塵さえ残らず即死であろう。
そういう次元の力をギリウスは繰り出していた。
放った拳がもう数瞬もかからずに襲いかかるという頃になって、ようやくメシュティエの反応がギリウスの速度に追いつき、身体が反転する。
そして彼女は目視からかろうじて反応が間に合った左手を、まるでギリウスの強烈な拳打を受け止めるかのように開いて掲げていた。
――受け止めるというのであるか。
無理だ。
そうギリウスは自惚れなしに思った。
だが、
「〈左方神力〉」
ギリウスの拳が着弾する間際、小さな言霊がその場に響き――
「ぐっ!」
ギリウスの放った右拳は、メシュティエの身体を塵にする前に大きく『弾かれていた』。
信じがたい光景である。
数倍もの体格差、そして膂力の差、力と関するものに関しては何もかもが劣っているように見える人型のメシュティエが、あろうことか竜族の拳を弾いたのだ。
弾かれたギリウスの拳はその表面の黒鱗が割れ、真っ赤な血が噴き出ていた。
決して割れない鉱物を殴りつけて自壊したかのような傷。
そんな傷がギリウスの竜の拳に現れていた。
当のギリウスも何が起こったかさっぱりわからなかった。
塵すら残さず消し飛ばすつもりであったのに、瞬き一つしてみれば自分の拳が大きく弾かれている。
だが一つだけ、確信めいたものもあった。
「それは『人の力』ではないな!!」
「ははは、当然だ。私は純人族だぞ。竜の拳を容易に弾ける純人が、この世のどこにいるというのだ。異族ですらほぼいないだろうに」
ならば――
「またも〈神族〉か!!」
ギリウスは珍しく声を荒げ、炎息と共に言った。