56話 「黒き鱗の竜王」
黒い鱗の竜だった。
荒々しく大気を打つ二枚の大翼。
悠然と揺れる巨大な尾。
頭部から生えた二本の巻き角。
縦に割れた瞳孔を持つ瞳と、口の端から覗く鋭い牙。
息を吐くのと同調して口の中から漏れ出す紅の炎。
規格外の存在感。
サレは物陰からその姿を見て、
――ギ、ギリウス……?
疑問符を含んだ言葉を胸中に浮かべる。
恐らくギリウスなのだろうという予想こそあれ、その姿は見たことがない。
いつもの準人型でもなければ、前に見た四足型の竜体でもない。
形容するならばその中間ともいえる形態だ。
首は四足竜体の時ほど長くはなく、腕も腕として認めた方が忠実な形。
その辺を見ると人型に寄っているかもしれない。
ともあれ、
――なんかすげえかっけえな!!
サレは興奮気味に内心で紡いだ。
その黒竜の姿は洗練されたフォルムとでも言おうか。
大きさも四足竜体の時よりコンパクトになっており、巨大さよりもむしろバランスの良さが際立つ。
黒鱗に覆われる隆起した筋肉群なども、黄金比とでも例えられてしまいそうな形を象っていた。
「ぬ、ここどこであるか」
――あ、やっぱりギリウスだ。
他の褒め言葉を探していたサレであったが、間の抜けたような声が竜の口から飛び出たのを確認して、即座に確信する。
「う、うーむ、シルフィードを抜けたはいいが、ここからどうするかあまり考えていなかったのである……」
黒竜は手の爪でぽりぽりと頭を掻き、困ったようにその場で宙を二三度舞った。
いちいち翼で大気を打つたびにその場で凄まじい暴風が吹き荒れ、呆気にとられていた白装束たちを意図せず吹き飛ばす。
「あっ、あっ、す、すまんである。どうにも我輩、本気形態だと加減ができぬもので…………あっ!」
黒竜は語尾で閃いたように掌の上に拳を落とし、なにやら思い出したかのように吹き飛んだ白装束たちを見やる。
一連の動作で衝撃波染みた風を発生させながら、ギリウスが声をあげた。
「せっかく人がいるから聞けばいいのであるな! そこの者たち――」
「ひっ、ひぃぃいい!」
唐突に話しかけられた白装束たちはか細い悲鳴を上げ、各々が必死の形相でその場から逃げだす。
「あっ、ちょっ、待つのであるよ!」
焦ったようにギリウスが声を発すると、その拍子で口から紅蓮の炎が飛び出た。
「お、おっと! ――である」
ギリウスは慌てたように両手で口を塞ぎ、一人で「ふー……危ない危ない、である」などとつぶやいている。
すると、白装束たちが逃げていったのを見やって、サレはついに物陰から姿を現した。
「俺ならここにいるよ、ずいぶんタイミングが良かったね、ギリウス。――あと超カッコイイな!!」
「おお! ここにいたかサレ! ――カッコイイであろう? これ、我輩の本気モードであるよ! その名も竜神形態である! 神族をぶん殴るために初代竜王が考案した一族秘伝の形態であるよ!!」
――どうやらギリウスの属していた竜族も初期の魔人族と大差ないオツムだったらしい。
ぶん殴るだけでなんとかしようとする辺りは、いっそ魔人族よりひどい可能性がある。
思いながら、サレはさらにギリウスの言葉を反芻して、とあることに気付いた。
――秘伝なのか。
いや待てよ? 秘伝だろ?
〈初代竜王〉の秘伝って、つまりそれなりに由緒正しい御家柄じゃなけりゃ使えないよな……?
サレは「やはりぶん殴るには腕がなければ無理であるからな!」と笑っているギリウスを見て、訊ねていた。
「あのさ、ちょっと訊きたいんだけどさ」
「ぬ?」
「ギリウスって竜族の中でも御家柄がなかなか立派だったりする?」
「――うむ。我輩一応、竜王の系譜に生まれた直系の竜族であるからな」
「あー……」
――どうすっかなぁ。これ、どうすっかなぁ。
俺もう嫌な予感しかしないんだなぁ。
サレは指折り数えて頭の中で反芻した。
――アテム王国王女。人狼王の子孫。竜王の子孫。
自分も名ばかりだが魔人族の皇帝であることを加味すると、いよいよもって権力的インフレーションに意識が傾く。
確定しているだけですでに四人だ。
その他、プルミエールやマリアあたりもかなり怪しい。
「んー……」
「どうしたのであるか?」
あるいは、因果を思い起こせばそれは当然なのかもしれない。
〈凱旋する愚者〉にいる者たちは、その種族や一族をアテム王国に狙われた。
それでいてアテム王国の魔の手を切り抜けた者たちだ。
仮に何人かだけ逃がすことが出来るならば、一族の者はより身分の高い者、もしくは一人で逃げ切れる可能性が高い力を持つ者を逃がそうとするだろう。
そう考えると、つまり生き残っていること自体が一定の地位を証明している可能性がある。
「うおお……いよいよもって皆の生まれを問いただしたくなってきた」
気になるところだ。
まだ過去を思い起こさせるのに気がひける者もいるが、近頃はこのギリウスのように自然に聞いてしまえる者たちもちらほらと出てきている。
ともあれ、まあ、思考はその辺にしておいて――
――今は今のことを考えよう。
サレが思考を切り替えると同時、
「サレ、サレ、あまり悠長にしている時間もないので、そろそろ行くのであるよ。状況は道すがら説明するのである」
ギリウスが言った。
同じことを考えていたらしい。
続けてまた、紅蓮の炎と共にギリウスが言葉を紡いだ。
「また〈シルフィード〉を突っ切るので、我輩の手の中に少しばかりの間隠れているのであるよ」
「分かった」
ギリウスに促され、サレはその手に足を乗っけた。
「あっ、一応注意しておくけど――握りつぶすなよ?」
先ほどのギリウスの「加減が利かない」という言葉が脳裏をよぎり、サレは身震いをして言った。
返ってきたのは――
「きっと大丈夫であるよ、サレなら。――むしろサレじゃないとヤバイかもしれないのであるが」
ややぎこちない笑顔であった。
「おい、ちょっと待っ――」
「では、行くのである!!」
サレの制止を振り切り、黒竜が手でサレを包み込むと、一気にシルフィードに突っ込んで行った。
◆◆◆
ギリウスの指の隙間から風が流れ込んでくる。
サレはその風に頬を撫でられながら、両手両足を突っ張ってギリウスの『握力』に耐えていた。
――気ィ抜いたら死ぬ! 「プチッ、グシャア!!」って未来が俺を手招きして待ってる!!
耐えに耐え続け、しばらくしてようやく四方八方からの握力が緩まる。
同時に、視界が開けた。
ギリウスが手を開いたのだ。
サレは身体に打ち付ける心地よい風を感じ、自分が空を飛んでいるかのような感覚を得た。
頬を撫でていく風は涼やかで、清々しさを感じさせた――のも一瞬で、あまりの飛翔速度に風が激しさを増していく。
打ち付けてくる風が徐々に痛い程に変化し、視界も風が眼球にあたるせいでよく見えず、ギリウスの手を離せば即座に宙に吹き飛ばされそうな状況に陥っていた。
「手の上はまずいってぇぇぇえええ!! 落ちるっ! 落ちるぅぅぅううう!!」
「おおっ! そうであるな!」
――なに悠長に感心してやがんだこいつ……!
「なら首の裏に掴まるといいのであるよ。ある程度は風も遮れると思うのである」
言いながら、ギリウスがサレの首根っこを掴もうと逆の手をもたげた。
その動きをなんとか視界の端で捉えたサレが唐突な不穏を感じてギリウスに言う。
「あっ、き、木の実みたいにプチっとされそうだから自分で移動するよ……」
「おお、我輩もその方が安心である」
――ほらみろ! やっぱり不安だったんじゃねえか! ちょ、超おっかねえな……!
近頃イリアの得意とする接頭辞を多用するようになったのは決して彼女の影響ではなく、単純に周りの出来事がその言葉によって形容されるべきものばかりになってきていることが原因だと、サレは内心で思った。
サレは必死で黒鱗に捕まりながら、絶壁でも登るかのような心持でなんとかギリウスの首裏まで登り切り、ようやく一息をつく。
相変わらず飛翔速度は凄まじいもので、もう一分と経たずに眼下の湖都へとたどり着いてしまいそうだ。
「それで、どういう状況?」
「うむ。よくわからんギルドが爛漫亭に殴り込みに来たのである。その大半は本気出して『ビリビリ状態』になったトウカや機嫌の悪かったマリア、あと我輩のデコピンによって成敗されたが、一人だけやけに『硬い』のがおってな。どうにも分が悪いのであるよ。そしたらマリアが『あれは神格術式使いのようですので、ちょっと空戦班長シルフィード突っ切って副長呼んできてください』と言ったので、こうして迎えに来たわけである」
「なんか前半部に色々ツッコみたいところあるけど、とりあえずおいておくか。――被害は?」
「ほとんど無害であるな。先日の襲撃で皆気を引き締めておったから、対処も早かったのであるよ」
「そっか」
――心強い限りだ。
サレは心の底からそう思った。
そうこうしている内にも湖都ナイアスの碧い街並みが徐々に大きくなってきて、
「見えた。マリアとトウカが引きつけてる。爛漫亭から少し東に離れた街路だ」
サレの目が仲間たちの姿を捉える。異常な視力性能だ。
「一体どういう動体視力をしているのであるか。――ぬ、あれか」
サレに促され、ギリウスもその姿を見つけたようだった。
「分かったのである、我輩はあの辺に着地できないので、サレを大体の場所に放り投げるが、オッケーであるか?」
「全然オッケーじゃないけどギリウスもうやるつもりなんだろ……」
「大丈夫であるよ、あの黒い翼でうまく着地すればきっとうまくいくのである」
「うまく逝くの間違いだろ……」
「では、行くのであるよ!」
――俺には「せいぜい派手に逝くのであるよ!」にしか聞こえない。
心地の悪い胸の高鳴りを得た瞬間、サレはギリウスの指に摘ままれて、湖都の大地に放り投げられていた。
◆◆◆
ギリウスの投擲能力の高さを賛美したいところだ。
――自分が球じゃなければなっ!!
サレは猛烈な速度で空中を落下していた。
着弾地点は寸分のズレもなくトウカとマリアが交戦している夜のナイアスの街路だ。
「こ、これは無理だろっ!! ――マ、マリアアアアアアア!! 超必死で受け止めくれぇぇぇええええええええ!!」
背部に展開した〈黒翼〉は落下の速度を多少相殺してくれたものの、それでもいまだに落下速度は危険域だ。
無様に黒翼を羽ばたかせてはいるがこれ以上効力は見込めそうにない。
だからサレは眼下の万能精霊族に必死で助けを求めた。
◆◆◆
一方、ナイアスの街路で敵対人物と交戦していたマリアは、どこからか自分の名を呼ぶ声が響いてきたのにちゃんと気付いていた。
「この微妙に情けない声は――」
少し母性をくすぐられる情けない声が聞こえて、マリアは空を見上げた。
目を凝らしてみると、黒い炎の翼をはためかせながら落下してくる所属ギルドの副長が見えて、
「――副長!? ――ちょ、ちょっと! なんで空から落下――ああもうっ! 風の精よ! あの人を受け止めて!」
金色の瞳に映る薄緑色の精霊たちに願いをかけていた。
すると、マリアの声を聞き届けた薄緑色の精霊たちが列をなし、その場に渦巻くような風の道を形成した。
マリアは即座にサレの着弾地点を見極め、加えて精霊に指示を飛ばし、渦巻く風の道を微調整させる。
三秒ほどしてその巻き上げる風の道にサレが落下してきて――もみくちゃにされながら地面に激突した。
激突する寸前には下方からの風で落下速度もだいぶ弱まり、落下音からもサレが潰れた音は聞こえなかった。
小さく街路の碧水を弾けさせて落下したサレはすぐさま顔を上げ、
「死ぬかと思った! 死ぬかと思った!! いやホントにっ!!」
「なんで副長がいきなり空から落ちてくるのですか!!」
「ギリウスが投げたんだよっ!! く、くっそ!! 絶対あとで仕返しする!! 絶対する!!」
サレは自分でも無事であるのが信じられないといった顔で何度も空を指差し、空中を転回している黒竜に向けて叫んでいた。
「はあああ…………もう色々と叱る気力も失せました……」
マリアの方もいささか取り乱している様子で、いつもの柔和さを消し去って眉間を押さえている。
するとそこへ、
「お? いつの間に帰ってきたのじゃ、サレ」
聞き覚えのある声が飛んできた。
サレが黒ローブと仮面を脱ぎながら愚痴をこぼしているところへ飛んできた凛々しい声だ。
振り向けばそこにはトウカの姿があった。
「今まさにこの瞬間、投げられた球のように帰ってきたよ」
「ほ、ほう。いまいち何言っとるか分からんがよく戻ったな」
見ると、トウカの身体は皮膚や髪までもが青白い雷光色に染まっていた。
身体が『雷電』を纏っているのだ。
「ギリウスが言ってたビリビリってのはこういうことか」サレが小さくつぶやき、さらにトウカに訊ねた。
「なんなの? そのビリビリ状態」
「これか? 鬼人族の固有能力、固有術式みたいなもんじゃな。鬼人は雷電の化身とも言われておる。この角には固有燃料が宿っておってな。解放するとこのように身体が〈雷化〉するのじゃよ。――ほれ、触ってみるか? ほれほれ、今ならわらわの乳を好き放題にしてもよいぞ?」
サレは「ほれ、ほれ」とわざとらしくその形の良い乳房を突きだしてくるトウカから一歩後ずさり、
「絶対に良くないことが起こるから遠慮する……」
珍しく撤退への意気を述べた。
「合法的にわらわのナイスな身体に触れられるチャンスだと言うのに、もったいない」
「自分で言うなよ!」
得意げに鼻を鳴らすトウカに軽くツッコミを入れつつ、サレはおもむろに右手に〈サンクトゥスの黒炎〉を展開させた。
するとトウカが「あっ」と口を開けて手を前に構え、
「そっ、それはやめるのじゃ! わらわが悪かった! あとで腹くらいならさすってよいぞ!」
「言ったな! 一日中へそ周り撫で続けてやるからな! ――いやそうじゃなくて」
サレが黒炎を展開させた理由は別にあった。
マリアとトウカが引きつけていたと思われる『敵対人物』がサレの視界に入ったからだ。
視界の端を舞ったのは金の髪。
次に映ったのは空色の誰かの瞳。
ジュリアスと同じ特徴。
「おいおいおい、なんだよなんだよ。いきなり空から人が降ってきたと思ったらまたお仲間かい? 困ったなぁ、勝ちにこだわってわざわざ狡い影武者まで使ったのに、まるで返り討ちじゃないか」
どことなくジュリアスに似た雰囲気を持つ優男がそこにはいた。
軽妙な軽口と、優雅な動きでサレの前に歩み寄る者。
「〈第三王子〉か?」
サレは黒炎を右手に湛えたままその男に訊ねた。
「離れてて」とマリアとトウカを向こうに押しやりつつ、同じく一歩を前に踏む。
「んん? ――ああ、もしかしてもう気付かれたのかな? 結構早かったなぁ。――そうとも、俺がテフラ王国第三王子〈レヴィ・シストア・テフラ〉だ。以後お見知りおきを」
大きな身振り手振りで一礼を施す〈レヴィ第三王子〉。
長い金髪が垂れ、彼の顔半分を隠した。
「それにしても美人ばっかだねぇ、このギルド。一人くらい分けてくれない?」
「だめ」
サレの即答が紡がれる。
レヴィはその答えのあまりの速度に目を丸め、しかしすぐに妖しげな笑みを浮かべて言った。
「そっか。――まあいいさ。ここは勝てば要求が通る場所だ。ほら、続きを始めよう。俺とて連帯ギルドのかわいこちゃんたちをやられて少し悔しいところなんだ。せめて当初の目的くらいは果たさないとね」
そこへ横からトウカの声が飛んできて、
「サレ、ふざけたヤツに見えるじゃろうが、実力は本物じゃぞ。神格防護のせいでわらわたちの攻撃が防がれる。まあ攻撃さえ通れば勝てぬ相手ではないのじゃが……ひたすらに硬いというのはそれだけでどうしようもないからの……」
説明を加えた。
サレは視線をレヴィのままに、トウカの声に応える。
「そのために俺がいるんだろ。――アリスは?」
皇剣を抜き放ちながら続けて訊ねる。
「無事じゃ。その男以外は全部退けたからの」
「そっか。それで、あいつはギルドを潰しに来たんだよね」
「そうじゃな。殺しに来たわけではなさそうじゃが、潰しにはきておるだろう」
「わかった。ならこちらも相応の対処をしよう」
サレはトウカの言葉を聞いて意識を改める。
殺しにきたではなく、潰しにきた。
なら――
「俺もその方針を借りるとしよう」
そういって、サレはイルドゥーエ皇剣を抜き放った。




