47話 「黒い夢と赤い涙」【後編】
とめどなく溢れ来る液体。
雫。
血。
赤い、涙。
◆◆◆
「サレ、いつまで寝ているんだ。朝食の受付時間が終わってしまうぞ?」
自室の扉の外から声が聞こえてくる。
シオニーの声だ。
同時に、扉をノックする音が二度聞こえ、
「入ってくるな!!」
サレは叫んでいた。
扉の取っ手は半分ほど降ろされたあたりで止まり、次に、
「ど、どうしたんだ。……あっ、べ、べつに今は下着姿じゃないぞ!? 私とて誰彼構わず肌を晒すわけじゃないし……その――」
――違う。違うんだ。
シオニーが悪いわけじゃないんだ。
そう思いながら、サレは足早に部屋の備え付けの姿見に歩み寄り、鏡に映る自らの顔を見た。
鏡に映った自分の顔。
その眼から、真っ赤な鮮血が流れ落ちている。
〈血の涙〉は頬を伝い、顎から垂れて床に落ちる。
瞳には〈殲す眼〉の六芒星紋様がくっきりと浮かび上がっており、それを見た時にサレの心臓が大きく脈打った。
――今、誰かを見てはならない。
害意を言の葉に乗せるという〈殲す眼〉発動の習慣はついている。
わざわざ言葉にするのは、こうした時のための『安全装置』でもあった。
言葉なくして〈殲す眼〉を発動させる癖がついてしまえば、悪意を心に浮かべた時点で〈殲す眼〉が発動してしまうかもしれない。
そんな可能性があった。
明確な能動意志がなくして発動してしまうには〈殲す眼〉は強力過ぎる。
一抹の悪意で取り返しのつかないことになる。
だからこその害意の『発言』。
だが、そうした安全手順を習慣化させていたとしても、この状況では不安にならずにはいられない。
――紋様が消えない。
いつもの感覚で〈殲す眼〉の六芒星紋様を瞳から消そうとしても、鏡の中の瞳から紋様は消えなかった。
発動準備状態が解けないのだ。
〈殲す眼〉が意志に反する。
「――サレ? ……おい、大丈夫か? もしかしてなにかあったのか?」
「あ……ああ、ちょっと今服着てなくて。もう少ししたら食堂に行くから、大丈夫だよ」
必死で言葉を返す。
可能な限り平静を装ったが、シオニーはこの返答に満足してくれるだろうか。
「――そうか。わかった。じゃあ私は先に行っているからな」
「うん、わざわざありがとうね」
扉の前にあった気配が遠ざかっていく。
足音は小さくなり、次いで、階段を下りていくかすかな音がした。
「……」
サレはシオニーが階下へ下りていったのを確認したあと、急速に脳裏に展開されていく情報図を整理する。
――なにが原因だ。
一昨日の戦闘で〈殲す眼〉を使ったが、その時に使用限界の兆候は見られなかった。
それに、大体の場合、〈血の涙〉は使用限界の直後に来る。
こんなに間を空けて流れることは今までなかった。
となると、原因は他にあるか。
――いずれにせよ、
「血を止めないことには…………まずいことになるな」
血の涙が流れ続ければ死ぬ。
魔人族が忘れてはならない〈殲す眼〉の限界症状であり、命の綱となる警告。
「くそっ……」
サレは焦燥を感じて、姿見に八つ当たりした。
鏡が割れて、床に落ちた。
◆◆◆
「サレの様子がおかしい?」
「ああ、呼んでも降りてこないし、少し焦ってるみたいな声音だったし――」
「ほほう、ぬし、すでに声音だけでサレの心中を察することができるまでになったか。あれか、あれじゃな――愛的な力のなせる技かの」
「トウカ、私は真面目に言ってるんだぞ」
食堂で先に食事をしていたトウカに、シオニーが話しかけていた。
「わらわも真面目に言ったつもりじゃったんじゃが――」
頭をぽりぽりと掻きながらトウカは笑う。
「まあよい。……ふむ、ならばわらわもサレの様子を見に行くとするかの。シオニーも来るか?」
「もちろんだ」
「よし。場合によっては強硬突撃するぞ。我らが副長はよく問題を内に抱える癖がある。それで勝手に壊れてもらっては、わらわたちも困るからの」
「わかった」
二人は食堂から出て、サレの部屋へと向かった。
◆◆◆
「サレ、入ってよいか」
「ダメだ」
しばらくすると、サレの部屋の扉越しに声が響いた。
トウカの声だ。
しかしサレはトウカの提案を即時で拒否した。
「ほう、なぜじゃ? ――シオニーの話によれば、服を着たら降りてくるという話じゃったらしいが。ぬしはいつまで経っても降りて来ん。――なにがあった?」
「あとで説明する」
「……ふむ、扉越しはやはり面倒じゃな」
その呟き声のあとに、「ふう」と間延びしたため息が扉の外で響いたのをサレの耳は感知していた。
ただでさえ切羽詰っているというのに、これ以上何か起こされたら、とサレが内心に不安を浮かべていると、
「修繕費はジュリアスにたかるとしよう!」
次の瞬間、そんな言葉のあとに、鍵を掛けていた部屋の扉が盛大に破裂した。
扉の破片が部屋の内側に飛び散り、ぱらぱらと音を立てて広がる。
サレが驚いておもわず扉側を見ると、拳を振り抜いた姿勢のトウカと、頭を抱えるシオニーの姿が映った。
「――――っ! ぬし、それは……!」
「っ!! サレ!!」
次いで、サレの顔を見た二人が驚きの表情を浮かべ、シオニーが真っ先にサレに駆け寄った。
だが、サレはとっさに片手を開いて突きだし、シオニーたちに静止するよう要求する。
目を逸らし、彼女たちを直視しないように床に視線を落としながら、サレが言葉を紡いだ。
「来ないでくれ。正直自分でも〈殲す眼〉がどういう状態なのか分かってないから、もしかしたらなにかの拍子でシオニーたちを害してしまうかもしれない」
サレは目蓋を閉じ、少し息を詰まらせながら続けた。
「――それが怖い。――とても怖い。だから、来ないでくれ」
――シオニー達を遠ざけようとするこの拒否の念さえも、もしかしたら害意に結びついてしまうかもしれない。
初めて〈殲す眼〉を発動させた時がそうだった。
なにかを壊してしまうかもしれないという不安と、それゆえに周りの者を遠ざけようとする拒否感が、〈殲す眼〉の暴走を招いた。
だから、今回もそうなる可能性は捨てきれない。
あの時はアルフレッドが手で自分の目蓋を閉じて、数分後には〈殲す眼〉も〈血の涙〉も停止した。
だが今回は違う。
目蓋を閉じても血の涙は溢れ続ける。
――目が痛い。
目蓋を自らの意志で閉じると、痛みが増す。
まるで視界を断つことを身体が拒否しているかのような、そんな印象すら受ける。
「目を閉じると……痛いんだ。だから、本当は開けていたい。でも、シオニーたちがそこにいるかぎり、目を開けているのも怖い」
――お願いだから、一人にしてくれ。
本当は、一人でいるのも不安だけれど、この眼で誰かを壊してしまうよりはずっとマシだ。
「……わかった」
「ごめんね」
シオニーたちを非難するような形になってしまったと、サレは内心で悔やむ。
だが、いちいち言葉を選んでいる余裕もなくて。
対するシオニーは了承の意を口にした。
これでひとまずは大丈夫だろうとサレは安心したが、
「視界に入らなければいいんだな」
どうやらサレの言葉を受けたシオニーはサレの思惑とは別の行動に出たようで。
「なら、方法はいくらでもある」
足音が近づく。
「なにを――」
再び口を開きかけたサレだったが、不意に口元を優しくなにかに押さえられた。
ぬくもりの宿った、体温の感じられるなにか。細い感触は指だろうか。
次いで、自分が腰かけているベッドが揺れ――
後ろから誰かに抱きつかれた。
「こうしていれば、私がサレの視界に入ることはない」
「はは……そう来るとは思わなかった」
――本当に。
「たまには私がおちょくる立場でもいいだろう? いつも犬だなんだとからかわれているからな。せめてもの――仕返しだ」
「――とんだ意趣返しだよ」
優しげな声が耳元で鳴る。
心地よく、心が安らぐような、柔らかな音色。
「トウカ、ここは私が見ておくから。他の皆にもサレのことを言っておいてくれ」
「ふむ、そうじゃな。そうするとしよう」
トウカはシオニーの言葉を受けて、顔にニヤニヤとした笑みを浮かべて踵を返した。
◆◆◆
「痛いなら目を開けていいぞ」
シオニーの促しを受けて、サレはおもむろに目を開ける。
確かにシオニーの姿は映らない。
それでも、後ろから感じる温もりはシオニーのもので、一人ではないという安心感があった。
「あんまり弱みを見せたくなかったんだけどなぁ」
「弱みのない奴なんかいないだろう」
「それは正論なんだけど。――シオニーが言うと説得力があるね」
「なんだ、私が弱みだらけだって言いたいのか」
「否定はしない」
「殴るぞ」
「今はやめてほしいな」
「ふん」
シオニーの銀の髪が肩に掛かっているのが視界の端に映る。
サレはその銀の髪を手で救い上げて、感触を確かめるように何度か撫でた。
「ごめん、血がついちゃった」
「構わない。あとで洗えばいい」
「…………本当は、俺も一人は怖いんだ」
「それはそうだろう。サレにとって血の涙がどういう意味を持つのかはアリスに聞いて知っている。もし同じ立場だったら、誰だって恐怖するだろう」
それに、とシオニーが続けた。
「私たちは……人一倍孤独への恐怖を抱いているからな……」
「……」
「あの恐怖は、誰だって二度と味わいたいとは思わないさ」
腰に回っているシオニーの腕に力が入ったのを、サレは感じた。
「そうだね。…………はぁ。――早くこの血、止まらないかなぁ……」
「止まるさ。大丈夫だ」
根拠のないその言葉が、今のサレにとっては救いだった。
◆◆◆
「ねえ、この状況を記録に残したらサレとシオニーのこと結構長い間イジれるんじゃない?」
「あら、なかなか良い提案ね、愚眼鏡。この状況でもその外道魂を見失わないことは評価に値するわ」
「ぬしら、楽しんでないか?」
「我輩、仲間ながらにこの外道っぷりに戦慄を覚えるのであるよ……!」
サレの部屋の外側にはギルド員が続々と集まりつつあった。
トウカ、ギリウス、プルミエール、メイトをはじめとして、すでに十数人のギルド員が廊下の壁に背をあずけて座っている。
「それにしても、皆さんずいぶんと集まりましたね。――ちゃんと資金繰りしてきたんですか? まさかサボる口実にこの状況使ってませんか?」
そこへアリスが現れて、ジト目でそんなことを言った。
辺りからわざとらしい口笛の音が聞こえてきて、アリスがうなだれる。
「しかたのない人たちですね……まあ、今回ばかりは見逃して差し上げましょう。――ですが、後日無理難題を押し付けられても泣かないでくださいね。自業自得ですからね?」
「アリス、顔がにやけておるぞ」
「べつにこの機に乗じて皆さんをパシってやろうなどと考えて楽しくなってきているわけではありませんよ?」
「もはやツッコむ意味さえ感じない返答であるな……」
不気味な笑みを浮かべたアリスを見て、周りからは「ウォォ……」や「ウワァ……」などの屍のような声があがった。
そんなアリスも廊下に空いたスペースを見つけると、その場に腰をおろして一息をついた。
「今マリアさんがなにか効きそうな薬はないかと奔走してくださっています。薬学的知識のない私たちではどうしようもありませんが、その点マリアさんはそちらの分野にも精通していらっしゃるようですので」
「ホント、マリアってなんでもありだよね……尊敬を通り越してちょっと恐くなってくるよ、あの万能っぷりに」
「メイトさんのその眼鏡は飾りですか」
「えっ!? なになに!? 眼鏡かけてると漏れなく博識とか、今そんな定義で言ったの!? 理不尽だよね!? すごく理不尽だよね!?」
「愚眼鏡だからしょうがないのよ」
「なんか腹立つ! 君たちだって僕と大差ないじゃないか!」
「お前ら、毎度毎度思うけど外道かつうるさいな」
「まな板は川で洗濯でもしてなさい」
「おい!! それ言うなら洗濯板だろ!! なんでいきなりまな板の汎用性があがってるんだよ!!」
「マコトのツッコミもだいぶ的を射ないようになってきたわね……」
「あ、あれっ!? 今私間違えたか!? あれぇ!?」
「私もこいつらに毒されてきたのかな……」と項垂れるマコトの肩にアリスがそっと手を置いた。
次いで、もう片方の手の親指をグっと上げ、
「大丈夫です、マコトさんのツッコミは大概スルーされてますから。気にする必要はありませんよ」
「お、おおう……喜んだ方がいいのか悲しんだ方がいいのかよくわからないフォローをありがとう、アリス……」
◆◆◆
――暇だな、あいつら。
サレが内心で苦笑する。
後ろからシオニーがため息をつく音も聞こえてきた。
「外が騒がしいな」
「あいつら、サボる口実を見つけてテンションが上がってるんだろう」
「かもしれないな。困ったやつらだ」
ふと笑みが漏れる。
世話好きなのか、馬鹿なのか、外道なのか、はっきりして欲しいところだ。
「血の涙は止まりそうか?」
「勢いは弱まってる気がするけど――」
まだ完全には止まっていない。
ふと床を見るとこれまで流した血が盛大に血だまりになっている。
大部分は木材に吸われてシミになっているが、それにしても流した量が多い分、血だまりとなって残る量も多い。
そろそろ貧血になってもおかしくないな、とサレはその光景を達観視していた。
失った血に比例するように、頭の中に掛かる靄も増えてきて、まともな思考が回らなくなる。
また、別の感触も新たに発生してきていた。
――眼が熱い。
瞳の表面が焼けているような、そんな感覚。
「シオニー、悪いんだけど、そこらへんに落ちてる鏡の破片取ってくれる?」
サレは自らが割った鏡の破片が辺りに散らばっていることに気付いて、シオニーにそれを取ってくれるよう頼んだ。
正直なところ、すでに立ち上がる気力も薄れてきていた。
「わかった」
シオニーはサレの促しに応じて一度サレの腰から手をほどくと、サレの視界に映らないように身をかがめて床に落ちている鏡の破片を拾い上げる。
それをサレの手に握らせて、再びシオニーはサレの腰に手を回した。
「シオニー、頭低くして。顔を映すからシオニーも映っちゃうかもしれない」
反射による目視で〈殲す眼〉が発動するかはわからないが、この際注意するに越したことはない。
背中に当たる感触からシオニーが頭を下げたことを察すると、サレは重い腕を上げて鏡を眼前に掲げた。
角度を調整して、自分の瞳が映るように位置を変える。
ちょうど片目が映る角度を発見して、サレは目を凝らした。
「――」
そして知る。
己の眼に生じている変化を。
「どうした? なにかあったか?」
シオニーの声はなんとなく耳に入ってはいたが、サレの思考はほぼ全てその変化に費やされていた。
〈殲す眼〉の術式紋様が金色に輝いていた。