46話 「黒い夢と赤い涙」【前編】
「し、死ぬかと思った……」
「あらあら、たかだか二十キロ程の荷物で大げさですよお、副長」
サレたちが爛漫亭へ帰り着いたのはその日の夕方だった。
全身のいたるところに荷物をくくりつけられたサレは、荷物ごと大広間のソファに倒れこみ、息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。
「お疲れ様です、皆さん。買い物ははかどりましたか?」
「ええ、大体のものは揃いましたよ。これでこの宿もいっそう拠点らしくなりましたね」
「三階の修繕もほぼ完了したようです。――いやはや、この国の大工はなかなかの手練れですね」
先にソファで待ちかまえていたアリスがうなずきを作る。
「それで、サレさんからジュリアスさんの策については聞きましたか?」
「ええ、聞いたわよ。私はあなたの出席には反対します」
「……そうですか」
「あなたは守られることが仕事でもあるのよ。わざわざ例の会合に出席する必要はないと、私はハッキリと言っておきましょう」
「わかっているつもりではあるのですが、ただ守られるというのも――少し気が引けますね。こうも如実ですと、特に」
アリスが表情を曇らせる。
マリアはアリスの心中を察して、その肩を優しく抱いた。
「それでも、その呵責に耐えてもらわないと、私たちは困ってしまうのよ」
「そう……ですか」
まだ釈然としない感じではありそうだったが、幾ばくかしてアリスは、
「わかりました。他の方も同様の意見のようでしたので、私はおとなしく皆さんの思いを酌みましょう」
そういって自らで無理やり納得するように、二三度のうなずきを作った。
そのあとで、ソファで倒れていたサレが絞り出すように声をあげた。
「――んあー……ホントに肩がもげそう。――まあ、そういうわけで会合には俺が出席するよ」
サレが身体に縛り付けられた荷物類を解きながら続ける。
「顔と身体を隠していけばなんとかなると思うよ。アリスと俺じゃ身長差もあるけど、さすがにそこまで細かくは見ないだろうさ。いずれにせよ、勘付かれたら逃げるし」
「逃げるのですか」
「ああ、ジュリアスが適当にフォローしてくれるさ」
「ジュリアスさんも苦労しそうですねぇ」
「主導してるのはあいつだからな。苦労して当たり前だ。貧乏くじを自分で引いたようなものなんだから」
ようやくすべての荷物を解き終えたサレが、身体をほぐすように一度大きく伸びをして、どさりとソファに腰を掛けなおした。
「あと、たぶん会合中は爛漫亭にもなんらかの監視の目が入ると思うから、不自然に思われないようにマコトに俺の代わりをしてもらうって話になったよ」
「ほう。代わりですか」
「そう。昨日派手に大盤振る舞いしちゃったからね。むしろアリスよりも俺の姿の方が黄金樹林あたりには鮮明に映ったと思う。だから、一応の保険としてマコトの妖術で俺が爛漫亭でじっとしていることを偽装してもらう。あくまで保険だけど」
「なるほど。わかりました。ではその方向で話を進めるとしましょう」
◆◆◆
サレたちは会合当日のある程度の動きを決め、あとはジュリアスを待つのみという段階にまで急速に話を進めた。
その日ジュリアスが訪れることはなく、あとは普段通りという形でまとまって、各々が習慣化しはじめてきたそれぞれの日課をこなしはじめる。
そんな中で、サレはその日の夜も自室で〈サンクトゥスの黒炎〉の術式解析に時間を費やしていた。
机に突っ伏しながら、机に刻まれている黒い術式陣をぼーっと眺めているサレの姿がそこにはあった。
「んー……」
術式解析自体は順調に進み、黒炎が示した机の上の術式はほとんど解析が終わって、残るは天井と壁に広がった術式という段階。
「といっても、量的にはこっちのが膨大なわけだけど」
机の上に広がった術式陣を理解したことで、ある程度の傾向は理解できた。
ゆえに、さらに速度を進めて解析を進めることができるだろうとも思う。
しかし、単純な量としては天井や壁に広がった術式回路の方が膨大なわけで。
「残るは二日か……いや、会合前夜はジュリアスと打ち合わせる必要もあるし、できれば明日中には解析を終えたいところだなぁ」
一方で、
「全部を完全に解析しきるのは無理だろうけど……」
そんな思いもあった。
ただ、この膨大な術式回路のどこが『神格性』を担っているかについて確信を得るのは、可能かもしれない。
術式の確信部分を、つかめるかもしれない。
「いや、つかまなきゃならない」
だから、細部の些細な術式機能部分は取捨して読み飛ばす。
どこがもっとも重要なのか。
それを探すのだ。
まるで巨大な絵画の間違いさがしでもしているかのような気分になる。
それでも、妥協は許されない。
――俺たちにはそう多くの時間はない。
そんな思いを再び得ながら、サレは解析を続けていった。
◆◆◆
「ふう……疲れた……一旦休憩しよう……」
大きく息を吐いて、張りつめていた緊張を解く。
右手の上で燃え盛る黒炎に適当に合図を送り、一旦部屋中に広がった術式回路を消させ、サレは窓辺に歩みよった。
相も変わらず賑やかで煌びやかな景色が広がっている。
――空都アリアルは一体どんな景色なのだろうか。
湖都でさえこの煌びやかさだ。
逆に、旅人や商人が集まる湖都だからこそこれほどまでの賑やかさがあるのだろうか。
空都は一定以上の地位を確立しなければ定住できないと言われている。
「想像がつかないなぁ。空に浮かぶ都って」
窓を開けてそこから首をだし、ふと天を仰げば『空に浮かぶ巨大な大陸』が見える。
特殊な風域帯〈シルフィード〉によって空中大陸付近は靄がかかっているようにも見えるが、それでもその存在感が損なわれているということはない。
「遊びに行くわけじゃないけど、少し楽しみでもあるな」
好奇心は増幅する。
外の世界を見るのは楽しい。
イルドゥーエ皇国にこもりきりだったころに少しの郷愁を抱きもするが、それは自分が外の世界に旅立ったからこその郷愁だ。
この思いも外に出なければ抱くことはなかっただろう。
「――さて、続きに戻ろうか」
外の空気を肺腑いっぱいに吸い込み、吸いこみきったところで一旦息を止めて、そのあとでゆっくりと吐き出した。
深呼吸のあと、サレは窓を閉め、再び術式の解析に戻った。
◆◆◆
夜もふけ、爛漫亭の中からも声が消え、静まりかえったころになって、ようやくサレは術式解析に一区切りをつけた。
酷使した脳を休めるようにすべての思考を外に追いやって、ベッドに潜り込んでただ眠気に身を任せる。
その夜、サレは夢を見た。
魔人族として生まれる以前の、あの――『死の輪廻』の夢を。
◆◆◆
『死ね!! バケモノめ!!』
『消え失せろ!!』
『この世から消えてなくなれ!!』
――声が聞こえる。
声の主の姿が見える。
誰もかれもが、憎しみを込めた視線を向けてきている。
悪意、害意、恐ろしい視線。
視線が突き刺さって、身体に痛みが走った。
輪郭のぼやけた剣が不意に現れ身体を切り裂いていく。
槍が腹部を貫き、白い光線が身体を突き抜けていく。
拳が腹に吸い込まれ、肉を骨を内臓を、刳り貫き飛ばしていく。
――痛い。
ほどなくして痛みは消え、自分という自我が霞みのように消えていく感覚を得る。
――消える。
意識だけではなく、自我という漠然とした自分そのものが、存在が、薄くなっていく。
――これは死なのだろうか。
意図せずして迎える臨死。臨む死。――望まれぬ死。
暗転し、場面が変わった。
視界が赤に変わった。
次に映ったのは、家族の姿だった。
白い肌、黒い髪、赤い眼。
一様にそんな姿をした家族たち。
――魔人族。
――俺と、同じ。
衝動的に彼らに触れようとしたとき――彼らの眼が潰れた。
首が飛び、胴が薙がれ、四肢が潰れた。
鮮明に蘇る血と肉の匂い。
――やめろ。
やめてくれ。
俺の繋がりを奪わないでくれ。
――また、『死』だ。
いつもいつも、自分に付きまとう。
ある意味、自分は最も生物の死を緻密に観測してきた存在かもしれない。
破壊を、強いては存在の死を司るこの〈殲す眼〉で、時には能動的に死を実践した。
時にはこの眼で死を眺め、時にはこの精神で死を体感してきた。
観測し、知れば知るほど、それは恐ろしいモノに思えた。
だからこそ、それに対して人一倍に考えた。
廻る死の輪廻の内側で、気が済むまで考えた。
画期的な答えが出たわけではない。
死はただそれのみで、そこにある。
概念だ。
包括的な答え。
取り去ることも、無視することもできない、常に意識の傍らに在り続けるもの。
平等に、万物にあり得るもの。
そこで、視界がまた暗転した。
真っ暗になる。
ふと浮き出た考えはどこかへ流れ、妙に現実的な別の考えが脳裏に閃いた。
――神族に対しても、『死』は平等であろうか。
純人族、異族、そのどちらとも違う存在。
だが、近くもある。
少なくとも精霊等よりはよっぽど生き物に近しい。
――奴らも死ぬのだろうか。
最近、自らの前に神族が大きく立ちはだかった。
アレには魔人の眼の力が通用しなかった。
『死』を最も端的に表現する〈殲す眼〉が。
神は、死ぬのだろうか。
アレは、生物なのだろうか。
それとも、『死』を受け付けない絶対的な存在なのだろうか。
◆◆◆
【神族も死ぬ。奴らは生物だ】
◆◆◆
夢を夢と認識しそうになったところで、そんな声が響いた。
――生物。
【そう、生物だ。ゆえに、死の要素を持っている。ただ、ほかの生物よりも膨大な寿命を持ち、そして高い格を持っているがゆえに、外部からの死の実践を滅多に受けない】
――奴らが死を受容する可能性は、本当にあるのか。
【――ある。事実、私が実践した。その黒炎で。そして時間さえあれば、その眼でも可能であった】
――それは、どういう意味で。
【〈殲す眼〉にはまだ進化の余地がある。そのことに気付いたのは私が神族との戦いによって死を得る寸前のことだった。死に触れ、その存在を強く知覚したとき、『可能性』を知った。私にとっては遅すぎたが、お前にとってはそうではあるまい。最も多く、最も近く、その死に触れたお前なら――いずれ理解できよう】
声が響き続ける。
【その身体に起こる独自の変化は、お前の眼に関わるものだ。お前の精神や自我による肉体的変化。それらのあとには、おそらく〈殲す眼〉に変化が起こるだろう。そしてその変化を受け入れ、使いこなし、実践した時――】
◆◆◆
魔人は〈魔神〉になる。
◆◆◆
夢はそこで途切れた。
◆◆◆
サレが目覚めた時、自分の頭部付近でゆらめく〈サンクトゥスの黒炎〉が真っ先に視界に入った。
まるでこちらの頭に干渉してくるかのように、頭部付近をゆらゆらと舞う黒炎。
その姿を見て、サレはなぜかさっきまでの夢に得心し、言葉を紡いでいた。
「……お前が〈初代様〉の記憶と意思を巻き戻したのか?」
黒炎はサレの言葉にまるでうなずくかのように、数度その身を大きく揺らめかせた。
「――はは、便利なやつだなぁ」
夢に出てきた意思は、これまで何度か意識の中に現れてきた明確な意思よりも『無機質』な感じだった。
黒炎に刻まれた意思と記憶を、黒炎自体が意図的に再現したかのような、そんな印象を得た。
そこに明確な答えがあるわけではないが、
「妙に得心がいくのも事実だよ。――やっぱり、お前にも自我みたいなのあるよね」
こちらは確信に近い。
「なんか炎に助けられっぱなしなのも虚しい気がするけど――」
一人ぼっちになったとき、唯一心の拠り所となってくれた黒炎でもある。
「そうむげにするものでもないな。素直に礼を言っておくよ。――ありがとう」
黒炎はサレのその言葉を聞き、再び大きく揺らめくと、サレの右腕の封印術式内に勝手に収まっていった。
「――おかしなことになったもんだ」
そう言って、身を起こし、髪をかきあげようと額に触れる。
その時、不意にサレはその手の端に『違和感』を感じた。
感触の違和。目の辺りを触れた部分に、不可思議な感触があった。
なにか、かすかなぬくもりを持った液体に触れた感触。
目元に感じる異物感。
サレはおそるおそるその手を離し、視界の真ん中に持ってきた。
「――馬鹿な」
震える声が漏れる。
◆◆◆
その手には真っ赤な鮮血がこびりついていた。
◆◆◆
「なんで―――」
把握し、自覚した瞬間、その目尻から――涙が零れた。
真っ赤な鮮血の涙。
『血の涙』だった。




