39話 「魔人覚醒」【後編】
脳内でめまぐるしく術式理論が展開されていく。
必要なものを取捨選択し、組み合わせ、術式燃料の通る回路を生み、術式を編み上げていく。
あの日自分の身体に刻み込んだ基礎事象式。
それから徐々に加えていった付加事象式。
現在自らの半身に刻まれている式を加味し、それらを補完する術式を脳内で創りあげていく。
死を未来に見た時の、サレの瞬発的な才覚がここぞとばかりに閃いた。
「――出来た」
時間にして十数秒。
サレは皇剣を鞘に入れ、代わりに背の月光石の短剣を引き抜き――
右の掌に突きたてた。
彫刻。
黒炎の入れ物たる自分の身体に、術式を刻み込んでいく。
◆◆◆
両者に大きな動きが生まれたのはほぼ同時のことだった。
サフィリスが空中の神格術式陣から一際巨大な白い剣を引き抜いた。
それまで持っていた二振りの神格剣を投げ捨て、大剣と呼ぶに相応しい新たな神格剣を両手で構える。
「断罪しろ、〈聖アレスの大剣〉」
名を叫び、大きな一歩を前に踏んだ。
自分の鼻が勝利の匂いをどこからか嗅ぎつけて、それにともなって歓喜の前触れともいえるようなむず痒さが腹の底に生じる。
サフィリスはその勝利の歓喜を押さえつけた。
まだ喜ぶのは早い。
今少し待て。
顔をあげる。
この視線の先にいる獲物を狩ってから、初めて悦ぼう。
思い、射抜いた先――
そのサフィリスの視界に映ったのは、血の滴る右手に黒炎を収束させているサレの姿だった。
黒い六枚翼は依然として周囲に熱気をまき散らしているが、身体に纏わりつくように燃えていた黒炎は若干火力を弱め、代わりに右手に尋常でない黒炎を収束させている。
炎というよりも雷光だ。
ばちりと弾ける黒炎は徐々に徐々にその身を収束させていき、耳鳴りのような高音を辺りに喚き散らしている。
まるでその黒炎自体が生きているかのような、おぞましげな光景だ。
「――昇華しろ、〈サンクトゥスの黒炎〉」
魔人が名を紡ぎ、顔をあげた。
――なんて気味の悪い色だ。
サフィリスはサレの右手の黒炎に強烈な不穏を感じ、内心にそんな声を発していた。
しかし、一瞬の怯みも、すぐさま神格への狂信によって塗り潰される。
違えるな。
たかが魔術だ。
言い聞かせろ。
「――たかが『魔術炎』ごときで!!」
踏み込んだ足は引かない。
大剣を振りかぶりながら踏んだ一歩目にそのまま全体重を掛け、一気に前傾姿勢に持っていく。
一撃決殺への意志を胸に秘め、魔人の前にまで走り寄り――
振りぬいた。
◆◆◆
――今度は己の意志で言おう。
サレはゆっくりと口を開く。
今度は己の声で、意志で、『俺』が放つのだと、そう心に刻む。
「――たかが純人、たかが神族、たかが神格」
俺は〈魔人族〉だ。
だから、
――言え。
「魔人の前に立ち塞がるなら――」
それが何人であっても、
たとえ神族であっても、
すべてを――
「――薙ぎ倒して見せよう!!」
威力。声は走り、空間を揺るがす。
サレは黒炎が圧縮収束されている右手を顔横に掲げ、上段から振り下ろされてくるサフィリスの神格大剣の軌道とタイミングを見定めた。
サフィリスは自分が法神テミスの防護術式に無条件で守られることを知っているためか、まったくカウンターを警戒していない。
全力のフルスイングモーションだ。
――合わせてみせろよ。
目を見開いて一挙手一投足に気を配り、胸中で拍子を取る。
直後、自分の望んだタイミングを察知すると同時、サレは正直な軌道で振り下ろされてくる神格大剣を半身になってギリギリで避けた。
そうして振り下ろしを避けながら、右手を突きの型に軽く握り、猛然とした速度で振り下ろされている神格大剣の刀身の腹に狙いを定める。
――貫け。
そして、撃ち抜くように右突きを振り抜いた。
チ、という擦れた細い音が鳴り、次にサフィリスの顔の前を暴風が吹き抜けた。
「ばっ――馬鹿なッ!!」
響き渡った声はサフィリスのものだ。
彼女の視線は自らが振り下ろした神格大剣へ向けられている。
神格大剣の刀身の腹が、ぽっかりと拳大に抜け落ちていた。
もはやくっついているのがギリギリと言わんばかりに、千切れかけているのだ。
サフィリスが振り下ろした神格大剣は、振り下ろされている最中にその刀身の腹を『貫かれて』いた。
振り下ろしの途中に、サレが凄まじい速度の突きで刀身を撃ち抜いていた。
サフィリスの驚きに値したのは、サレが振り下ろされている剣の腹を撃ち抜くという曲芸染みた行為を成功させたことと、なによりも――
「ただの突きで神格剣を……ッ!!」
その事実が信じられなかったからだ。
「神格に至れるのが神族だけだと思うなよ!!」
今度はサレの声が響いた。
続けて、サレが前への一歩を踏む。
踏み込み、零速から一瞬で最高速に到達する。
まるで身体がブレたかのような速力で、魔人の身が前に弾かれた。
「テミスッ!!」
サフィリスは法神の名を呼び、意識的に防護術式を発動させる。
サフィリスの身体は大剣をフルスイングした慣性を受けていて、すぐに後方への動きを取れない。
法神テミスの防護術式は、サレがサフィリスの腹部付近で突きだした黒炎の右手突きから彼女の身体を守るように瞬時に広がった。
サレの突きが法神テミスの防護術式と真正面から衝突する。
そして、
「くそっ!! なぜだッ!!」
一度は競り合った法神の防護術式が、一秒もしないうちにサレの右手に『貫かれた』。
サフィリスはその一瞬の間になんとか体勢を持ち直し、あらんかぎりの力を込めて後方への跳躍を踏む。
凄まじい速度で振り抜かれたサレの右突きはサフィリスの腹部を貫くかと思われたが、寸でのところでサフィリスが後退したため、ほんの少し彼女の服に触れて、残りは宙を貫いた。
「ありえないッ!! たかが魔術が神格を貫くなどッ!!」
サフィリスはサレから距離を取りながら叫んだ。
対するサレは自分が生み出した方法が正しかったことをここにきて再確信していた。
◆◆◆
黒炎の圧縮は、疑似的に神格に対抗しうる。
圧縮し、圧縮し、収束させ、密度を高める。
――完全なる力技だ。
外部から無理やり黒炎を圧縮操作する術式を付加し、それによって一時的に黒炎を神格に『昇華』させた。
――もってくれよ。
とはいえ、サレにも不安はあった。
はたして本当に黒炎は神格に昇華したのか。
考えても答えは出ない。キリがない。
今はうまくいっている。
噛み合っている。
その事実だけでいい。
だから――
――動け。今は。
◆◆◆
サレは左手で腰のイルドゥーエ皇剣を抜いた。
「〈改型・切り裂く者〉」
皇剣に術式を装填する。
刀身に宿るのは見慣れた青白い魔力光だ。
右手と背部の六枚翼に黒炎が集中しているせいか、発動させた〈改型・切り裂く者〉は本来の色を取り戻していた。
右手に黒炎を収束させながら、左手で術式剣をコントロールする。
サレは自らの持つ術式処理能力が限界に近くなっていることを悟った。
頭の中が軋む。
単一で使う場合でさえ大きな動きを伴うと不安定になる〈祖型・切り裂く者〉は使えない。
だが、いずれにせよ、法神テミスの防護術式を貫くには近づかなければならない。
だから前への一歩を。
近接を。
接敵を。
「サフィリス様!!」
サレが今に十数歩離れた位置のサフィリスに突っ込もうとしたところで、ジュリアスの隣に控えていたアルミラージが間に割って入ってきた。
「お退きくださいサフィリス様!!」
「アレスの神格剣まで使った私に対して退けというか!! ――退くのはお前だ!! アルミラージ!! ――そこをどけ!!」
「どきません!! 私にはサフィリス様をお守りする義務があります!!」
そう言うと、アルミラージは自らの剣に硬化術式を装填し、サレの方へ向き直った。
「魔人よ! あの宿に直接攻撃を下したのは私だ! ならば先に私を斬り捨てるのが道理だろう!」
――茶番だ。
サレの脳裏に浮かんだ言葉。
戯れに手を出したのはお前らだろうに。
もし、あの魔術弾がアリスに『直撃』していたら。
サレはそのことを再び思いだし、腹の底に煮え滾るものが込み上げてくるのを感じた。
吐き出さずにはいられない怒り。
「言われるまでもない」
だから、サレは言葉と共にそれを表した。
「【散れ】!!」
怒気に彩られた〈殲す眼〉の発動だった。
◆◆◆
アルミラージの頭部がまるで風船が弾けるかのように飛び散った。
下半身から順に、アルミラージの身体から力が抜け落ちていく。
膝が落ち、胴が倒れ、頭は――
その『人であったもの』の残骸の後ろから、サフィリスが走り出で、
「アルミラージッ!!」
絶叫を迸らせた。
地に臥したアルミラージの身体を抱き起こそうと、サフィリスは神格大剣の柄から手を離した。
だが、すぐに状況をかんがみて、柄を拾い直す。
まだ魔人は健在で。
サフィリスは前かがみになりかけた身体を起こし、姿勢を正した。
魔人に視線を向ける。
「――たしかに先に手を出したのは私だ」
その言葉のあとで、憎悪の彩りを含んだ視線を魔人に向けた。
「だが、これで互いに争う正当な理由ができた。私はお前の仲間を攻撃し、お前は私の従者を壊した」
次に、サフィリスはジュリアスに視線を移した。
「――ジュリアス、我が末弟。仮にお前が私の想像通りの野望を抱いているとするならば、今こそ選択をする時だ。タダ飯喰らいのままでいるか、テフラ王族の末弟として返り咲くか。――どうする、ジュリアス・ジャスティア・テフラよ」
ジュリアスはサフィリスの視線に対し、自らも強い視線を重ねた。
「姉さん、サフィリス姉さん。最後に一つ問わせてください。なぜ僕たちは親族で争わねばならないのですか」
「『そういうもの』だからだ。テフラ王国も、テフラ王族も、そういうものだからだ、ジュリアス。そしてそういう時期でもあるのだ。それで納得できないのなら、やはりお前はお前の野望を完遂するべきだろうな」
サフィリスの説明は抽象的だった。
しかし、なぜかジュリアスにはその説明がしっくりきて、うなずきの代わりに一度だけ視線を地に落とした。
「姉さんは次期王位を欲するのですか」
「欲するとも。少なくとも、好奇心が喚いているうちはな」
「そうやって、あなたは本心を好奇心という言葉で隠し続ける」
「本心だけで対話は成り立たん。お前が一番よく知っているだろう」
「でも、本心なくしても対話は成り立ちませんよ」
「――言葉遊びはいい。まあ、選択の結果はあとで確認するとしよう。いいか、私は私の連帯ギルドを動かす。これから本格的にほかの兄弟とも争うことになるだろう。……〈凱旋する愚者と言ったか〉――」
サフィリスは再びサレをその双眸で射抜いた。
「貴様らがなにをしにテフラ王国へ来たかは知らんが……そうだな、せいぜいゆっくりしていくがいい。自分たちが何に巻き込まれつつあるのかはそこのタダ飯喰らいに訊け」
サフィリスはジュリアスを指差した。
「――さて、アルミラージの遺言もある。私は大人しくここで退こう」
「逃げるのか」
サレの声にサフィリスは毅然として答える。
「空都アリエルにさえ届かぬ身分で大言を吐くな。このままいけば、確かにお前は私を殺せるかもしれん。だが、そのあと王国に潰されるだけだぞ。テフラに居を構えたいと思うなら、今は私を逃がしておいたほうがいいと思うがな」
「サレ」
そこでジュリアスがサレに声を掛けた。
顔には悲愴。様相は嘆願だ。
「ちゃんと説明する。だから、今はどうか……」
サレはジュリアスの目を〈殲す眼〉の紋様が浮かぶ双眼で数秒の間穿ち、
「…………わかった」
結局大人しく従った。
腹の底で蠢いていた怒気が、アルミラージの命を奪ったことで緩まったことが大きな要因の一つだった。
「すまない。――ありがとう」
その間にサフィリスは屋根から屋根へと飛び移るように跳躍を繰り返し、彼方へと消えていった。
たった数日でテフラ王国の奇妙な流れの中に巻き込まれかけていることをいまさらながらに認識し、サレは胸中で嘆息せずにはいられなかった。