38話 「魔人覚醒」【前編】
サレは己の術式兵装が霧散していくのを、ただ呆然と見ていた。
今までに感じたことのない手応えの霧散を感じながら、ただの剣に戻ったイルドゥーエ皇剣の柄を、握っていた。
目の前の金髪の女は眉尻を下げて残念そうな顔をしている。
壊れた玩具を見て悲しんでいる子供のような――そんな顔だ。
――ああ。
武器が、摘み取られた。
生きるための糧が、折られた。
しかし、
サレには『諦観』がなかった。
焦りも、諦めも、なかったのだ。
自らの持つ魔術の中で最大に近い術式を容易く切り裂かれながらも。
――なんで。
思考が止まっているからなのだろうか。
戸惑いが脳裏を走る。
すると、そのあたりで目の前のサフィリスの手がぴくりと動きを見せた。
白い剣を振るう素振り。
考えるより早く、背部の六枚翼を大きく羽ばたかせ、打ちつけた。
「くどいぞ、魔人。無駄だと言ったろう。――あるいは、お前にも〈神格術式〉があれば……もう少し面白くなったかもしれないがな」
打ちつけられる巨大な黒の翼は〈法神〉の防護術式に阻まれる。
サフィリスの身体には傷一つ生まれない。
代わりに、周囲の家々がみしりと軋んだ。
それほどの力の波動の中を、ものともせずにサフィリスは歩いてくる。
なす術がない。
――下がれ。
サレの理性が告げた。
神格とはいっても相手が持つのはただの剣だ。
近づかれても避けきる自信はある。
しかし、こちらに術がないのも事実だ。
だから、ここは一旦下がって、新たな打開策を練るべきだ。
だが、サレの足は言うことを聞かなかった。
「――逃げないのか?」
「逃げ……る……?」
ここで下がれば、確かにそれは逃げに見えるだろう。
退くと言えないこともないが、状況をかんがみるに、『逃げ』と取られてもおかしくはない。
――それでも、命には代えられない。
だから、下がれ。
理性が言った。
だが、
【下がるな】
理性が言った瞬間、別の『何か』が頭の中でそんな言葉を紡いだ。
サレはここにきて混乱し始めていた。
下がれと言う理性と、下がるなという別の『何か』と、動かない足と。
「神格に散るか。――それも良いだろう。ジュリアスには悪いが、ここでお前の希望の一つを潰えさせてしまおう。それでまた、新しい面白さが生まれるかもしれない」
サフィリスがついにサレの目の前へとたどり着く。
その手に持った神格剣を振るえば、サレの首に届く距離だ。
対するサレはサフィリスの顔を見ていた。
〈殲す眼〉の紋様をその眼に浮かばせながら、赤い瞳でサフィリスの瞳を射抜く。
「では、散るがいい、魔人よ。神格に届かなかった弱き異族よ」
「――」
白の剣が振り上げられ――
瞬きのあとに――
振り下ろされた。
◆◆◆
『たかが魔術、たかが異族、たかが魔人族。――ずいぶんと見下されたものだな』
◆◆◆
白の神格剣がサフィリスによって振り下ろされた瞬間に、その場に響いたのはたしかにサレの声だった。
次いで――
めきり、と軋む音が鳴った。
音の出どころはサフィリスの手元だ。
サフィリスが振り下ろした神格剣が、真下から振り上げられたイルドゥーエ皇剣と真正面から衝突し、刀身半ばで両断されかけていた。
神格の剣が、魔人の剣に殺されていたのだ。
「――っ」
サフィリスはとっさに反応を起こせない。
――現実が嘘をついた。
そんな言葉だけが口から出かかるが、再びのサレの声がそれを遮った。
サレの顔は下を向いていて、表情はつかめない。
『ならば今度はこちらから言わせてもらおう、神格者』
サレの声には異様な威圧が湛えられていた。
聞いているのみで思わずひれ伏してしまいそうな、圧倒的な高所からの爆圧。
『――たかが純人、たかが神族、たかが神格』
声が響く。
それは君臨者の声だ。
そして、伏せっていた赤の瞳が再び上を向き、サフィリスの目を強く射抜いた。
『――図に乗るなよ、小娘』
それはサフィリスの内心を震え上がらせるに十分な威力を、音に含んでいた。
「……誰だ、貴様っ!!」
サフィリスが神格剣に力を入れながら、そう叫んだ。
なぜだか、目の前にいる魔人が先ほどまでの魔人とは違う『何か』のような気がして、とっさにそう叫んでいた。
瞬間、下から押し上げるような力が来た。
神格剣と魔人の剣の打ち合い。
だが、打ち合いは一瞬だった。
いつの間にか真っ黒な炎を纏っていたイルドゥーエ皇剣が――神格剣を完全に両断していた。
刀身の肥大もない、ただ黒い炎を纏っているだけの剣が、神の白剣をたやすく両断したのだ。
割れた刀身がサフィリスの頭上に吹き飛び、くるくると回り舞って、屋根に突き刺さった。
◆◆◆
【退くな、最終皇帝よ。魔人は何者にも屈してはならない。たとえ相手が神族であろうと】
サレは一連の動きの中で、自分の内から湧き上がってくるある声を聴いた。
旅立ちのあの日、絶望の淵で聞いた声と同じ――内からの声。
それを思い出して、ついにサレは内なる声の正体に勘付いた。
――〈初代様が〉、なぜ……
〈初代イルドゥーエ皇帝〉、自分の躯の前の主、その人の声だった。
【あら、やっぱりこうなったのね。〈サンクトゥスの黒炎〉も長生きね】
【ああっ!? なんだよ、またややこしいことになってんな! ――あれか、〈サンクトゥスの黒炎〉に俺たちの意思が紛れ込んでんのか。……かーっ!! 俺結構黒炎の世話サボってたんだけどなあ!!】
【先代様、かなり適当でしたもんね。おかげで僕の代の時に一回消えそうになったんですよ? いやぁ、あれは大騒動でした……】
【貴公ら、騒々しいぞ。優雅に喋るがよい。よし、そういうわけで、このへんで我が一句――】
【あのぅ……歴代様方、最終皇帝がピンチなのですが……】
【ていうか初代様が見てるよ?】
――なにがなんだか。
複数の声が脳裏にひしめいている。
【――ふむ。こうしてみると、魔人皇帝の系譜も長く続いたものだな。私の方針は間違っていなかったということか】
【あの、初代様? 感慨深げにうなずくのはほどほどにして、せっかく最終皇帝が黒炎を使いこなそうとしているのですから、何かアドバイスを……】
【ああっ!? んなもん『ガーっといってドーン』だろ!! こんな簡単なこともできねえのか俺たちの遺児は!!】
【理屈の通じない三代目様には聞いてません】
【相手をしているのは神族かしら。面倒なのよねえ、あの種族。神界に引きこもってばかりで陰気だし、そのわりにやたらと自信満々だし。私が相手した時なんか、『私が神だ』とか私の前でのたまったものだから、神界に手ツッコんでぶん殴ったわ】
【二代目様こええ……】
【優雅さが足りぬのだ、優雅さが】
――あ、あの……
サレは困惑して頭の中で言葉を浮かべた。
――今戦闘中なのですが……
【ちょっとの間は初代様が肩代わりしてくれるって。躯に癒着した黒炎を媒体に意思を降ろしたらしいよ。――あ、僕は四代目ね】
【おい、九代目はどこいったよ!! あれだ、あれ、アルフレッドとかいうガキだ!!】
【もう『行った』よ、真っ先にこの子の意識に介入してたじゃないか】
――さっきの声は――まさか本当に……
自らの悔恨を思い浮かべた時に脳裏を過った声を、サレは思い出していた。
【ハハハ、久々の戦闘というのは心地よいものだな!!】
【おい、初代様がハイになっていらっしゃる、誰か止めたまえ。最終皇帝に代わってあの獲物を殺りかねんぞ】
【さすがにそれは筋が通ってないし、初代様もご自重くださるでしょう】
【ハハハ、ハハハハハハハハ!!】
【おい、本当に大丈夫なのか】
【――おお、すまぬな、皆の衆。つい猛ったわ】
頭の中に響いていた哄笑が止まり、落ち着いた雰囲気の『初代』がもどってきて、再び言葉を紡いでいた。
【さて、黒炎に封入された意思もそう長くは持たん。――いいか、最終皇帝よ、よく聞け】
祖父という人が自分にいれば、このような感覚なのだろうか。
サレはそんなことを考えて、ふと笑みを浮かべそうになった。
【怒ること自体は間違いではない。魔人に怒りは必要なものだ】
初代魔人皇の言葉はそんなフレーズからはじまった。
【ゆえに、お前の感情の高ぶりに黒炎は過敏に反応する。私の時もそうだった。――だがな、我を忘れることは忌避すべきことなのだ。感情に振り回されるな。魔人は――】
自らの感情にすら屈してはならぬ。
【そして当然のこと、『神族ごとき』にも屈してはならぬ】
初代魔人皇の声に強烈な威力が込められていく。
【私がこの黒炎を生み出したのは、あの胡散臭い連中に対抗するためだ。奴らの神格だけは確かに脅威だったからな。――私は神界に引きこもる前の神族と同じ大地に生きていたゆえ、早くから奴らの神格に対抗する手段を考えていた】
それは、歴史の奥間の記憶。
【加えて言えば、私と初期の神族は生まれた時期がほぼ同じであった。――つまり、だ】
歴史の最初に存在した魔人の皇は言う。
【奴らの神格とやらも、生まれてから『たかだか千年程度』のものだ。そして私がこの黒炎を作り上げたのも、奴らが神格とやらを自慢げに振り回しはじめたのと同時期だ】
サンクトゥスの黒炎が生まれた日。
【それからサンクトゥスの黒炎は歴代魔人皇と、歴史上の魔人族たちに囲まれ、魔力と意志を捧げられて生き続けてきた――】
神の格と黒炎の格。
【――『経てきた年数に違いはない』】
魔人の皇は高らかに宣言した。
【魔人に神が必要なかったのは、私の作り出した黒炎を『神格』とするよう私が命じたからだ。――わかるか? 言うならば、この黒炎は『魔人族の神格』となり得るのだ。そういう術式を私が作った】
サレには初代魔人皇の人智に、もはや理解が及ばなかった。
『零から一を作り出した男』の凄まじさを、頭の芯が直感的に察している。
【私が先ほどあの小娘の神格剣を切り裂いたのも、黒炎を神格に昇華させたからだ。――ならば、同じことをすればいいではないか】
だが、と魔人の皇は告げた。
【神格に至る方法は自らで導け。私はお前の祖であるが、たとえ祖であっても、『お前は私にすら屈してはならない』。魔人とはそういうものなのだ。祖であれ、親であれ、すべてを超えるつもりで自らの生を生きよ】
ふと、その声が小さくなってきていることにサレは気付いた。
【さて、私の息子、娘たちよ。最後に一人で時間を使ってすまなかったな。お前たちにもこの小さな末子に言いたいことはあったろうが、どうにも時間がないようだ。――では、時代の部外者はそろそろ去るとしよう】
〈歴代イルドゥーエ皇帝〉たちの意思がかすれていくのを、サレは感覚的に察知していた。
身体に纏ったサンクトゥスの黒炎から、込められていた意志たちが抜け出していく。
予想だにしない邂逅が、今終わろうとしている。
【時代の部外者は歴史の外へと還る。だが、時代の今を駆けるお前は、己が信じた道を突き進め。さあ――】
そして、最後にすべての意思が言葉を放った。
【『行け、魔人の皇よ』】
サレは脳裏に響いた言葉に、胸中でうなずきを作った。
◆◆◆
視界が開ける。
地に立っている。
目の前には純人の女がいる。
この地の王族だ。
「貴様は一体……」
サフィリスが息を荒げたまま言葉を紡いでいた。
その手には二振りの白い神格剣が握られていて、初代魔人皇との猛戦のあとが見て取れる。
そして、自らの手には永晶石で作られたイルドゥーエ皇剣が握られている。魔人皇の証だ。
サレは皇剣に一度視線を移し、そのあとでサフィリスの顔を正面から見据え、答えた。
「――〈サレ・サンクトゥス・サターナ〉」
そう、自分は、
「魔人の皇にして――〈凱旋する愚者〉の副長だ」
瞬間、背部に展開されていた黒の六枚翼が、サレの意志の力に呼応するかのように猛然と火力を上げ、猛々しく踊った。
◆◆◆
サフィリスは違和を得ていた。
明確な違和と、不可解な違和だ。
一つは剣神アレスの神格剣が魔人の剣に折られた事に対するもので、もう一つは、
「さっきまで私が相手をしていたのは――」
「魔人の皇だよ。紛れもない……魔人だった」
一人得心した風に言う目の前のサレに対し、サフィリスは一度首を傾げる。
しかし、
――面倒だ。
そこで全てを打ち切り、再び白の神格剣を構えた。
見れば魔人の剣には先ほどまでのように黒炎は巻き付いておらず、ただの華美な剣に成り果てている。
――やるなら今か。
長引かせてはいけない気がする。
漠然とした焦燥感を受け、サフィリスは斬撃への踏込みを行った。
「貴様への罰はまだ為されていない。――散れ、魔人族!」
◆◆◆
――考えろ。
今までの自分は黒炎という完成された術式を引き出し、身体に装填することで兵装としてきた。
というよりも、封印術式を解けば、黒炎は主であるこの躯に勝手に纏わりつく。
意志に忠実に、柔軟に。
黒炎自体を構成する術式は複雑すぎていまだにすべてを解明できてはいない。
初代イルドゥーエ皇帝が神格に対抗するために作り出した術式だ。そう簡単には解明できないだろう。
――だから、今の俺には初代様のように黒炎術式にもともと組み込まれている神格昇華の方法を使うことはできない。
ならどうする。
別の方法を使うしかない。
――考えろ。
生きる術を。
◆◆◆
「忌々しいほどに丈夫な剣だな!! 永晶石なぞ、希少鉱石を豪勢に使っているだけはある!」
サフィリスの興奮の色を映した声が耳に響いてくる。
サレは術式を纏わないイルドゥーエ皇剣でサフィリスと打ち合っていた。
相手の持つ剣は神格剣だ。
いまさら既存の術式を装填したところで、術式は切り裂かれる。
だが、思いのほか皇剣は丈夫で、
――助かる。
皇剣ごと切り裂かれていたなら為す術はなかったろう。
サレは胸中で心底安堵し、しかしこのままでも埒が明かないと焦燥を感じてもいた。
可能な限り剣同士の打ち合いを避けながら、思考を回す。
「――っ! 〈改型・切り裂く者〉!!」
右から頭部を薙ぐように襲いかかってきた神格剣を屈んで避けたところで、剣を振るった姿勢のサフィリスの脇腹に隙を見つけ、そこに術式を装填した剣を横薙ぎに振るった。
が、
「くどい!!」
直撃する寸前に法神テミスの防護術式が自動で展開し、〈改型・切り裂く者〉を受け止めた。
――だめだ、術式の密度が足りない。
感覚的にそう悟る。
はたして密度という形容が正しいかは定かではないが、直感としてそれが一番的を射た形容だと思った。
そもそも、格という曖昧な基準がどういった要素に影響されているのかも定かではないのだ。
「くそっ!!」
術式によって伸びた分の刀身が、神格剣に切り裂かれて霧散する。
――悠長にしている時間はない。
我に返ってふと気付けば、爛漫亭のアリスたちにもなんらかの危機が訪れているかもしれないのだ。
目の前の女が回りくどい手法を取るとは思えないが、他のギルドや未知の敵がこの機に乗じてくるかもしれない。
――片をつけなければ。一気に。
そんなフレーズを頭に思い浮かべたとき、サレの脳裏に過去の出来事がよぎった。
リリアンたちとの魔術訓練だ。
――原点に帰れ。
一気に、一撃で。
攻撃にすべてを費やしたリリアンたちとの魔術訓練は、それに尽きる。
――密度だ。
密度が足りないなら、一点にすべてを収束させればいい。
――全てを敵を撃滅することに傾けろ。
そのためには――
「貴様に為す術はない! 理解しろ! ――貴様らにテフラ王国は高すぎたのだ!!」
不意に、ひときわ強いサフィリスの声が飛び、彼女が神格術式を空中に展開させているのが見えた。
白の神格剣を取り出した時と同じ動きだ。
「剣神アレスよ! すべてを斬り裂く剣を私によこせ!!」
つかの間の時間的な空きが生じる。
サフィリスは自分が法神テミスに守られていることを確信しているがゆえに、戦闘中であっても隙の大きい術式描写を平然として行う。
逆に言えば、自分も何かするならば今しかない。
サレは一歩大きく後方に退き、しかし必要以上には下がらずに、
――今ここで、新たな術式を編み上げろ。
行動を起こした。