37話 「黒の魔人と白の狂姫」
サレ・サンクトゥス・サターナの抱く最大の悔恨は、最も近しかった『彼ら』の危機に際し、自らがその場にいられなかったことだった。
◆◆◆
『それは君のせいじゃないんだけどね』
――でも、もう少し気付くのが早ければ間に合ったかもしれない。
『僕たちは間に合って欲しくなかった』
――それでも、俺はその場に居たかった。
『君自身が失われなかったから、僕たちは満足のもとに逝くことができた』
――自己満足じゃないか。
『そう。僕たちはずるいからね』
――本当に、ずるいよ。
『君は後悔を得た?』
――後悔がないと言えば嘘になる。
『なら、その後悔を二度と得ないように、次に生かせばいい。失われたものはもう戻らないのだから』
――わかってる。
『ならば、必要とあらば君は〈魔人〉になりなさい。そのための力は、すべて君の内にある。さあ――』
――。
◆◆◆
『今こそ、魔人族の最終皇帝として歴代の意思と遺志を解き放て』
◆◆◆
一キロほど先に黒い炎が揺らめいてからは一瞬だった。
飛んできた、というよりも弾かれてきた、という軌道で、一直線に夜のナイアス・アレトゥーサを突き進んできた存在がある。
巨大と称するに足る不可思議な黒の六枚翼を背部に展開させた人型だ。
サフィリス、アルミラージ、ジュリアスの三人がその存在を知覚したときには、すでにその人型は彼らが立っている屋根に轟音を立てて着地していた。
全身に漆黒の炎を纏っている人型の右手には、同様の色を呈した長大な術式剣が握られている。
「っ――サフィリス様!! お下がりください!! ――早くッ!!」
それぞれが一瞬の出来事に硬直していたが、そんな中で真っ先にアルミラージが動き出した。
抜剣と同時、サフィリスとその人型の間に割り込み、剣を正眼に構えた。
しかし、アルミラージは『諦観』を得ていた。
それは諦め。
――これは同じ次元の生き物ではない。
別の次元の存在。
『化物』だ。
黒炎を纏う人型が右手に握る術式兵装と、簡素な硬質化魔術を付与した程度の自分の術式兵装では、あまりに格が違うことを悟ってしまった。
黒い人型は土煙の中、陥没した屋根板からむくりと身を起こすと、非常に緩やかな動きで右手に握る長大な術式剣を天に掲げた。
そして、同じようにゆったりとした動きで――振り下ろした。
アルミラージは己の肩を死神が小突いたような錯覚を内心で得て、
――受け止めきれるか。
思う。
しかし、
――否、無理だ。
「サフィリス様!! 早くッ!!」
だからといってここで退き下がるわけにはいかなかった。
自分の後背にいるサフィリスに少しでも退却の時間を与えねば、護衛を務める臣下の名が廃る。
――命を……懸けよう。
アルミラージは決死だった。
ゆっくりと、やけにゆっくりと、天から真っ黒な術式剣の刀身が落ちてくる。
バチバチと弾けるような音を立てて、『死』が落ちてくる。
「下がるのはお前だ、アルミラージ」
しかし、黒い術式剣はアルミラージの術式剣の刀身をバターかなにかのように半ばまで切り裂いたところで、ふと軌道を変えた。
側面からの凛とした声に気付き、横へと視線を移せば、自分の主であるサフィリス第二王女が黒い人型に突撃し、押し出すような前蹴りを腹部あたりに食らわせている姿が見えた。
人型の周囲に纏わりつく黒い業炎にひるむことなく、直接攻撃を食らわせていたのだ。
サフィリスの蹴りに押し出された人型は、なされるがままに屋根から落ちていく。
「――くそ、動きやすくて気に入っていた靴だが、捨てるしかないようだな」
即座に攻撃を敢行したサフィリスにさらに観察の目を向けると、彼女の足元に黒炎が纏わりついているのが見えた。
「サフィリス様っ!!」
「案ずるな、足は焼けていない。……余波でこれか。――ジュリアス、お前の言うことが少しは理解できた。あんな存在がいたとはな。お前、さっきのアレとは知り合ったか?」
「あ、ああ……」
「本当に私を助けたくば、言え。――アレの名と、アレの種族名を私に教えろ」
「――〈サレ〉。姓は知らない。種族名は――〈魔人族〉」
ジュリアスが種族名を伝えると、サフィリスが間髪入れずにうなずきを入れた。
「――ああ、ああ、そういうことか。あれが〈魔人族〉か。――まさかテフラに居を構えようとしていたとはな。はは――『面白くなってきた』」
「まだ言いますか……!」
「言うとも。さあ、次はどう出る、魔人よ。ずいぶん動きが鈍かったが――」
「たぶん、僕を見て戸惑ったからだ。彼が僕を無視して攻撃をしてきたら――」
ジュリアスが言いかけたところで、再び場に変化が現れた。
屋根下に落ちていった黒い人型――〈サレ〉が、跳躍と共に再び屋根の上へと戻ってきたのだ。
サレは右手に真っ黒に変色した〈改型・切り裂く者〉を握りながら、悠然と三人の前へと歩んできた。
真っ赤な光をたたえる双眼に〈殲す眼〉の紋様を浮かばせながら、三人のうちの一人に視線を移し、口を開いた。
「――ジュリアス。……お前は『敵』か?」
中途半端な答えを許すような顔はしていなかった。
敵と答えれば、その剣を即座に振り下ろしてくるだろう。
少なくとも、ジュリアスにはそう見えた。
「いいぞ、ジュリアス、正直に言え。お前が言わないのなら私が言うぞ」
「……っ」
サフィリスがとっさに横から口を挟んだ。
それでもジュリアスは答えられず、そして、
「ならば私が言おう。さきほどの攻撃は私が命令したものだ。『それ』はたまたまここを通りがかっただけで、先ほどの攻撃とは関係がない。――むしろ、場合によってはお前たちの『味方』になるかもしれない存在だ。テフラ王国でなにかを為したいのなら、せいぜい大切にするのだな」
「……」
サレは黒い六枚翼を一度羽ばたかせ、しかし視線は逸らさずに、ジュリアスを凝視した。
赤い光がジュリアスの目を射抜く。
黒い翼が一度羽ばたくごとに、周辺には押し出されるような力の波動と肌をピリピリと焼くような熱気が伝播した。
「――なら、お前ら二人は『敵』なんだな」
サレは幾秒してジュリアスから視線を外し、今度はサフィリスに視線を移して言った。
「ああ、攻撃をしたのは私だからな。敵というなら、そうだろうな」
「そうか、なら――」
その場にいた三人の背筋に、悪寒が走った。
「――【弾けて散れ】」
そして間髪入れずに――〈殲す眼〉の破壊の力が空間を突き進んだ。
◆◆◆
しかし、破壊は顕現しなかった。
サレはサフィリスの頭部に焦点を結び、害意を放った。
〈殲す眼〉が発動している自覚もあり、いつも通りならサフィリスの頭部は弾け散ったはずだった。
だが、
「術式陣……」
サレの頭の中は大半が殺意と害意に覆われていたが、それでもなお、戦闘に際して冷静な部分が残っていて、自分の眼前に不意に現れた存在を知覚していた。
術式陣だ。
複雑な幾何模様と文字列が組み合わさった――術式陣。
それが殲す眼の破壊術式を中途で阻んだのだ。
「【潰れろ】」
再度殲す眼を発動させる。
言葉で意志を表し、破壊を顕す。
しかし、サフィリスの身体は潰れなかった。
当のサフィリスは不敵な笑みを浮かべている。
「魔人よ、お前はテフラ王族に関してなにも知らないようだな」
サレはそれを聞かない。
今度は右手の〈改型・切り裂く者〉を振り上げ、仁王立ちするサフィリスに叩き付けた。
「無駄だ、魔人。お前は私を傷つけられない」
サフィリスの言葉を裏付けるかのように、〈改型・切り裂く者〉は再度謎の術式陣に阻まれた。
持ちうる膂力を総動員し、術式陣ごと叩き伏せようと力を込めるが、微動だにしない。
――なんだ、これは。
「下がっていろ、アルミラージ。もう護衛は必要ない。――『神格』は私の味方をした」
「はっ」
先ほどまで身を挺してサフィリスを守ろうとしていたアルミラージが、やけにあっさりと引き下がる。
おそらくこの術式陣を見て安心したものと予想するが――
「ジュリアス、お前のアテが外れたな。この魔人では私をこれ以上傷つけることはできないようだぞ」
「……」
「術式転換――暴虐を尽くせ、〈祖型・切り裂く者〉」
サフィリスがジュリアスの方によそ見をしていると、不意にサレが声を放った。
剣を謎の術式陣に防がれたまま、術式を転換し――展開する。
サレの術式兵装がこれまでとは一線を画す猛烈な勢いで燃えあがり、刀身がさらに何倍にも膨れあがった。
「ほう、まだ威力が上がるか。――だがな、変わらぬよ。所詮は〈魔術〉だ」
暴虐の剣は術式陣に阻まれ続ける。
接触面から金属が削れ散るような火花が弾け、さらにガリガリと音を鳴らすが、それでも術式陣は一片すら歪まなかった。
サレは表情を変えず、一度〈祖型・切り裂く者〉を引き、今度は横に構えてその場で薙ぎ払った。
しかし、
――まただ。
今度はサフィリスの腰横に同じような術式陣が展開される。
止められる。
「魔人よ、教えてやろう」
すると、サレの姿を見かねたようにサフィリスが悠然と言葉を並べはじめた。
出来の悪い生徒に理解させようと親身になる教師のように、柔らかく、ゆっくりと。
「私を守るこの術式陣は〈神格術式〉によるものだ。直系のテフラ王族は〈法神テミス〉という神族ともれなく契約をしている。契約者が帰属する地で、法的な規定力を背景に力を発揮するいささか気難しい類の神族でな」
サレが〈祖型・切り裂く者〉を両手持ちしてさらに力を込める中、サフィリスは余裕の笑みで続けた。
「――つまり、だ。今、この場面に関して言えば、私が帰属するこのテフラ王国の『法』を力の源にする神族だ。この神格術式の力はテフラ王国の〈王国法〉に影響を受ける。そして私はテフラ王族だ」
「わかるか?」とサフィリスは挟んだ。
「――否、この国に来たばかりのお前らには分かるまい。テフラ王国の王国法が、どんなものか」
サレの脳裏にいつかのメイトの言葉が蘇った。
――テフラ王国の王国法は、テフラ王族の一方的な行使権を規定するものが多い。
「そのうちの一つに、『テフラ王族は、王族より三階級以下の身分の者によって傷つけられてはならない』というものがある。やや歪曲した文章だが、いざというとき解釈に幅を持たせるためだろう。――テフラ王族の祖がそう制定したのだから、私がとやかくはいうまい」
ともあれ、
「ここまで言えばわかるだろう?」
「……」
ほんの少し、サレが眉をしかめたのをサフィリスは見逃さなかった。
「私は王族で、つい先日この湖都に来たばかりのお前らは平民だ。三階級どころか、さらに身分的な開きは大きい。そして法神テミスはその神格術式によって王国法を現実に反映させる」
サレはこの防御術式の理屈を知る。
だが、自分の術式剣〈祖型・切り裂く者〉がこれほど容易く止められることに対する納得は、いまだ得られていない。
「ああ――一番大事なことを言い忘れていた」
するとサフィリスがサレの疑問をくみ取るようにして言葉を付け加えた。
サフィリスの笑みが濃くなる。
「――術式には『格』というやつがあってな?」」
おもむろに、サフィリスがさきほどサレの術式兵装によって半ばまで割断されたアルミラージの剣の残骸を拾った。
「アルミラージの術式兵装を容易く斬り裂いたところを見ると、お前の術式兵装は通常の術式程度ならものともしないようだな。あるいは、術式を斬り裂く能力でもあるのか。――ともあれだ。いずれにせよ、お前のそれも『魔術という格』の範疇にあるものだ」
サフィリスは割断された剣を投げ捨てた。
再び両手を大きく広げ、
「繰り返すが、術式には格というものが存在する。たとえば、お互いに術式を斬り裂く効力を持つ剣同士が打ち合ったとき、どちらの効力が優先されるか」
言う。
「同じ燃料を素とする術式同士なら、それは術式の編みこまれ方や込められた燃料の大小によって決まる。――だが、それらが別々の燃料を素とする場合、前述した要因に加えて『格』が強弱を左右するのだ。魔力は多くある術式燃料の中でも格が高い方だが、それ以上が存在する」
一度言葉を切り、息を大げさに吸ってからサフィリスは続けた。
「――〈神格〉だ。神族が授ける術式はその中でも最高格なのだ。神格同士なら神族の階級が影響するが、少なくとも今、お前の魔術式と私の神格術式の間では明確な術式的『格の違い』が存在する」
ああ、と思い出したかのようにサフリィスは続けた。
「魔人の〈殲す眼〉は固有術式だったな。試したことはないが、先ほどの結果を見るに格は神格に及ばぬようだ。所詮はたかが一異族の固有術式だ。効力は絶大でも、神格に敵うものではない。神族に最も近いと言われた〈竜族〉の固有術式も神格には届かなかった。その竜族と同程度と言われる魔人族の固有術式も――同じということだ」
最後は少し残念がるように。
「これ以上は、面白くならなそうだ。――では、王国法を破ろうとした罪に対し、罰を与えよう」
そしてサフィリスは言葉を切る。
次いで、別の術式陣を宙空に展開させた。
それが神格術式だと気付いたころには、サフィリスは術式陣の中に手を突っ込んでおり、数瞬しないうちに神格術式内の別空間からある物を引き抜いていた。
引き抜いたのは一振りの剣だった。
装飾こそ少ないものの、黄金比とでも形容したくなるような形態美を誇る真っ白な剣だ。
「戦系神族〈剣神アレス〉の神格剣だ。初期段階の神格剣だから大した効力はないが、この程度の剣でも神格は神格だ。お前のその巨大な術式剣も――」
サフィリスは自分の横腹のあたりで法神テミスの神格術式によって受け止められ続けているサレの〈祖型・切り裂く者〉に狙いを定め――白の神格剣を振り下ろした。
そして、膨大な質量と破壊力を誇っていた黒い術式兵装はいともたやすく刃半ばで両断され――
「このとおり、容易く両断される」
『霧散』した。




