36話 「舞台上の劇役者」【後編】
サレは自分がこの二月ほどの間、いたって理性的に動けていることに自分自身で多少の驚きを得ていた。
思考は思った以上に明快で。
それは新しい繋がりに依存していることからくる安堵によってなのだろうか。
振り向かずに走り続けている一心不乱さが、かえって理性に光を灯しているのか。
しかし、そう考えると、逆説的に一つの懸念が生まれる。
ならば、その自分が理性的でいられなくなった時は、果たしてどういった行動を起こすのだろうか。
また、自分が理性的でいられなくなるのはどういった時か。
自己の客観視は難解だ。
「――俺は近しい者の不幸に耐性がない。――まあ、あってたまるかとも思うよ」
懸念に対する自分なりの予想を立てるに、その言葉が端的だと思う。
たぶん、自分が理性的でいられないのは、今の仲間たちが言い知れぬ危機に陥った時だ。
「サレ、お前はその時、どう動くんだ」
問いかけに答えは帰ってこない。
自分の客観視にも限度はある。
「その時にならないとわからないことだって――あるよな」
壮絶な誕生秘話により、自分自身の不幸には奇妙ながら耐性がある。
伊達に何回も死んじゃいない。
だからこそ、そんな自分を基準に考えてしまうから、仲間たちが傷ついた時にはきっと過敏に反応してしまう。
「――そろそろ寝よう」
結局は頭の中の予想だ。
サレはそこで思考を打ち切った。
そうして、サレはベッドに横になろうとした。
靴を脱ぎ、最後にもう一度伸びをして、ベッドに横になろうと身体を窓際に傾ける。
その時だった。
なにげなく窓へ視線を流したその時。
景色の奥の方――距離にしておよそ一キロ程度だろうか。
その場所に、その屋根の上に――
『光』を見た。
それは個人的に見慣れた光の色。
しかし、街中では見慣れない光の色。
青白い燐光を纏う『魔力の光』だ。
同時。
サレはえもいわれぬ悪寒を背筋に感じて――叫んだ。
隣の部屋にも聞こえるように、壁を突き抜けるような強声で、
「っ――マリアアアアアアッ!!」
――と。
◆◆◆
その日の夜。爛漫亭に耳を劈く鋭い破裂音が炸裂した。
◆◆◆
その出来事は〈凱旋する愚者〉が湖都ナイアスに入都してから初めての――明確な被攻撃であった。
そして同時に、一団の中核を担う〈サレ・サンクトゥス・サターナ〉が――
初めて己の感情を爆発させた瞬間でもあった。
◆◆◆
「――マリアッ!! アリスは無事か!?」
爛漫亭の三階に声が響き渡った。
トウカの声だ。
彼女は着物の袖で口元を覆い、辺りを舞う木端の粉塵を吸いこまないようにしながらも、できる限り声を張りあげて名を呼んでいた。
窓ガラスが割れる強烈な破裂音のあと、窓辺から飛び込んできた『青い光』はアリスの部屋の中で炸裂し、周囲の壁や床、生活調度品を木端微塵にした。
光が飛び込んでくる数瞬前に、隣の部屋からサレのうわずった声が聞こえなかったらどうなっていただろう。トウカは内心で思う。
ベッドで寝ていたアリスを庇おうとしたが、その刹那の時間で、トウカにとって彼女まではあまりに遠かった。
しかし、アリスのベッドに近い位置にいたマリアが、同じようにサレの声に反応し、凄まじい速さでなんらかの術式を展開させたところまでは寸前の視覚記憶にある。
おそらく彼女がアリスを衝撃から守っただろうとの予想はあったが、確認のために再びトウカは声を張りあげた。
「マリアッ!!」
すると、
「大丈夫よ!! ――アリスは無事だわ!」
ついにマリアの澄んだ声が返ってきて、その言葉がアリスの無事を報せた。
「あなたは陸戦班長として副長と一緒に攻撃者のもとへ向かいなさい! 二発目を許してはだめよ!!」
次いで、マリアの指示が飛ぶ。
さらに、
「窓際は危険である!! 部屋の外へ!!」
部屋の外側から野太い声が聞こえてきた。
ギリウスの声だ。
「――わかりました! ――私と空戦班長がアリスを守るから、トウカ、あなたは行きなさい。副長が真っ先に迎撃に行くでしょうけど、副長とはいえ一人では苦戦する可能性もあるわ」
「うむ、わかった!」
徐々に部屋の中の粉塵がおさまってきて、トウカはテーブルに立てかけておいた自分の刀を見つけると、その鞘を握りしめて割れた窓から外へ飛び出そうとした。
すでに身体は臨戦態勢に移行しており、四肢には確かな力が漲っている。
――的になるが、最短は屋根を突っ走ることじゃな……!
術式弾による狙撃を受けた地点から、直線距離で発射地点まで走る。
屋根の上から狙撃したであろう相手からすれば恰好の的だとも理解しているが、この際逃げられるよりはマシだ。
いくらかの危険も承知のうえで攻撃者の確保に向かうべきだろう。
そうトウカの頭は答えを出していた。
足に力を込め、一歩を踏み、二歩を踏み込み――
三歩目で割れたガラス窓の枠に足を掛けようとした時、不意にトウカの眼前を『黒い炎』が遮った。
「ぬおっ――!」
トウカは唐突な眼前の熱気に、心底から驚きの声をあげる。
だが、切迫の状況でそう悠長に驚いている暇もなく、すぐに眼前の異変に観察の視線を切り込むが、次の瞬間、その正体を見て――おもわず息が引っ込んだ。
「ひ」と音こそもれなかったが、唐突な吃驚に息が舌ごと引っ込んだ気がした。
眼前にいたのは、右腕に『黒い炎』を纏ったサレだった。
おそらく外壁伝いにこちらの部屋へ来たのだろう。
視線は攻撃が飛んできた方向へ向いている。
そのせいで表情が窺えなかった。
「サレ、アリスは――」
気を取り直して、トウカはアリスが無事であることを伝えようとサレの名を呼んだ。
だが、それ以上言葉が出なかった。
窓枠に足を掛けているサレは、ほんの一瞬だけアリスの部屋の中を振り向いた。
そのたった一度の振り向きで、トウカは悟った。
彼女は見た。
アリスの無事を確認しようとするサレの目に、形容しがたいほどの怒気が映りこんでいたのを。
赤く燃え盛る瞳には、すでに〈殲す眼〉の紋様である六芒星が浮かびあがっており、その黒い瞳孔は獣のそれのように縦に割れていた。
対して、表情に激怒の色はなかった。
むしろ徹底された冷静さを映しだしたかのような、氷の表情だ。
だがトウカにとっては、その氷の表情の方が恐ろしく映った。
「あ――」
今の術式弾による攻撃が、取り返しのつかないことをしてしまったのではないだろうか。そんな思いがトウカの中に生まれた。
それは近場にいたマリアや、部屋の外から顔をのぞかせていたギリウスも同様に抱いた思いだった。
そして。
アリスの部屋の窓枠に足をかけていたサレが、首をぐるりと外へ向け直した。
術式弾が飛んできたと思われる方向を眺め直した。
そうして、距離を測るように首を上下に動かし、数秒を過ごすサレ。
すると、ゆっくりとした首の動きとは対照的に、サレの身には迅速で明確な変化が生まれ始めていた。
黒い炎が右腕のみならず、サレの身体全体を覆うように火力を増していったのだ。
ついに身体全体を黒い炎が纏わりつくように覆ったところで、サレは首の動きを止め、視線を遠くの一点へと向けた。
同時。
傍から見てもわかるように、四肢への力が込められ、
――行く。
見ていた誰もがサレの跳躍を直感する。
瞬間。
「なっ――!」
サレの背から膨大な量の黒炎が爆発的に噴出した。
なにが、と言おうとしたトウカは、目の前で急に発生した莫大な力の奔流を受け、後方へ尻もちをつく。
殴打した部分をさすりながら再び窓際に目を向けると、そこには、
「――――黒い……翼……?」
巨大で、荒々しくて、象りは不安定で。
しかし、サレの背から爆発的に噴出した黒炎の塊は、確かに『翼の形』をしていた。
天使族の白い六枚翼にどことなく似ているが、それとは大きさも力強さも一線を画す様相。
それは燃え盛るようにゆらめきながら、辺り一帯に力の波動をまき散らしていた。
トウカやマリアやギリウスが、そのサレの背に現れた巨大な黒炎の六枚翼を眺めているうちに、サレの四肢には大跳躍のための最後の力が込められていき、そして――
魔人が黒翼と共に飛翔した。
◆◆◆
「ふむ、見事に命中したようだな。よくやった、〈アルミラージ〉」
サフィリス第二王女は、ジュリアスと同じ金の長髪を指先捩じりながら言葉を舌に乗せていた。
隣に立っているのは薄灰色の髪で片目を隠している若い男。青年だ。
身体の前に掲げ構える彼の手のひらには、さきほどの術式弾を飛ばした際の残光と思われる青白い粒子が微かに舞っていた。
「――はい、殿下」
薄灰色の髪をほんの少し揺らしながら、アルミラージと呼ばれた青年は短く答えた。
「さて、あちらはどんな反応を見せるか」
「――なんてことを! 姉さん!」
すると、地上にいたジュリアスが軽い身のこなしでサフィリスとアルミラージがいる家の屋根の上へと登ってきて、強めの声を放った。
「ハハハ、見ればわかるだろう? 『攻撃』だ、攻撃。――ジュリアス、これでヤツらもお前も動かなければならなくなったのだぞ。――ハハ、アハハ、面白くなってきた」
ジュリアスは、笑いながら紡がれたサフィリスの言葉を、腕を振るいながら遮った。
「――違う! 姉さん! 彼らに手を出すべきではなかったんだ! ――僕が心配をしているのは姉さんの方なんだよ!」
「はっ、やかましいぞ。口を出すなと言ったはずだ。それも異なことを言う。心配なのは私の方だと?」
サフィリスはジュリアスの言葉に少し神経を逆なでされたようで、その美貌に少しムっとした表情を映して答えた。
「――このテフラ王国の第二王女に投げる言葉ではないな」
「僕がなぜこんなにも早く彼らの様子を見に行ったか姉さんは理解していない!」
「理解はしているつもりだがな」
サフィリスはそっけなく続ける。
「テフラ王国の在り方に疑問を抱くお前は、この体制を崩壊させるに足る外部からの異端者を求めていた。――だからだろう?」
「仮にそうであったとしても、僕と姉さんの間の『それ』には差異があるんだ……」
「仮に――か。まあいい、一応そこは認めるのだな。――して、その差異とはなんだ」
やれやれと両手を振ってから、ジュリアスに先の話を促す。
「――異端者の力量を見誤っているんだよ! 僕が求めている異端者の力量と、姉さんが予想する異端者の力量にはきっと大きなズレがある。あなたの予想を超える異端者の存在を、なぜ予想しないんだ!」
「ジュリアス殿下、それ以上は殿下と言えども我が主への侮辱と捉えます」
「アルミラージ……」
アルミラージが不意にサフィリスとジュリアスの間に身を挟んで、露わになっている片目に光を閃かせながらジュリアスを射抜いた。
それでもジュリアスは退かなかった。
「アルミラージ、今君は『最も危険な場所』に立っているんだよ。今すぐにでもここを離れるべきだ。君は彼らに対する加害者になってしまった……」
ジュリアスは片手で額をおさえ、表情を苦くしながらアルミラージに言う。
しかしアルミラージは、
「出来ません。私はサフィリス様の忠実なる臣下です。サフィリス様が退かぬかぎり、私も退きません」
「姉さん……退いてくれ。――御願いだ、僕はあなたに血を流して欲しくないんだ」
ジュリアスはサフィリスに懇願する。
えもいわれぬ不安感が、ジュリアスの内心を過っていた。
「ジュリアス、お前は私が倒れるとでもいうのか。たかが五十の異族によって、このテフラ王族の私が。純人の中で最も神格に恵まれるこの私たち一族が!」
「あえて言おう、姉さん。あなたはきっと手傷を負う。――もしかしたら死に触れるかもしれない」
「ジュリアス殿下、それ以上はおやめください。私とて主の弟君であるあなたを手にかけたくはないのです」
アルミラージが腰に携えていた剣の柄に手をかけた。
ジュリアスはそれを見て一歩たじろいだが、
「――わかった。これ以上『言う』のはやめよう。ただ一つ、最後に言わせてくれ。もう口は出さないけど、いざとなったら僕は僕の判断で手を出すよ、姉さん」
「はっ、勝手にしろ」
ジュリアスは決意を固めるように大きく深呼吸をした。
次いで、術式弾が向かっていった方角に目を向ける。
きっと今に『彼ら』が行動を起こす。
そんな確信を得ながら。
――姉さん、あなたは彼らを……なによりも『魔人』を……
起こすべきではなかった。
ジュリアスは呼吸を整える。
これから何が起ころうと、決して狼狽えないように、と。
息を深く吸って、吐いて、そして、
遠方で『黒い光』が揺らめいたのを見た。