35話 「舞台上の劇役者」【前編】
〈ジュリアス〉は爛漫亭を出たあと、時間を適当につぶすようにして、湖都ナイアスを歩いていた。
爛漫亭でのタダ飯で腹は膨れ、満腹感と一緒に満足感に満たされる。
その状態で歩くことだけが少し面倒であったが、かといってあのまま爛漫亭に居座るわけにもいかない。さすがに限界もある。
ひとまず宿にしている歓楽区裏道の娼館へ戻ろうと、ゆっくりと歩を進め始めた。
ベージュ色のローブを着こみ、金の長髪を悠然と揺らす。
空色の瞳は一切の陰りもなく閃いていた。
そんなジュリアスがちょうど歓楽区の裏道に入りかけ、人気のない細い路地に入ったあたりで、不意にどこからか音が聞こえてきた。
音。それは人の声のようだった。
「お前、さっそく例の混成種族集団と接触を図ったようだな。――あいかわらず妙に耳が早いヤツだ」
どうやら音の出どころは上方らしい。声が空から落ちてきている。
ジュリアスはまずその問いに答える前に、周りを見回した。
――辺りに人影はない。
ゆえに、その言葉が自分に対して紡がれたものであると確信し、一度頭を掻いたあと、うんざりした様子で口を開いた。
「――それはお互い様でしょう。〈サフィリス第二王女殿下〉」
「おいおい、ずいぶんとよそよそしい呼び方だな」
「なら〈狂姫サフィリス〉とでも呼びましょうか?」
「意外とその呼び名は嫌いではないが、お前がそれで私を呼ぶのはやめろ」
ジュリアスはうなだれのあとに、今度は困ったような苦笑を浮かべた。
「それで、こんな夜分に何の用です?」
「そっけないヤツだな。――まあいい。単刀直入に言う」
上方からの声の間に、軽い吐息を挟まれた。
「――『取引』をしようじゃないか、ジュリアス」
「取引、ですか。あなたの欲しがるようなものは僕の手元にはありませんよ」
「嘘をつけ。お前のことだ、どうせいくらかの情報はあの混成異族の集団から抜いてきたのだろう? ――お前はよく人に信用されるからな」
「それは買いかぶりですよ。情報なんて持ってません。――情報が欲しければあなたの妹である〈エルサ第三王女殿下〉にでも聞けばいいでしょう。〈黄金樹林〉に組するあの人なら、そこらの情報屋よりよっぽど新鮮な情報を提供してくれますよ」
「――アレはダメだ」
再びの嘆息の音が、言葉の間に挟まれた。
「アレはどうも私に対抗心を燃やすきらいがあるからな。ふっかけるだけふっかけて、結局情報は渡さないだろう。良くてどうでもいいうわべの情報をよこすだけだろうよ」
「あなた方の関係もだいぶ捻じれてますね」
「姉妹とはそういうものだ。特に、込み入った権力闘争などが介入してくると、余計にな」
ジュリアスはおもむろに空に目を向けた。
上方から落ちてくる声の主の姿をなんともなく探す。
だが、特段に人の姿は映らない。
今度は左右に視線を移す。
民家とも商家とも区別のつかない、さびれた建物がいくつかある。
上方からの声はその店の屋根の上からのものだろう。
なんともなく予想して、「はあ」と屋根の上にまで届くような大きなため息をついたあと、ジュリアスは言葉を紡いだ。
「そんな闘争によくもまあ――精が出ることですね。僕とは無縁のものだ」
「無縁ではないぞ。お前が目を逸らしているだけだ。お前の方からな。――権利と義務はそこにあるのに、お前は手を出そうとしない」
「不毛ですから」
「はっ、本当にそう思っているのかも怪しいところだな。――それで、どうするのだ」
「あなたが提示するものについてまだなにも聞いていませんよ。一応、『取引』なのでしょう?」
「そうだったな。つい先走った。――ふむ、私が提示するものか……」
「もしかして、そんなことも考えていなかったのですか? あいかわらず考えるより先に行動を起こしているようですね」
「言うな、私は私のこの性分をそれなりに好んでいるのだ。エルサのように無駄な思考に費やす労力を要しないからな」
――ただ考えを巡らせるのが面倒なだけでしょうに。
ジュリアスは声には出さず、内心でだけ言っておく。
「――よし、こういうのはどうだ」
「どうぞ、仰るといいと思いますよ」
上方からの声は一旦途切れ、次いで、大きく息を吸うような呼気音が来た。
そして、
「情報を渡した暁にはお前の一つ上の兄、〈エスター第六王子〉を殺してやろう。――どうだ? ――我が弟、我が末弟〈ジュリアス・ジャスティア・テフラ〉よ」
一際明瞭な声が、空から舞い降りた。
◆◆◆
「本当に人の話を聞かない人ですね、『サフィリス姉さん』」
「お前が現状で王権の権力闘争に興味がないのは知っている。だがな、私の勘では、いずれお前はこちら側へ戻ってくるぞ。その時になってエスターは邪魔になる。だから、私が先に手を打ってやろうと言うのだ」
「僕の思想と行動はあなたによって決まるものではありません。まして、勘だなどと。あなたの野生染みた勘がよく当たることは僕も経験上知っていますが、今回ばかりは疑わずにはいられませんね」
「そういうがな、ジュリアス。私には証拠もあるぞ」
上方からの声がやや高めの音に変容する。
声にこもった熱気がわずかに膨張したようだ。
「証拠? 証拠とはなんです?」
「お前がこちら側へ戻ってくるという勘の証拠だ。お前は現に『例の混成種族集団』に接触した。エルサのように連帯ギルドを使うわけでもなく、その身一つでだ。それはお前自身がヤツらになにか――そう、協同に値するなにかを探ろうとしての行動じゃないのか?」
「深読みのしすぎです。僕は単に腹が減ったので、卑しくもタダ飯にありつこうとしただけですよ」
「タダ飯食らいのジュリアス、か。そんなジュリアスがテフラ王族の末弟だと知るものも、ほぼいないのだろうな。――それもなにか? いざ王権に関わるときに後腐れなく飛び地するための伏線か?」
「はあ……キリがありませんね」
ジュリアスはフードを降ろし、目元が隠れるまで目深に被った。
上からの視線をフードで遮断したのだ。
それがこれ以上の会話の拒否証明だった。
「取引は決裂です。僕にも僕の矜持があるので――もとより情報を外に漏らすつもりはありませんでしたが」
「……そうか」
上方の声には少量の落胆が含まれているようにジュリアスには聞こえた。
しかし、すぐさま続きの言葉が降ってくる。
「――ならいい。お前の選択に口を出すのもこれくらいにしよう。――だから、お前も私の選択に口を挟むなよ?」
「なにをするつもりですか」
「なに、見ていればわかる。ほんの余興だ。もとより私は情報戦とか、そういうまどろっこしいやり方は好かん。我が矜持はとりあえず動け、だ」
「アハハ」と軽い笑い声が間に入って、さらに言葉は紡がれた。
「もう一度言う。お前も見ているといい。新たに舞台上へ足を掛けた新人の劇役者たちが、手練れた脚本家と劇役者によってどのように踊らされるのか」
ジュリアスは踏もうと思っていた前進への一歩をとっさにひっこめた。
一度かぶったローブのフードを片手でまた振り払い、今度は屋根の上に少しでも目が届くようにと立ち位置をずらして空を見上げる。
すると屋根の端から『人の手』をほんの少し目視できて、瞬間、声をあげた。
「――こんな場所で手を出すつもりですか!? 姉さん!!」
「べつにいいだろう。人の気はないしな。――いいか、私は期待しているのだ。新たな役者たちがお前の目に適い、それによってお前がテフラ王族の『表舞台』に戻ってくることを。これでも私はお前を買っているんだぞ。歴史主義者の木偶たるエスターなんかよりずっとな」
鼻で笑う言葉のあとに続けて、
「――利用するにしても、敵対するにしても、相手は強大であるか、もしくは奇抜であるか、それか――『狂っている』方が面白い。他の兄弟や姉妹がお前をどう評価するかは自由だが、殊、私に関してはこの言に偽りはない。お前を買っているという言葉にはな」
「だからといってこの街に来たばかりの彼らを巻き込むのですか! 彼らは無関係でしょう!」
「ああ、悦んで巻き込むさ。――いいか?」
◆◆◆
「私は、私が面白ければそれでいいのだ」
◆◆◆
「さあ、序幕の開演だ」
ジュリアスが屋根へと視線を飛ばす中、屋根からほんの少し見えていた手にふと光が宿った。
それが術式によるものだとジュリアスが気付いた瞬間、光はその手に勢いよく収束し、『光弾』の様相を呈して――
瞬間。
光の弾が凄まじい速度で彼方へと飛翔した。
飛翔方向は『爛漫亭』の方角だった。
◆◆◆
サレは自室に戻ると、上着を脱いで椅子に掛け、身体をほぐすように肩をまわしながらベッドに腰をおろした。
「……はあ」
――最近ため息をつくことが多くなった気がする。
「辛気臭いな……」
無意識に口からもれた大きな息について、自分自身でやんわりと批判を飛ばす。
これではトウカたちの言う気負い癖や気遣い癖を認めざるをえないかもしれない、などと頭の隅で自虐的な皮肉を交えながら、一日の出来事を反芻した。
模擬戦の効果はたしかにあっただろうと思う。
アリスの計算に間違いはなかったと、個人的に賛同するところだ。
断崖に仁王立ちする抵抗者という立場は当分変わらない。
闘争を得ることを本質とする一面がこの集団にはある。
だから、それを再認識させるという今回の模擬戦に込められたアリスのもう一つの意図は正しいと思う。
「まあ、忘れてたわけじゃないけれども」
結局、そのへんは個人の程度の問題だ。
自分は自分で、空いた時間での鍛練は怠っていないし、たぶん基本的に皆それは同じだろう。
「――そのへんが形骸化しないようにって意図もあるのかな」
ともあれ、長の言葉だ。
考えなしの隷従者も問題だが、分析してばかりの億劫者も問題だ。
長の言葉には行動を返すのが組織の基本だろう。
「――うん」
サレはうなずきのあとに一旦思考を切った。
その後、軽く身体を伸ばしたサレは、ベッドの傍らに立てかけておいたイルドゥーエ皇剣を鞘ごと手に取りその刀身を抜く。
毎日の点検は欠かせない。
これが己の生きる術であり、存命の糧でもあるのだ。
「――よし」
ひととおり皇剣の点検と手入れを終えると、次に右腕の袖を捲って〈サンクトゥスの黒炎〉の封印術式を見る。
術式陣を施してから二月ほど。
加えて言えば、あの後も時間に暇がある時に術式に補強をしていった。
今のところ術式にも身体にも不備はない。
現に今日使ったばかりだ。
「とはいえ、一筋縄ではいかなそうだなぁ」
一月前、アテム王国の第二王剣と接触したときのことを思い出す。
〈祖型・切り裂く者〉を使ったときのことだ。
本来〈祖型・切り裂く者〉の刀身は青白い。――正確には青白かった。
それは〈祖型・切り裂く者〉の術式を発動するための術式燃料が己の〈魔力〉であったからだ。
魔力燃料は外部に発散されるとき、『青白い燐光』を発する。
術式燃料の燐光は種類によってさまざまだが、魔力の燐光は若干白みがかった青色だ。
だが、あのときの〈祖型・切り裂く者〉の刀身は黒かった。
「――〈サンクトゥスの黒炎〉の影響だろうな」
おそらく、という程度の予想はある。
サンクトゥスの黒炎の莫大な燃料が、術式発動時に呼応して黒炎という形態のまま割り込んできたのだろう。
ゆえに〈祖型・切り裂く者〉の刀身が色を変えた。
――この黒炎は俺の意志に過敏に反応しすぎる。
自分が思っていた以上に、初代魔人皇が編み出したこの黒炎術式が特殊なものであることを、サレはここにきて再確認していた。
だから、術式燐光色の変化は覚えておかなければ。
それが何かのきっかけで周りの仲間たちの害になるようなことが、万が一にもないように。
サレは黒炎術式に対する認識を強くもって、ベッドに身を投げた。
「でも、それはそれとして――」
この黒い炎は魔人たちの遺産だ。
危険だという認識もあるにはあるが、それ以上に唯一の『魔人の繋がり』でもある。
それに、なんといってもその効力は絶大だ。
燃やせないモノはないと言わんばかりの超絶的な火力がこの黒い炎にはある。
プルミエールの天術式を事象式ごと燃え散らせるほどの力圧だ。
「――いずれにせよ、必要ならば使うべきだ。すべての魔人族の意志がこの黒炎に宿るならば、なおさら――」
――共にあるべきなのだ。
そんな思いを抱いた。
◆◆◆
「なあ、マリアよ」
「なんです? トウカ」
サレの部屋の隣室――アリスの部屋には、部屋主のアリスと、護衛役のマリア、そしてたまたま足を運んでいたトウカがいた。
アリスは疲れがたまっているのか、黒い長髪を枕元に扇状に投げ出して、すでにベッドの上に寝転んでいた。
目をつむってはいるが、本当に寝ているのかどうかは判断がつかないといったところだ。普段から動きが少ないだけに、寝転んでじっとしていても本当は起きているのではないかと勘繰りたくなる。
そんな中、トウカが椅子に座りながら机を支点に頬杖をつき、対面の席に座っているマリアに言葉を投げかけていた。
マリアはどこからか仕入れてきた毛糸と棒針を使って器用に編み物を編んでいて、その姿勢のままでトウカの問いに答えていた。
「ぬしにも『悔恨』はあるのか?」
「ずいぶんと漠然としている質問ね、トウカ。――強く知りたいと願うなら、もっと正確に言葉にするべきよ?」
「説教は聞きたくないのじゃがなぁ」
「――まあいいわ。そうね、悔恨ねぇ……」
マリアは編み棒と毛糸を机の上において、視線を天井に向けながら思考に耽るような仕草を見せた。
「――ないこともないわよ?」
「いつも笑っているぬしを見ていると、同じような境遇にいることを忘れがちでの。――そうか、ぬしにもあるのか、悔恨が」
「それはそうよ。プルミなんかもそうだと思うけど、私にだって悔恨や後悔くらいあるわよ? ――祖国と家族を同時に失ったのだから。あの時こうしていれば何人かは助かったかもしれない、くらいのことはいつも思うわよ」
マリアは小さなため息をまじえ、続けた。
「でも、時は戻らないのだから、考えるだけ無駄でしょう?」
「ぬしはよくそうやってすぐに前を向くことができるのう……」
「私にはまだ〈イリア〉がいるから。それに、副長やあなたみたいに同種全体を失ったわけじゃないわ。〈精霊族〉は歴史の半ばで大きく分化したから、文化は違うにしても、精霊族自体は他の場所で今も多く生きているでしょう」
「だからきっと」とマリアは続けた。
「副長やあなたと比べたら、少しは楽なのかもしれないわね。――個人の感情を私という物差しで推し量るのも無粋なことだけど」
「……そうか」
トウカは頬杖をついて心ここにあらずという体で少しの間をおいた。
「――もちろん、わらわにも悔恨はある。――が、わらわにはあの時こうしていればよかった、というような別の道筋にすがるような後悔はほとんどない」
なぜなら、とトウカは続けた。
「――わらわは実際に襲撃者と殺し合いをしたからの。襲撃者の命も奪った。ほんの少しの弔いはしてやれたと、多少満足している節すらある。そのうえで、力及ばず、ゆえに家族は滅んだ。わらわの限界を発揮してなお、勝てなかったのじゃ」
だから、
「『わらわがもっと屈強であれば』と願望じみた自責の念はあるが――それでもやはり、積んできた研鑽に嘘はない。あの時のわらわには、あれが限界じゃった」
儚げな表情で言葉を紡ぐトウカに、マリアは言葉を投げず、ただその優しげな視線だけを向けていた。
「――わらわはその場に立ち会えた。それが唯一の救いじゃ。――だが、ならば、じゃ」
ならば。
「――立ち向かえる力を持っていながら、家族の死に立ち会えなかった者は、一体どんな悔恨をその心に宿しているのじゃろうな……」
その言葉が、サレの心を暗喩していたことを、トウカ自身気付いてはいなかった。当然、マリアも。
しかし、二人はほんの少しあとに知ることになる。
そういった立場の者が、どのような悔恨をその心に抱いているのか。
トウカがふとアリスの自室から窓を見やったとき、
遠くで青白い奇妙な光が生まれていた。