31話 「白虎の意地」
――これも防ぐのかよ。
クシナは自分の爪がサレに弾かれた瞬間、そんな諦念にも似た思いを胸に抱いていた。
完全に裏をかいたと思った一撃。
攻撃の瞬間に抱いていた思いは半々だ。
『これなら一撃は見舞える』という思いと、『こいつならばこの一撃も防ぐかもしれない』という思い。
ゆえに、クシナは本気で手刀を繰り出していた。
だのに――
防がれたのだ。
傷の一つもない。非の打ちどころのない防御。
その時点でクシナは理解した。
理解せずにはいられなかった。
体術という戦闘手段において、サレが自分よりはるか上層に君臨していることを。
生きてた年数は同じだと言うのに。
積んできた研鑽に差があった。
ただそれだけの事。
「――くそ」
先ほど浮かべた言葉を再び舌に乗せる。よく舌に乗る悪態の言葉だ。
そうやって吐き出しでもしなければ、心中に溢れ出さんばかりに広がった悔しさに押しつぶされてしまいそうだった。
「……でも、絶対追いついてやるからな」
しかし、悪態の言葉の次に出てきたのは、そんな向上心を表す言葉だった。
純粋な近接戦闘では自分はサレよりも弱いのだ。そんな厳然たる事実を――クシナは受け入れた。
受け入れたあと、向上心を燃やすために。
自らが劣っているという認識が、いずれ自分を強くする。――そう願いながら。
きっと今回の模擬戦は、こういった抵抗者という名の『弱者』であることを再認識させる意義も含まれているのだろう。
――本気でこの二月を生きてきた。
あとがないゆえに、笑わなければやっていけないような現状を。
そこに欠けていたのは後方に広がる絶壁を振り返ることだ。
どちらかと言えば、
――俺たちは、目を背けて笑っていたからなあ。
もちろん皆が皆というわけではないだろう。
しかし、心に空いた穴を思い出さないために、現状を直視せずに笑うという行為に走った者も多いはずだ。
その行為も確かに本気ではあったが、
――抵抗者は盲目では生きていけない。
笑うならば、後方の断崖を眺め、そのうえで笑うのがきっと正しい。
それが『抵抗者の笑み』としてあるべき姿だ。
後がないからこそ、周囲の状況を逐一観察しなければならない。
――目を逸らすなよ。
何かを見逃せば、それが断崖への滑落に直結するかもしれないのだ。
きっと、多くの者がそのことを今回の模擬戦で再認識する。
だから、アリスの意図は確かに達成されたのだろう。
模擬戦が許す危険ラインぎりぎりでの攻防も終え、お互いの力量もある程度測れた。
ここで大人しく退けば万事何事もなく進む。
――でも、
「――やっぱりダメだ! 負けるのは嫌だ!!」
白虎が吼えた。
◆◆◆
サレはクシナの言葉を聞き、内心に喜色を浮かべていた。
――負けず嫌いだなぁ。
それは彼女の言葉が『クシナらしい』と思えたがゆえの喜色だ。
――本当に、彼女らしい。
己の個性や感情をストレートに発散させる彼女の姿は、サレにとって愛おしく見えた。
口は悪いが言葉は正直で――心は清涼だ。
見ているものを清々しい思いにさせる不思議な魅力が彼女にはある。
らしさを見失わないのは、心の強さの表れなのだろうか。
「そうやっていろいろ浸っていたいところだけど――」
サレはそう言いながら月光石の短剣を鞘にしまい、
「やる気満々のクシナの相手をしないとな」
構えた。
◆◆◆
「お、おい、二人とも――」
二人から少し離れたところでシオニーがあたふたとしながら言葉を紡ごうとしていた。
サレは横目でその姿を見、しかしすぐに正対者へと視線を移す。クシナだ。
彼女はひとしきり吼えたあと、おもむろにある動きを見せ始めた。
鋭く尖った人虎の爪で、地面をなぞり始めたのだ。
「……術式?」
どうやら術式の描写らしいことまでは見て分かったが、その術式紋様自体はサレには馴染みのない種類のものだった。
――知らない『式』だ。
比較的簡素な式ではあるが、その式が意味する内容がつかめない。
しかし、それを理解できないものとして別の側面から眺めてみると、すぐにある予想に行きついた。
――トウカが見せてくれた〈神界術式〉に似てる。
サレは勘づいた。
クシナの描いている術式は、〈ツッコミの神〉を呼んだときにトウカが描写した式図に似通っていた。
そもそも獣人系は術式燃料を持たないといっていた。
そこから推測すれば、彼女が『普通の術式』を使えるわけがない。
となれば、獣人系が扱える術式は種族の生態に元から固有で備わっている固有術式系か、神族の伝手を頼る神格術式系か。〈精霊眼〉を持っていれば精霊術式も使えるだろうが、そもそも精霊術式に術式描写は必要ない。ただ精霊に頼めばいいのだから。
「ぼーっとするなよ! サレ! ――あの猫、神格系の術式を使うつもりだぞ!」
シオニーが慌てた様子でそう言ったのを聞いて、サレは合点した。
「異族で神格者かぁ……」
あまりいないと聞いていたのに、目の前にいるじゃないか。サレは思う。
「――はい、じゃあ詳しい説明をしてくれたまえ、シオニー君。なんでクシナは異族なのに神格術式使えるの? ――あ、これメイトが眼鏡の位置をなおす真似ね」
掛けてもいない眼鏡を持ち上げる動作を見せ、サレはシオニーに演技ぶって話を振った。
「えっ!? ――あ、うん。獣人族は純人族より肉体能力に優れているし、獣化や憑依型の能力依存もある。でも術式燃料は持たないから、力を貸すのに寛容な神も結構いるんだよ。まあ、契約できても大抵は〈神界術式〉までで、『とりあえず神界門を開けたら加護だけ与えてあげるよー』とか『初歩的な神格術式だけ教えてはいさよならー』とかの場合が多いけど。――ていうか前見ろっ……!」
――慌ててた割には的確な説明だな、シオニー。
シオニーに言われた通り、サレは前を向く。
そこには術式を描写し終えたクシナの姿があった。
◆◆◆
クシナが描き終えた神界術式の中心に手をおき、小さく言霊をつぶやいていた。
仄かな明滅を見せる術式陣と、謳うように口ずさまれる涼やかな声。
次に、クシナが数度軽くジャンプをした。まるで地面の感触を確かめるかのような動きだ。
そのあとで左右への片足のステップ。
着物の広い袖が揺れて、ゆらゆらと舞う。
――どこかで……
サレはその一連の動作に見覚えがあるような気がしていた。
そして数秒後、すぐにその不確かな記憶が確固とした確信に変わる。
クシナが一度大きく舞ったかと思うと――その姿が消え失せた。
確信が今度は言葉へと変わっていき、
「――また〈舞神ユーカス〉かよ!」
思わず口にその名を載せていた。
◆◆◆
異常な加速だ。
クシナが数歩の『舞』のあとにブレるようにして視界から消えた。
その奇妙な舞の仕草と、視界から容易に外れるほどの速力にサレは見覚えがあった。
――あの時の王剣の……
一月前に剣を交えたアテム王国第二王剣の剣将〈エッケハルト〉が扱っていた神格術式だ。
精確にはあの加速自体は術式というほどたいそうなものではなく、単なる神の加護という程度で。
エッケハルトとの戦闘では、宙をも足場にするという舞神系神格術式〈湖上の乙女〉によって苦戦を強いられたのを覚えている。
――初見で、超速度で、そのうえ空間を跳びまわる変態的な軌道だったからな……!
そんなことを思い出していると、サレの顔の右辺りに風が来た。
危険を感じてとっさに身体を前に弾くと、
「――あぶねっ!」
ほんの一瞬前まで顔があった位置をクシナの掌底が打撃していた。
クシナは攻撃を外したことを確認し、すぐさまその場を離れた。
――無理な連続攻撃を敢行すると舞の歩調が崩れるのかな。
こちらが体勢を崩していたというのに追撃が来ない。そこからサレは予想する。
舞を止めるとそこまで累積してきた加速も止まるというのがネックでもあるが、
「速度に関しちゃ、あの男より厄介だなぁ……」
なんといっても基が獣人だ。
肉体能力に優れたクシナがさらに神族の加護で加速するとなると、もはや形容しがたい速度を出してくる。
相手をするサレにとっての安堵は、
――クシナが得たのは舞神の加護だけか。
エッケハルトが使ってきた〈湖上の乙女〉という追加能力的な神格術式の発動は見られない。
そしてもう一つ。
「――ちょっとびっくりしたけど」
言った瞬間、サレがその身を後ろへ振り向かせる。
すると、ふり向いた直後、その顔を目がけて掌打が飛んできた。
しかし、初撃と違ってサレはそれを避けず、
受け止めた。
片手でクシナが撃ち出した手の手首をつかみ、止める。
一瞬遅れてクシナが身体に引き連れていた風がやってきて、サレの黒髪を揺らした。
「まだ実戦で使うのは早いかもね」
そう言ったサレの視界に映ったのは、驚きに顔を歪めたクシナだった。
「っ――! なんで……っ!」
「身体の高速化に対して思考が追いついてないんだと思うよ。攻撃自体は単調だ。死角に回り込んで、真っ直ぐ一撃。――たぶん、舞神の加速加護を維持するための『舞』に集中しすぎちゃってるんじゃないかな。細かい攻防を意識する余裕がないんだよ」
さらにサレは言葉を続ける。
「それに俺、この舞の歩調は見たことがあるから――タイミングは計りやすかったよ」
「……はっ、化物かよ、お前。――くそ、せっかく苦労して神族と契約したってのに」
ばつの悪そうな顔でクシナは答えた。
珍しく弱気な言葉を吐く彼女に対して、サレはすぐさま柔和な声色で言う。
「まだ結論を出すのは早いよ、クシナ」
クシナの手を放して、彼女の身体を解放しながら続ける。
「舞神の加護を得たクシナの速度は驚嘆に値するものだ。陸戦班の中でも上位に食い込むことは間違いない。そこに人虎の膂力が加わる。これだけで十分に脅威だけど、さらに上へと登るためにはそれらを使いこなす技量が必要になると思う」
つまり、
「――加速状態での近接戦の技量を上げればいい。さっきの速度域で攻撃を変調させる技量があれば、防ぐのは至難になる。――ちなみに舞神が好む舞の歩調ってさっきのだけ?」
「んあ? ……い、いや、あといくつか……俺はまだ覚えてねえけど」
「じゃ、まずはそれを覚えて、戦闘中に自然に切り替えられるようにしよう。そうすれば易々とタイミングを読まれることはなくなる」
「……」
サレが閃いたように言うと、突然クシナは頬を赤らめた。
もぞもぞと手を着物の袖の中に引っ込めて、その内側をぎゅっと握りしめる。
まるであどけない少女が恥ずかしさに耐えてするような、かわいらしい仕草だ。
「……あ、あんま言いたくねえんだけど…………おっ、俺は舞とかそういうの……苦手なんだよ……」
◆◆◆
――じゃあなんでユーカスと契約したんだあああああ!!
サレの叫びが内心に木霊した。
◆◆◆
――こ、この猫めっ……!! 気まぐれで契約したのか!? そうなのかっ!?
クシナの突然の告白に返す言葉が見つからず、サレはその場に突っ立って思考をフル回転させた。
だが思考をフルで回転させてもなお、うまい言葉が見つからず、徐々に沈黙が痛みを湛えていく。
「――わっ、わかった、わかったよ!」
すると、サレの胸中を察するようにクシナが先に声をあげた。
「ちゃ、ちゃんと覚えるから……お、覚えればいいんだろ……?」
ちらちらとサレの顔を窺うように見上げ、クシナが頬を染めている。
相変わらず着物の袖の内側を握ったままだ。
「んっ、んで、近接戦の技量上げるって、具体的にはどうすりゃいいんだよ」
上目使いでサレを見上げたあとに、ぷいとそっぽを向いてクシナが訊いていた。
「う、うん。そ、そうだな――ええっと、そうだな――」
そんなクシナのかわいらしい仕草に、サレはたじろいだ。
思わぬ奇襲である。
ギャップがある分、余計に輝いて見える。
普段は強気な女の子が、目の前であどけなさを呈するのだ。
――これはいけない。
急に弱みを見せられると、思わず守ってやりたくなる。今にも頭を撫でてやりたくなる。
さらに、艶やかさとあどけなさを絶妙に兼ね備えているクシナがそれをやると、非常に危険な攻撃力を持つらしい。
――理性が働かない。
サレは思考を回すが、それが目の前のクシナの魅了的な輝きに邪魔されて、何度も中断する。
「……サターナ?」
そっぽを向いていたクシナが再びちらりとサレの顔を見上げた。
流し目、上目使い。
恥ずかしさのためか潤んでいる目元。
「じゃ、じゃあ、時間がある時に俺と低速域での組手でもしよう」
サレは己の理性を必死で覚醒させる。
今だけは悶えてはならない。
もともと格好などついている方ではないが、ここで一人で身悶えなどしてみろ。
格好どころではない。間違いなく奇人だ。
恥ずかしさをこらえて真面目に訊いてきているクシナにも失礼にあたるだろう。
「組手……?」
「そそっ、そうそう」
まだ言葉が震える。呂律が怪しい。――気合だ、我が理性。
「て、低速域での組手は相手を組み伏せるのにものすごく技量がいるからね。そこで慣れて、次に高速域での模擬戦にしよう。そうして徐々に慣らしていけばいいさ。きっとクシナならすぐに上達すると思うよ」
言い切った。
言い切ってやったぞ。
なんて清々しい気分なんだ。
サレは内心で誇らしげに両手を掲げた。
対して、サレの言葉に一度うなずきを見せたクシナは、
「俺、お前に勝つまでやめないからな」
片頬を膨らませながら宣言していた。
「いっ、い、いいい、いいいよ、ののののぞむところだ」
そのカウンターは予期していなかった。
サレの動揺が露骨に言葉面に表れる。
「ま、まあ、まずは舞の形態を覚えるのが先だけどな!!」
「う、うるせえな! わかってるよ! ――お、お前っ、俺がそういうの苦手だって言いふらすなよ! 言ったらぶっ飛ばすからな!!」
顔を赤くして言うクシナを見て、サレは、
――早く部屋に戻って悶えたいなぁ……あと映像記憶の術式とか、覚えておけばよかったなぁ……
しみじみ思った。
◆◆◆
サレが一息つき、ようやく理性も落ち着きを取り戻してきたころ、周りを見回すと、すでに数人の陸戦班員が地面に突っ伏すように倒れていた。
いつの間にか他でも模擬戦が始まっていたらしい。
「うわあ……」
その惨状についつい感嘆の声を漏らしてしまう。
さらに観察していると、生き残っている陸戦班員の間を『赤い影』がするすると駆け抜けていく光景を目の当たりにした。
赤い影。
駆け抜けているのはトウカだった。
黒の長髪を高い位置で一本に縛り、嬉々とした表情で刀を握る鬼人族の女。
その動きはひたすらに速い、というほどでもなく、力強い、というほどでもないが、
――しなやかだ。
相対する陸戦班員たちに攻撃を仕掛ける瞬間だけ猛烈な加速を見せ、一気に距離を詰める。
そうして懐に潜り込んだところで刃の裏――峰によって急所を正確に打ち抜いていくのだ。
「結局まとめて相手にしてるのね……」
「サレとクシナの相対を少し見てから『血沸いたのでやっぱりまとめて相手してくる』って言ってああいう状況になったんだよ……」
サレが一人待ちぼうけをしていたシオニーに言うと、シオニーがこの惨状の経緯を話してくれた。
「なるほど……なんかみんなに悪いことしたかな……」
だが、「一応それなりに本気で」というアリスの要望もある。
トウカがやる気になったことは長の言に対しては忠実だ。
やる気の方向性に間違いもないが、仲間たちがばったばったと薙ぎ倒されていく様を見ると、
「うん……やっぱり悪いことしたかなぁ……」
ついそんな言葉がもれてしまう。
見れば、トウカの一撃に対応する者もちらほらとはいる。
だが、たとえ一撃に対応したところでトウカはまるで隙を見せることがない。
防がれたのならもう一撃。そんな挙動ですぐさま刀を切り返し、逆横に振り抜く。
時には片手持ちから逆の手で掌打を放ったりと連続攻撃にも余念がない。
「クシナが常時加速型だとすると、トウカは瞬間加速型だねぇ」
サレが総評を出す。
相対者に近づくまでは間合いを測るような、どちらかと言えばゆっくりとした浮遊感のある動きだが、己の間合いを掴んだ瞬間に突如として加速する。
間合いを保つ時の動きがゆったりとしている分、急激な加速による速度の上昇が著しい。相対者にとっては周りから見る以上の速度に感じられているかもしれない。
複数戦における位置取りの絶妙さもさることながら、急所を確実に打ち抜く技量、攻撃をかわす技量、いなす技量も見事だ。
それらを見てサレが抱く思いは、
「体術だけで相手するとなると、なかなか苦労するかもなぁ」
率直な感想だった。
「サレ、トウカを見るのもいいが、まずは私だぞ」
すると、シオニーがサレの顔を両手でがっちりと挟みこんで、「こちらを見ろ」と言わんばかりに自分の側に回転させた。
サレは彼女がムッとした表情で頬を膨らませているのを見て、
「ああ、忘れてないよ」
笑みで言っておいた。
――これがラブ的なワンシーンなら最高だったな! でも会話の内容は『まず私がお前を殺るんだからねっ!』だからな!
――……なんともやりきれぬ思いである。
内心で付け加え、サレは再び身に緊張状態を敷いた。