24話 「碧水の湖上都市」【前編】
黒の色が空へと昇る。
漂う雲を派手に割り、視界の奥へと一心不乱に飛んでいく黒色だ。
かえって嫌気がさすほどに澄みきった空色を背景に、ぐんぐんと伸びていく黒い色は、しばらく空を昇り続けたあと、ついにその場に滞空した。
すると今度は周囲の景色を眺めるように、ぐるりと転回を始める。
そんな絵を地上から見ていた一人から、声があがる。
「いやぁ……すごいね、竜族って。三日まともに飯食ってないのにあんなに動き回れるんだね……」
「言わなくてもわかることをいちいち口に出さないでください、サレさん。受け答えに使う体力の貴重性に気付いていないあなたではないでしょう。――ええ、まあ、はっきり申し上げますと――」
「あっ、やめてっ、心に傷が出来ちゃうっ」
「――現状においてはプルミエールさんレベルで面倒なので話しかけないでください」
〈凱旋する愚者〉の面々は、結成以来初の危機に陥っている最中だった。
食糧的な意味で。
◆◆◆
イルドゥーエ皇国領を抜けて一月が経っていた。
目的地であるテフラ王国へ真っ直ぐに進行する日々が続き、続き――ひたすらに続き、そしてある日、
「ヤ、ヤバいのである……! 食糧が切れ掛けである……!!」
ギリウスが言った。
◆◆◆
その時の異族たちの各々に絶望を表現した表情や悪態は、きっと忘れないだろう。
そうサレは思いを馳せる。
「あー……腹減ったなぁ……甘い物が食べたい……苦いのはもう嫌だ……甘い物が……ああでも食えるならなんでもいいかなぁ……」
「サレさんは甘い物が本当に好きですね」
「代わりに苦い物が嫌いだけどね……ああ……途中で調達した食べ物が苦い葉っぱとか木の実ばっかりだったから……余計に甘い物が……果物をくれぇ……」
獣人系を含み狩猟関係に優れた者が多いこの異族集団は、食糧破綻がせまった当初、食糧調達を実地で行うことにした。
ちょうどその頃に通過していた山岳地域で、手分けして狩りや植物の採集に勤しみ、ある程度の蓄えを得ることができた。
だから、その時は大した危機とは感じていなかった。
――問題は、
「あんなところで戦争区域に出くわすとは思わなかったのう……」
トウカのつぶやく言葉が答えだった。
〈凱旋する愚者〉はテフラ王国への道中で、荒れ果てた戦争区域に出くわしてしまったのだ。
サレたちがその戦域に侵入した時にはおおよその決着はついていて、多量の武器と死体と、あとはそれらの残り物を狩る賊が残っていた。
遠目でしか見えなかったが、死体の中に異族系の姿があったのをサレたちは確認した。
ゆえに〈異族討伐計画〉の影響を真っ先に考えたが、かといって確信も得られなかった。
不必要に近づいてその場を蔓延っていた賊といざこざを得るのも嫌であったし、なにより特に非戦組の精神状態を危惧した。
血の匂い。死の匂い。腐臭。
旅路の影響もあって、彼らの身体にこれ以上の負担を掛けたくなかった。
そうして周囲に一層の警戒を張りながら、その場を迂回するように進んだ。
幾らか進んで、異変に気付いた。
戦域周辺であるためか、周辺から動植物が消えていたのだ。
長期戦の一戦術として、兵糧の奪いをしたのか。
消耗戦の結果か。
危険を察知した動物たちが勝手に逃げたか。
可能性はいくつかあったが、その場に採取できる食糧が少ないのはどうしようもない事実で。
結果的に食糧の現地調達に支障が出たのがその時だった。
連日の旅程によって疲労は溜まっていく一方で、戦争区域での精神的疲労も重なり、結果、狩猟の効率も下がりに下がった。
なんとか首の皮一枚のところで節制を重ねたが、
「イルドゥーエを出発してかれこれ一月か……」
「飯を断って三日じゃな……」
「高貴な餓死まで残り一日ってとこかしら……」
「不穏なカウントだな、おい……」
そろそろ愚者たちに限界が近づいてきていた。
◆◆◆
空を廻っている黒色はギリウスの鱗の色だった。
ずば抜けた生態能力を誇って、いまだに体力を残していたギリウスが、率先して周辺の偵察と散策にでていたのだ。
最初はその背に皆を乗せて空を移動してしまおうという案もあがったが、つい先日に戦域をかすめたことを考慮すると、やはり目立つ竜体で空を飛ぶのは憚られた。
そんなギリウスの小さくなった姿をなんともなく見ていたギルド員たちから、ぽつりぽつりと声があがる。
「ねえ、私、死ぬの? ねえ、死ぬの? ――どうせ死ぬなら高貴に逝きたいわ。ええ――高貴な餓死……高貴餓死……あら、なんかお菓子みたいでおいしそうね……」
――奇人がいつも以上に危険な奇人になっている。
サレは後方から力なく耳に入ってくるプルミエールの声に、そんな反応を胸中で示した。
「超餓死とかいいと思うよ!」
「なんだそれは。一体どういう餓死だ……」
相変わらず溌剌として走り回るのはイリアだった。
その隣ではマコトがぐったりとしながらなんとか反応を返している。
この一月でサレには気付いたことが多くあったが、そのうちの一つがこの銀緑の長髪を振りまわすイリアについてだった。
「イリアって飯を食わなくても問題ないんだね……」
「イリアは精霊寄りの〈精霊族〉ですからね。空間に点在する精霊を適宜身体に補完させるだけで生きていけます」
「なにそれすごい便利。――そういうマリアはどうなの? 同じ精霊族だけど」
サレの問いに答えていたのは、そのわずか左後ろを姿勢を正して歩いているマリアだ。
「私は純人寄りの精霊族で実体の要素が強いので、人並みとは言いませんが多少は外部から食糧を補充しないと生きていけませんね」
周辺を走り回るイリアを眺めながら、サレはマリアの言葉を聞いて、
――同じ種族でもいろいろだなぁ。
と、改めて思った。
そんな感じで逡巡している最中にも、サレの後方からは生きた屍のような生気の薄い声が点々と聞こえてくる。
それらの声を聞いて後方にちらりと視線を運ばせると、
「有翼系が一番つらそうだな……」
ついついそんな言葉が漏れた。
有翼種族は翼を動かすために常人以上のエネルギーを消費するらしい。
ゆえに健啖家が多い、とはプルミエールの談だ。
いわく、『高貴かつ美味は正義よ!! ついでにいっぱいとかおっきいとかそういうのも結構正義よ!! だからマコトのまな板は愚かだわ!!』とわけのわからないことを言っていた。
ともあれ、ゆえに、そんな有翼系が食糧難にいたって最も早く衰弱していった。
奇人系天使族のプルミエールもその例にもれず、最近ではシオニーやクシナのことを見てよだれを垂らしている姿が目撃されている。
「ねえ、狼肉っておいしいの? ――虎肉も気になるわ、私」
「よだれを垂らしてこっちを見るな、プルミ」
「俺はお前が鶏肉に見えてしかたがないんだが……」
答えるクシナも大概であった。
獣人系異族も、飢餓に際して獣部分の本能が表に出てくる者が多く、普段は冗談っぽく言っている「お前うまそうだな、ちょっとちぎって分けてくれよ」という言葉にも、発言する時にどうしても顔が真顔になってしまうという弊害が起こっていた。
かくいうサレ自身も最近では「ちょっとくらい食べてもすぐ再生するでしょ? だから……いいよね?」という危険思考の餌食になりかけているため、他人ごとではなかった。
そうなると現状で無事と言えるのは精霊族のイリアと、竜族のギリウスくらいで、
「竜族は生態的に高スペックだから羨ましい……」
そんな言葉をサレは空の黒色へと投げかけていた。
◆◆◆
――うーむ、そろそろ限界であるかなぁ。
ギリウスは高空を遊泳しながらそんなことを思っていた。
自分は身体の中に長期で栄養素をため込める器官を持っているため、まだ体力は残っている。
有翼系だが、それ以前に自分は竜族だ。
我ながら便利だとは思うが、
――他の者はそうもいかぬであるか。
種族の差異をこうもわかりやすく目の前に提示されると、すこし不思議な気分になる。
異族討伐計画によって同種が絶滅しかける前にはいたらなかった感覚だ。
竜族は観察者的側面を自負していたから率先して下界の異族と関わることもあまりなかったし、関わってもそれが長期になることはなかった。
他種族と近しい関係になることすらギリウスには初めての経験だったのだ。
慣れない関係性に戸惑いはあるが、今のところ支障なくやっていけているのではないだろうかとも思う。
これまでに築いてきた価値観をもとにしても、あきらかに奇人変人が多いことには気づいているが、それも強烈な個性であると考えれば面白いものだ。
――い、今のところはであるが……
やや奇人変人の枠から突き抜けそうな者もいるが、基本的に付き合っていて楽しい。
自分が現状にいたった経緯を思い出すと、まだ胸の端の方に痛みを覚える。
それでも、今の自分の心の大部分を埋めている奇妙な楽しさも認識していた。
――独りにならなければ、彼らと出会うこともなかったのであるかなぁ。
そう思った。
ちょうどギリウスがそんな逡巡を経ていたとき、不意に彼の目がはるか彼方に『目的地』を見つける。
まるで雲のように空高くに浮く『地盤の固まり』が、ギリウスの視界の奥に映ったのだ。
◆◆◆
「見つけたであるぞ!!」
そんな言葉と共に黒竜が空から急降下してくるのを、異族の面々は半ば呆然として眺めていた。
身体の内から巻きおこってくるのは歓喜と、歓喜が振り切れたがゆえの浮遊感と虚脱感だ。
「――や、やっとか……」
サレも同様の気持ちを胸に浮かべながら、疲れきった微笑を浮かべてそう言っていた。
隣を歩いていたアリスも同じような顔で、
「いやはや、死なずに済みそうでなによりです」
ホっと一息ついたあとでそんな言葉を舌に乗せていた。
―――
――
―
◆◆◆
テフラ王国王都、その片割れ――〈湖上都市ナイアス〉。
純人族異族を問わず、人口の最密集地帯である中央大陸の中でも、さらに上位に食い込む大国〈テフラ王国〉の王都。
透き通った翡翠色の巨大湖――〈アレトゥーサ湖〉の上に浮かぶ湖上都市。
その密接な関係性を語意に表すために、〈ナイアス・アレトゥーサ〉と列記される場合もあるという。
その湖上都市の西南側の国門に、周辺に映るどの旅人よりも異質で、かつ派手な一団の姿があった。
〈凱旋する愚者〉の面々だ。
◆◆◆
――なるほど、多種族が集まるから、いろんな特産品とか交易品とかの流通が盛んなのか。
自分たち以外の旅人の多くが荷馬車を牽いていたり、大きな背荷物を背負っていたりするのはそのせいか、とサレは内心で納得のうなずきを作っていた。
見れば見るほどに、サレの中に疑問が生まれていく。
イルドゥーエの外の世界を知らなかったがゆえの疑問だ。
関心と感心。
そして好奇心。
あっちもこっちもを見ながら、サレはワクワクと胸を高鳴らせた。
空腹を主張していた腹の虫もいつのまにか引っ込んでしまう。
「おお……すげぇ……」
荷車を牽いているのは馬に限らず、巨大な犬系統の動物であったり、童話でしか見たことのないような巨大な翼の生えた馬であったり、鷲頭の獅子であったり。
見たこともない希少種も多く見られ、また――その荷の持ち主も多彩な容貌を持っていた。
――異族。
純人系、獣人系、有翼系が特に多いが、爬虫類系や霊体系の種族もちらほらと視界に映った。
区分けの難しそうな種族もいるが、その辺は後々調べることにしよう。
サレは活気立つ好奇心をなんとか押さえこむ。
イルドゥーエ皇国から飛び出して、本当に今、違う国へ来たのだと――ようやくサレは強い自覚を得ていた。
この景色を見て初めて、世界の広がりを感じたのだ。
「行きますよ、サレさん」
「あ……う、うん」
「一応忠告しておきますが、呆けて迷子にならないようご注意ください。こんなに大きな迷子をさがすのも馬鹿馬鹿しいので」
この人の数ではアリスの言もあながち冗談に思えない。
国門ということもあるのだろうが、三歩歩けば誰かしらには当たる。そんな近い位置を無数の人々が通過しているのだ。
ときに柑橘類の匂いを漂わせ、ときに香ばしい香料の香りを漂わせ、いろいろな匂いや色をその身に、人々が闊歩している。
「特に大きな荷もありませんし、来る者は拒まずの理念によって入都に際しては身分証も必要ないので、適当に挨拶でもしながら通過しましょう」
目が見えていないというのに、その人の波を器用に避けながら前を歩くアリスが言った。
アリスが言うと、アリスの前に防壁のように立っていたギリウスがうなずきを見せ、ゆっくりと前への歩を進めはじめる。
体の大きなギリウスが先頭を歩くことで、その後ろを歩く他のギルド員の面々には多少の余裕が生まれた。
また、万一という場合を考えて、いまだに体力が残っているギリウスが『盾』の役割を担っていた。
そんなギリウスがふと前方に何かを見つけて、少し顔を振り向かせて言う。
「――徴税官がおるのであるな。目をつけられると持ち物に税を課されるかもしれないのである」
「入国自由のくせにへんなところで真面目だな」
「これだけ行商が出入りする街ならば、関税は国庫を潤すもっとも手早い方法であろうからな」
それでも、
「そこまで入念に取り調べているわけではなさそうである。うまいこと目立たずにいければ問題なさそうであるが……」
そういって、ギリウスがサレのマントの内側に半分ほど隠れている〈イルドゥーエ皇剣〉の鞘を見つめた。
「……サレの持つ皇剣は希少鉱石である〈永晶石〉が鍛冶師発狂レベルで使われておるからなぁ……見つかるとまずいかもしれぬのであるなぁ……叩き割ってバラバラにして後で復元、とかできないであるか?」
「できるかよっ!!」
ギリウスが竜顔に悲哀を浮かばせて「ううむ……」とうめき声をあげた。
するとそこへ、集団の後方からクシナがやってきて、
「お前、竜族だろ、なんとかしろよ。――わかってるだろうけど、俺たち碌に金持ってねえからな」
腕を組みながら気だるげに言った。
「む、むちゃくちゃ言うのであるな……」
困り顔の竜族は皆の見慣れたところだ。
だが、その竜族に対してアリスが、
「ギリウスさん、アレです、アレ。――いざという時は〈竜圧〉でも使ってなんとかしてください。こういうのはビビらせたら勝ちです、ええ――たぶん。こう、しゅしゅっ、って感じで」
人を殴る仕草を見せながら言った。
それを見たギリウスはさらに竜顔を困惑に彩らせて、
「お、おかしいのであるよ? その動きは確実に圧力どころか物理的にダメージ入れたあとであるよ? 国門で大乱闘は我輩も勘弁したいところである……」
「そこをなんとか、部分的な竜圧とか、ジャブみたいな竜圧で――そう、略してジャブ竜で! 乗り越えてみよう!!」
サレもアリスの調子に合わせて一応無理を言っておく。
ギリウスに無理を言うのはいまやギルド内の形式みたいなものだ。
――大丈夫、きっとギリウスならやってくれる!!
まったく根拠のない自信を持たれるのも当の本人からすれば傍迷惑なのだろうが――
「い、一体皆の衆は我輩をなんだと思っているのであるかなぁ……」
「でかい盾?」
「無駄に品質の良い生贄?」
「すごく便利なパシり?」
「空飛ぶ乗り物?」
「……そろそろ本当に泣いてもいいであるか」
凱旋する愚者のギルド員たちから瞬く間に数語があがり、ギリウスは自らで墓穴を掘ったことを後悔しつつ、目に少し涙を浮かべながらゆっくりと前進していった。




