214話 「人歌:神歌断章」
「バカな――」
「真実だ」
「しかしジュリアスにそんなそぶりは――」
「ほかの神族すら気づいていないのだぞ。アレにも自覚はあるまい。そういうふうに巧妙に隠されていた。もはやわたしには判断がつかんが、あるいは純人の性質を多く含んでいるタイプの半神なのかもしれん。……まあ、そう考えると神族すら気づいていないのにお前らに気づけというのも酷な話か」
王族たちはまだほとんどの思考が止まったままだった。
衝撃から立ち上がれない。
立っていた地面が根底から崩れてしまいそうな、いやな地鳴りを聴いた。
「だが、確実にアレは親たる神の性質を引き継いでいる。でなければあそこまで神に好かれた理由が説明できん。三貴神すらもそれに気づかせないとなると、ある意味魔性のごとき性質だがな」
「父上は……三貴神についても……」
「当然知っている。わたしが交わった女神は、その三貴神に非常に近しい存在だった。特に――最高神マキシアと」
どうにか応答をしていたカイムは、その名を聞いてまた衝撃を受けた。
最高神マキシア。
一生忘れることなどないと自信をもっていえる名前。
おそらく、アテム王国の裏についている世界でもっとも傲慢な神。
今自分たちに提示されている大きな問題の元凶となる存在である。
「父上は、その女神の正体を知っているのですか?」
「すべては知らぬ。ただ、その目的と立ち位置はよく知っている。――いや、知らされた」
アルギュールはややバツの悪そうにして言った。
対し、カイムの中では単純な知識欲が雄叫びをあげようと口を開けていた。
テフラ王族としてだけではなく、神族の頂点に位置する三人の神に関わる女神について、単純な好奇心さえあった。
「お教えいただけますか?」
「……いいだろう。ただ、嘆くなよ。自分たちの行動が自分の意志にのみ準拠しているなどと考えていると、痛い目を見るからな」
アルギュールは神妙な面持ちでいう。
そのころにようやく、王族たちはアルギュールの言う『大きなもの』に気づきはじめた。
三貴神という名前が再び出てきたことで、徐々に話の規模の大きさがうかがえてきたのだ。
また彼らか、と思う一方で、自分たちがその存在に気づく前からそんな彼らと関わっていた可能性があると気づくと、どうにも身構えずにいられなかった。
そんな王族たちをおいて、アルギュールはベッドの横の机においてあった水瓶を取り、軽く口を潤した。
かたん、と小さな音を立てて瓶がおかれ、再びアルギュールに視線が集まる。
「――妻だ」
アルギュールが端的に言った。
単語だった。
しかし、不明瞭だ。
妻という意味はわかる。その女神はアルギュールにとってたしかに妻だろう。
しかし、わざわざそんなわかりきったことをいまさらアルギュールが言うだろうか。
王族たちは首をかしげそうになったが、その前にアルギュールの続く言葉が来た。
「――〈最高神マキシア〉のな」
王族たちの頭の中で、いくつかの価値観という名の瓶が、音を立てて割れた。
◆◆◆
「マキシアの……妻?」
「そうだ」
カイムの声に、アルギュールがうなずいた。
「い、いや……しかし……」
そんなことが、と、とりとめのない言葉を吐きそうになって、しかしカイムはすぐに口をつぐんだ。
よくよく考えれば、まったくありえない話ではないのだ。
神族たちが思った以上に純人族や異族に近しいものであることは、ここ数カ月で強く感じた。
神族はもっと高次元の存在――いわば生き物を超越した何か――という思いがそれまであったが、実際のところ決してそんなことはなかった。
事実、神は死んだ。
サレ・サンクトゥス・サターナが狂神アーテーを殺したところをカイムはしかと覚えている。
彼らは、時代の最初の段階で世界そのものに対する高い融和性があったから、『神格』という集約と分配の能力を使うことで世界の統制者的な役割を負っただけだ。
もとは同じ次元の存在である。
だがそれでも、三貴神だけはまだどこか近寄りがたかった。
最高神マキシアや創造神カムシーンにいたっては姿すら見たことがない。
王神ユウエルも明らかにほかとは一線を画す存在感を放っている。
だから、ここで三貴神のうちの一人――最高神マキシアの『妻』といわれると、これまで抱いてきた三貴神に対する印象とのズレが浮かび上がって、どこか定まらない気持ちにさせられる。
「妻……ですか」
「そうだ」
「その……神族にもそういう慣習が?」
「あまりそういう形態を取る者はいないだろうな。だが最高神マキシアは特別だ」
「というと?」
もはやカイムはアルギュールから話を引きだすことに終始するしかなかった。
こちらから意見を述べるなんてことは当分できそうにない。
「マキシアが司っている神格の役割を忘れたか」
アルギュールはそこまで知っている。
やはりこの初老の王は、かなり世界と神族に関して造詣が深いらしい。
なぜ今まで言わなかったのかと思わず言ってしまいそうでもあったが、そこにアルギュールの『何かに対する怯え』が関係しているのだとカイムは直感的に察した。
「――【集約】、ですか」
「そう、【集約】。それをもっとも上位で司る者が最高神マキシアだ。――これでなにかに気づかんか」
「いえ……」
アルギュールはカイムの返答に小さく息を吐いた。
決して落胆しているというわけではないが、それでも少し疲れているような仕草だった。
「マキシアはあらゆるものに【集約】の手を伸ばせる。時代の当初、まだ神があまり分化していなかったころは、マキシアみずから多くの事象の【集約】を請け負っていた。だが、下界の純人族と異族が発達していくほど、事象の分化が激しくなり、マキシア一人では手に負えなくなった。だから事象ごとに集約を切り離し、それぞれを末端の神族に請け負わせることにした。つまるところ今の状態がその結果だ」
カイムはうなずきを返す。
ほかの王族もそのころにはずいぶんと思考の安定を取り戻し、徐々に理性の灯った瞳をアルギュールへと向けるようになっていた。
「徐々に荷が軽くなっていったマキシアだが、しかしまだ独自に集約は行っていた。純人族と異族の発達に際して、世界を統括する最高神としてどうしても知っておかねばならない事項があった。やたらに難解で、やたらに複雑で、到底理解しがたいような事項だ。その事項の集約はほかの神には重かった。だから、マキシアが長い間請け負い続けた」
それが何であるか、王族たちには想像がつかない。
最高神ですらそこまで重荷と感じるような事象が、はたしてあるのだろうか。
しばらくの間考えにふける時間があった。
アルギュールがあえて考える時間を王族たちに与えたようだった。
しかし、王族たちから答えは出てこない。
すると、ついにアルギュールが答えた。
それは意外なほど短い、そして一方で妙に納得させられる――『答え』だった。
◆◆◆
「――純人族と異族の心だ」
◆◆◆
王族たちは全員ハっとしたように目を見開いた。
「神族は純人族と異族に比べて極端に間違いが少ない。あまり惑わない。言い方を変えれば、冷徹なまでに合理的だった。だからすぐに発達した」
一般的には、そうやって彼らが文明を一気に発達させたために純人族と異族がそれについていけなくなったと言われている。
二種族をおいて発展した文明に、かえって二種族の方が使われて滅びる可能性すらあったからだ。
だから神族はそれ以上世界を急速に発展させないために、神界にこもったと言われていた。
そう考えると、いまさらではあるが、神族はたしかに純人族と異族のことを深く慈しんでいたのかもしれない。
でなければ、二種族のことを思って自分たちから窮屈な異界にこもったりはしなかっただろう。
「対し、純人族と異族はやたらと惑った。迷い、失敗し、何度もくじけながら徐々に前へと進んできた。そこに神族ほどの速さはなかった。それどころか、純人族と異族は途中から足を引っ張り合い『後退』することすらあった」
種族間の亀裂。
今のアテム王国を見ているとよくわかることである。
『異族討伐計画』などというものがこの時代に生まれたことからも、そういう文化の存在は予想に難くない。
たまたまわかりやすくそういうものが顕在化した結果が『異族討伐計画』であって、種族間の争いなど今にはじまったことではないというのも周知の事実であった。
「それが神族には理解できなかった。だからマキシアはそういう部分も含め、二種族の心を集約し続けた」
仮に純人族と異族の相反する心の作用を一身に集約できたなら、その者はいったいどんな思いを得るのだろうか。
「――それがマキシアを狂わせるきっかけになった」
王族たちが心の底で思い浮かべていた危惧が、アルギュールの言葉面に現れた。
「冷たい合理性をともなう神族としての性は、すでにマキシアから失われかけていた。マキシアはある意味誰よりも人間的になった。――いや、人間と包括すると誤解もあるか。まあ、純人的であったし、異族的でもあった、としておこう」
その点が言葉で説明しづらいことは王族たちも分かっている。だからひとまずその言で納得し、また耳を傾けた。
「最終的に、マキシアの中でもとの神族としての性質と、やたらと惑う下界の民たちの性質がせめぎ合った。全事象の集約を司る最高神として、本質的に『孤高』でなくてはならなかったマキシアは、ある意味冷たい合理性だけをもった人格であればよかった。――そこで迷いや惑いを感じてみろ。……すぐに壊れるのは目に見えている」
アルギュールは首を横に振ってやれやれと肩をすくめた。
「ほかの三貴神もマキシアに負けず劣らず世界という次元で孤高に近かったが、マキシアほど面倒な状態ではなかった。
【分配】を司る者として下界の民と関わり合うユウエルは、その役割ゆえに孤高ではなかった。力を分配することで下界の民に感謝され崇敬されるからだ。
【調整】を司る者として存在したカムシーンは、冷徹な合理性をそのままに真理と触れ合うことを楽しんだ。人の心などという危ういものを集約する必要のなかったカムシーンは、そういう孤高に耐えられた。
だがマキシアはかなり危うかった。もともと集約という、見方を変えれば民から力を『取り上げる』ような役割を担っていたマキシアは、そういう側面から最高神を捉える者たちから大いに嫌われた。また、人に近くなったせいで、孤高に耐えられなくなっていった。神族の孤高は人のそれとは比較にならんだろう」
アルギュールは神妙な面持ちで続けた。
「――神族には『世界という拠りどころ』がないのだ。わたしたちが自然に信仰を重ねたり、新たな神に信仰をおいたりするのとは別で、特に最高神であるマキシアには上次元の拠りどころがなかった。希望のない地獄とは、まさにそのマキシアの立ち位置のことをいう。まあ……同情はせんがな。みずからが撒いた種だ」
アルギュールは力強く言う。
また王族たちも、だからといってマキシアに対する印象が変わることはなかった。
どんな理由があったとて、マキシアが今の世に起こしている騒乱を許すことはできない。
狂ったからやっていい、ではないのだ。
おそらくそのあたりに誰よりも強い思いを抱いていたのは、サフィリスだったろう。
「そんなマキシアにとって唯一の拠りどころだったのが――〈愛神〉という名の女神だった」
「〈愛神〉――」
「マキシアによく似たものの集約を担っていた女神だ」
遠回しに言うアルギュールの言葉の意味を、王族たちはすぐに理解した。
「どちらが先だったか。マキシアが自分の狂気に気づいて愛神を作ったのか、愛神が先に事象の自然集約で生まれてマキシアに寄り添ったのか。ともかく、マキシアの最後の拠りどころが愛神だった。
そして――」
紡ぐ。
「その愛神がジュリアスの母だ」
もはやそこまでの道のりの想像などできそうにもない。
一体なにがおこって、その愛神がジュリアスの母になったのか。
ただ、今のこの状況を反芻すると、
「あまり……よくない結果になったようですね」
思わずカイムの口からそういう言葉が出てしまうくらいには、不穏を感じさせる事実であった。
◆◆◆
「しかし、そこまでわかっていて、なぜそのことをもっと早くに話してくださらなかったのですか?」
カイムはその言葉を我慢していたが、さすがにここまで聞いてしまうと問わずにはいられなかった。
なぜ今なのかということに、なにか手がかりが欲しかった。
「……三貴神との関係性について、くわしいことを知ったのはわたしも最近だ。ジュリアスが半神であることや、母が愛神であること、その愛神がジュリアスを使ってなそうとしていることの大枠は知っていたが、その話に三貴神の物語がどういうふうに関わっているかを知ったのは最近なのだ。つまり、やつらの『理屈』を知ったのは先日だ」
もしかしたらそういう理屈を知ったから、アルギュールは自分たちにこの話をしようと思ったのかもしれない。
聞けば愛神によってテフラが大きな戦火に巻き込まれることを吹聴されていたらしいし、本当にそのせいかどうかはわからないが、実際にキアル第一王子が死んでいる。
「まさか」と疑う一方で、「もしかしたら」と思ってしまうほど抽象的で得体のしれない力を感じれば、当然恐怖を覚えるかもしれない。
自分がそれに関することを誰かに吹聴したら、またキアルのように誰かが死ぬ可能性もある。
しかし、ようやく今ごろになってそんなものに一応の理屈を見出したから、ここまで口に出しても大丈夫だろうとの判断がついた。
――……深読みのしすぎか。
カイムは考えすぎがちな自分の頭を叱咤した。
そんなもの、今はどうでもいい。
マキシアに対する思いと同じく、たとえどんな理由があったところで兄弟姉妹たちは父を許さないだろうし、カイムも同様だという自覚があった。
むしろ、それでもあなたは早くに言うべきだったと、同じ『王族』として思った。
「そんなもの、どこから情報を――」
思考を切り替え、単純な疑問をカイムは口に浮かべた。
そもそもそこまで世界の根幹に関わる物事を、一体誰が教えられようか。
三貴神であるユウエルでさえ――実際はどうかまだわからないが――知らなかった水底の物語だ。
カイムはそれがいったいどこから漏れて来たのかが気になった。
アルギュールがカイムの問いに、一息ののち答えた。
「『愛神』自身だ。何日か前――そうだ、おそらくジュリアスが王位につくことが決まったあたりに、わたしの部屋を愛神が訪れた」
「……」
いっそ戯神ロキの方がマシに思える神出鬼没さ。
まさしく、どこにでもいるのではないか。
あるいは、天からすべてを見通しているのではないか。
タイミング的にも嫌な現れ方だ。
「おそらく期が熟しはじめたので、愛神の方も自分の計画に必要な『因子たち』を本格的に誘導しているのだろう。みずからが思い描いた壮大な計画図を、寸分たがわず再現するために。――あのジュリアスの連帯ギルドのところへも、もしかしたら訪れているかもしれんな。あそこにいる『魔人』が、どうやらその計画のもう一つの中核となるらしい」
サレ・サンクトゥス・サターナ。
王子たちの頭の中に黒髪赤眼の魔人の姿がすぐさま浮かんだ。
あの〈凱旋する愚者〉というギルドの、いわば心臓である。
ギルドの頭は華奢な黒髪の少女――アリスだが、その身体を突き動かす原動力となっているのはあの魔人族だ。
「なんでも、異族でありながら神族の神格に対抗するらしいな。――本当にそんな化物がいるのか」
「います。この目で見ました。彼が神を殺す瞬間を」
「神を殺す?」
アルギュールが目を丸める。どうやらそのあたりのことはまだ知らないらしい。
対するカイムは別段に驚く様子もなく、淡々と事実であるとしてアルギュールに語った。
「サフィリスに憑いていた狂神アーテーを、その魔眼で殺しました」
「……異族か。やはりおそろしい存在だ。神族に力を借りねばまともに力を振るえん純人族と比べると、特に最近は差が著しく見えてくるな。術式が隆盛したせいか。……ともあれ、決して否定はせんが」
それはテフラ王としての最後の矜持だったのかもしれない。
アルギュールは異族に恐怖を抱けども、アテム王国のように否定はしなかった。
それがカイムたちにとって唯一の救いでもあった。
「どうせ捕まりはしないだろうが、不安ならばナイアスに人を遣れ。もしかしたら愛神の姿くらいは見られるかもしれん。十中八九、撒かれるとは思うが」
「では、少しばかり休憩を。その間に人を遣わせましょう」
「ああ、そうしろ。わたしも長くしゃべって疲れた。好きに席を外せ」
「はっ」
そういって王子王女たちは一旦席を立った。
アルギュールは押し寄せた疲れに倒されるままに、どっとベッドに倒れこむ。
そうしてまたぼんやりと外の景色を眺めはじめていた。
今日は空の色が薄い。
どことない不穏を感じさせる、白霧混じりの空。
その空の下に空都と並んで等しく存在する湖都ナイアスでは、アルギュールの言葉が現実になっていた。




