212話 「人歌:対岸の王」
空都アリエル、テフラ王城高層。
巨大の一言につきるテフラ王城の一角に、はぐれ雲のように王城の本塔から隔離された小部屋があった。
本塔から伸びた空中廊下を通って、ようやくたどりつくことができる特別な場所である。
その日、その小部屋へ続く空中廊下の上を、錚々たる面々が整然として歩いていた。
第七王子ジュリアス・ジャスティア・テフラをのぞく、全王族である。
第二王子カイムを先頭に、年の順に並んでの闊歩。
最後尾にはエスター・ラール・テフラ第六王子がついて、空中廊下に入り込んでくる空の風に金糸の髪を揺らしている。
言葉数は少なかった。
というより、ほぼなかった。
ただならぬ事態にあるという自覚が、彼らの唇に重い封をさせていた。
「では、わたくしどもはここまでで」
「ああ、ご苦労だったね」
「王陛下は大変衰弱なされております。くれぐれも、そのあたりを御考慮くださいますよう」
カイムの前を歩いていた老執事が、空中廊下の出口で頭を下げていた。
その老執事が長いことテフラ現王に仕えていた執事であることを王族たちも知っていた。
老執事の言葉は、王族に対する指図の色がやや含まれていて、場合によって不敬にさえ当たる言い草であったが、カイムはそれを責めたりはしなかった。
この老執事がそれをわかっていないわけがない。
わかっていてなお、そう言わざるを得ないほど、テフラ現王――つまり父が弱っているのだ。
カイムはそう受け取った。
だから、かえって老執事の勇気をたたえてやりたくなった。
「大丈夫だよ。別に殴り合いをしようというわけではないからね。口の方も、私が責任を持って統制しよう」
カイムは安心させるように老執事にいって、ついに前への一歩を踏んだ。
空中廊下の出口扉を開け、隔離された小部屋へ通ずる広間に出る。
その奥にもう一つ小さな扉があった。
テフラ現王の自室である。
胆となるのが、執務室ではないということだ。
そこは王としての権威を象徴しない、ただの部屋。
王の容体を考えれば、『病室』とも言える部屋だった。
「行こうか」
カイムは後ろを振り返った。
近頃では見慣れた弟と妹たちの顔がある。
自分のすぐ後ろにはセシリアの姿があって、彼女の顔は少し強張っていた。
ほかの王子王女たちの顔も、似たようなものだった。
――キアル兄さんのようにはいかないが、私は年長者として務めを果たそう。
そんな弟妹たちの顔を見たカイムは、一人内心に決心していた。
そして、
「――失礼いたします」
ついに、カイムが目の前の扉を数度ノックした。
すると中から扉が開いて、真っ先に太陽の光が差し込んできた。
扉を開けたのは二人の世話役の侍女だった。
光を遮るように近場に目をやってその侍女たちに気づいたあと、目が光に慣れてきて部屋の中にまで視線が及ぶ。
「――」
そしてカイムは見た。
大きな白のベッドに仰向けに寝転がり、自分と同じ金色の髪を日光に照らしている――
父の姿を。
◆◆◆
一瞬足が止まった。
ごくりと期せずして生唾が喉の奥へと流れていき、目は大きく瞬きをした。
「――来たか」
現テフラ王――〈アルギュール・ウール・テフラ〉が、少ししわがれた声でそう紡いだ。
アテム王国と正反対でありつつも、同じほどの歴史を経てきた『永遠のテフラ』の現王。
いわば、今の世界的に見れば、派手に動き回りつつあるアテムの王と同じくらい注目されうる王である。
当初はそういうわけでもなかった。
だが、いつのまにかアテムの躍動に重なる形で、テフラ王族も世界の表舞台に引きずり出されたのだ。
アテムが躍動すればするほど、その正反対の理念をかかげるテフラ王国は、対アテム勢の注目の的となる。
そういう意味で、周りから見れば、ずいぶんと王族らしくなったはずだった。
だが、彼そのものは決して変わりはしなかった。
むしろ、周りの期待のすべてを振り払い、身を隠した。
アテム王の躍動と、テフラ王の隠棲。
そのはじまりに重なったのは、〈キアル第一王子〉の暗殺。
今にして思えば、すべてはあそこから始まった。
「入れ」
テフラ王は入口で立ちすくんでいた自分の子女たちに、鋭い視線を飛ばした。
一見すると、すべてから隠れ住もうとしていた男の視線ではない、十分な威厳を宿した視線である。
「はい、父上」
カイムが率先して答えた。
カイムは、正直に言えば、父はもっと老衰し、疲れ切り、ともすれば死ぬ寸前なのではないかと思っていた。
実際、キアル王子の葬儀のときなど、この父はすぐにでも死にそうな顔をしていたというのに。
ずいぶんと顔を合わせていなかったうちに、なんらかの心境の変化でもあったのだろうか。
――いや。
カイムは三歩ほど前に歩み出で、すぐにその考えを否定した。
いつもどおりの平常心を取り戻し、改めて人間観察の目を向けてみれば、
――やはり、『芯』が無い。
身に迫るような迫力が、父にはなかった。
父としての威厳をたたえていたあの大きな背も、もはや影すらない。
自分が成長したからではなく、きっと、
――あなたが小さくなったのですね。
見た目はそれらしく振舞いつつも、父――アルギュール王には、もはや芯となる強さが抜け落ちているようだった。
「座れ」
アルギュールにうながされ、カイムはベッドの前にずらりと並べられた椅子の真ん中に座った。
ジュリアスがいれば、ジュリアスをこそ、その席へ座らせたかったが、今ジュリアスはここにいない。
天空神ディオーネの神格術式を多用した対価を、現在進行形で支払っているためだ。
今ジュリアスは部屋から出られない。
発狂するから目をすら開けるなと、ディオーネにきつく言われている状況だった。
またカイムは、最も父との相対を熱望していたであろうサフィリスに、とっさに一瞥を送っていた。
サフィリスは『あの一件』以来、自重するようにみずからに自室謹慎を課していたが、つい昨日外に出てきていた。
どうしてもやりたいことがあったらしい。
カイムはそのやりたいことを聞いて、サフィリスが決して部屋に閉じこもりながら怠けていたわけではないことを知った。
『私が壊したシルフィードを、まず修繕しようと思います』
彼女は言った。
目の光はたしかだった。
サフィリスは『アルミラージ』という柱を見つけたことで、同時に自分の意志をも強固なものにしていた。
欠けていたものが充足されてからのサフィリスは、ジュリアスと並んで才気煥発の気のあるその能力を、カムシーンの譲歩によって動きやすくなった自然系神族とともに王国のために活用しはじめた。
彼女自身は術式燃料を持たないため術式を使用できないが、あろうことか神族に対して術式の構成を提案するなどして、理論の方面から新しいシルフィードの形成を手助けしたのだ。
経緯はどうあれ、多数の神族と契約し、その神格術式に触れてきたことが、サフィリスのたぐいまれな才気と合わさってそういう結果を生んだ。
神族の側でもマキシアのせいで【集約】の神格作用がなくなり、新しいモノに対する対応力が落ちたことが、さらにサフィリスの能力を際立たせた。
また、自然系神族への対価も、サフィリス自身の望みがあって、彼女から支払われた。
そんな昨日今日の出来事で、さすがにカイムもサフィリスを心配した。
しかし、
「――」
カイムの一瞥に、サフィリスも視線を返していた。
彼女の方も心配されることを予想していたらしい。
そんなサフィリスの目の光は、父のそれとは違って太い芯がたしかに通っているように見えた。
もはや父性に飢えて脆さを呈した彼女の姿はどこにもない。
カイムは小さくうなずきを返し、再び意識を父の方へと向けようとした。
すると、
――なんだ。
カイムは得体のしれぬ違和感を感じた。
父に視線を戻す途中。
視線がなぞっていった椅子に、不可思議な点を見た。
最初は違和感という程度だったが、カイムはすぐにその理由に気づいた。
――椅子が……足りない。
正確には、『ジュリアスがいたとすれば』、一つ数が足りなくなる。
それを確認したとき、カイムはハっとした。
視線を即座にアルギュールに向ける。
アルギュールはその視線にわずかな一瞥で応えたが、カイムが目で言わんとしたことには答えなかった。
「……」
カイムは椅子に腰をかけつつ、やはりはっきりと言葉で訊ねようとしたが、その瞬間に今度はあの老執事の言葉が頭をよぎった。
たぶん、椅子が足りない理由が自分の予想通りであれば、自分は怒気を露見させてしまうだろう。
わかっていてなお、そうせざるを得なくなると確信していた。
そうなればアルギュールの身体にも障るかもしれない。
最終的にカイムは、最大級の理性でもって自分の口の動きを抑えた。
また、そんなカイムの心中を察してか、ほかの弟妹たちも言葉を発しなかった。
激情家の多い弟妹たちは、もしかしたら跳ねたように言葉を発するかと思ったが、そこはカイムと同じくどうにか理性で抑えたらしい。
彼らは彼らで、この闘争を経てずいぶんと大人になっていた。
「初めに訊く。――誰が勝った」
全員が椅子に座ると、満を持してアルギュールが訊ねた。
その瞬間、もはやカイムの疑念は疑いようもなく確定してしまっていた。
この男は、誰が勝ったかをすら知らず、椅子を一つ取り除いていた。
もしかしたら実は、今の王族の現状をそれぞれ知って、『ジュリアスが部屋から出られないことをも知っていて』、あえて椅子を一つ取り除いていたのではないか。
――否である。
そんな予想はもはや立たない。
王権闘争の結果も知らないのに、王族個別の事情など知るはずがない。
◆◆◆
――この男は、最初からジュリアスの分の椅子を用意しないつもりだったのだ。
◆◆◆
カイムは背に隠した片手で、思わず拳を作った。
ちらと左右を見ると、右に座ったセシリアと左に座ったレヴィも同じく、服の下で拳を握っているようだった。
拳自体をハッキリとは見なかったが、その腕がわなわなと震えていることはよく見えていた。
「ジュリアスが勝ちました」
「――そうか」
ほかに言葉はないのか。
――ないのだろう。
それも知っていた。
だからジュリアスの椅子を置かなかったのだ。
このアルギュールという男は、昔からジュリアスに対し、忌避とまではいかなくともどことなく避けるような仕草を見せていた。
それがここに来て露骨になってきている。
隠棲し、体裁を気にすることをやめたのだろうか。
――あなたはジュリアスの父であろうに。
父としての体裁は、隠棲したところで捨てていいものではない。
「『やはり』、アレが勝つか」
「やはり、とは?」
ふとカイムが頭の中でぐるぐると考えていると、アルギュールがベッドの上から窓の外を見やりながら、気になる単語を吐いた。
伸びきった金髪と金の髭を揺らし、アルギュールが顔を向けてくる。
「――『決まっていたのだ』、カイム。最初からこうなることが、決まっていたのだ」
アルギュールは目を見開いて、今までより少し強い声でそう紡いでいた。
一瞬、カイムはそのアルギュールの目の奥に、狂気じみたものを見た気がした。
「……くわしく、話をお聞かせいただけますか? 父上」
「ああ、当然だ。そのためにお前たちを呼んだのだ」
アルギュールは侍女の手を借りて、ゆっくりと上半身を起こした。
そうやって完全に上半身を立てたあと、枕を背もたれにしながら王族の方へとわずかに身を傾ける。
「教えてやる、カイム。お前らがいかに『おそろしいもの』に纏わりつかれているか、教えてやる」
アルギュールはなにかに怯えているようだった。
カイムはふと、友人のような母がかつて言った言葉を思い出していた。
◆◆◆
『あの人はね、怯えているのよ』
◆◆◆
それでも母は、その原因を知らなかった。
だが、今。
おそらく自分たちが、アルギュール王の――父の怯えの原因を知ろうとしている。
いつの間にかカイムはそのことに強い確信を抱いていた。