210話 「舞台を降りた、王の招集」
「兄上、ジュリアスは?」
「今朝の会談のあとに、天空神の対価の支払いに入ったよ」
「ついに、か……」
テフラ王城上階。
王族の部屋が存在する特等階層の廊下で、第三王子レヴィ・シストア・テフラと、第六王子エスター・ラール・テフラが鉢合わせていた。
ともに朝方からウルズ王レオーネとの同盟締結会談にのぞみ、顔を合わせたばかりではあったが、エスターの方に気がかりなことがあって、レヴィに訊ねていた。
「どれくらい掛かるだろうか。あまり長く離脱されるのも困りものだが」
「そうだねぇ。いまやジュリアスは王だからね」
「まだ正式には戴冠していませんし、ジュリアス自身、王としてはいたらぬ点が多い。王だ王だと囃し立てられて鼻を高くするようなやつではないと思いますが、だからといって甘やかすわけにもいきません」
「エスターは本当に真面目だなぁ。僕なんかほら、もうジュリアスが王になったし、政務とかそういうのは全部丸投げしたい気分だよ」
「レヴィ様、サボりはいけませんよ?」
「ひゃあっ!?」
ぬ、っという擬態音をともなって、長い廊下の向こう側から一人のメイド姿の女が姿を現していた。
廊下の曲がり角からそう遠くないこともあり、声は意外とよく通った。
レヴィがびくんと肩を強張らせ、芯の抜けたような絶叫をあげるさまは、傍から見ていてもおかしくて、エスターはそのあまりに間抜けな驚き方に当の兄を前にして笑いそうになったが、どうにかこうにか「こほん」という咳払いを挟み、耐えきった。
「ぼ、僕にも自由をちょうだいよ! ティーナ!」
「自由? レヴィ様は現時点で自由ではないですか。ほら、誰にも縛られていません」
ティーナは廊下の角から半身だけを乗り出して、解放感を表現したジェスチャーを見せる。
廊下から顔と身体を半分だけ出しながら、片手をうねうねと漂わせる姿は、なんとも不気味であった。
「……」
もしかしたら壁に隠れているもう半分では、わざとらしい笑みを浮かべているのかもしれない。
もしそうならすさまじい器用さだが、一方でそれくらいやりかねない女だとレヴィは内心で思っていた。
「……物理的に、って言いたいんだよね?」
「はい」
「精神は?」
「……」
「なんで黙るのっ!?」
「じ、自由です」
「ああっ! それもう嘘と同義だよっ! 嘘ついてること隠そうとしてないもん!」
「わかっているのなら、ほら、まだまだレヴィ様にはやることがおありなのですから、昼下がりの一番暑い時間帯に入る前に、ナイアスの農場へ参りましょう。神族の方々も待っておいでですからね」
「なんか最近自然系神族の方も結構やる気だよね……」
エスターは笑いをこらえながらレヴィとティーナの話を聞いていたが、ふと気になるフレーズが言葉端に現れて、思わず口を挟んでいた。
「自然系神族が?」
「そうそう。本当に最近なんだけど、なんでも王神ユウエルとあの創造神カムシーンが話し合いをしたらしくて、そこでマキシアの暴挙に対してある程度の特別措置を取ることになったんだって」
「あのカムシーンが、ですか?」
「ジュリアスに聞いた話だけどね。
三貴神は、もともと勢力均衡的な、互いが互いを律する、みたいなバランスのとり方をしていたけど、今回マキシアが一気に力を高めたのを背景に、少しやり方を変えるらしい」
「ほう。なんだか神族は頭の固い者ばかりかと思っていましたが、ずいぶん柔軟になったものですね」
エスターは目を丸めながらも、少し皮肉っぽく言った。
「ちょっと難しい言い方をすると、今度は集団安全保障、って感じかな。――つまり、今まで系統別でバラバラなことが多かった神族間の結びつきを、新たに強固にさせて、その中で『違反者』が出た場合、その他全体でそれを律する、というやり方」
「国家的ですね。しかし実際のところ、神族を系統ごとの大きな枠で見れば、領土がないだけで国家に比する力はありますから、あえて国家と認識しても案外間違いではないかもしれません」
「うん。それで、最近神族が忙しい理由は、今まであまり互いに干渉してこなかったタイプの神族と顔合わせをしているかららしいんだ。これがまた、意見のすりあわせをともなうから、意外と難航しているらしくてね。その点はエスターの言うとおり、頭の固いというか、なんというか」
「それはある意味しかたないとも思いますけどね。神族はある事象、道理、文化の象徴です。そういう尖がった背景を持っているものだから、その凸凹を均すのに苦労がともなうのでしょう。
――それにしても、道理でロキの姿が見えないと思った」
エスターは、窓辺からの光に照らされてきらきらと光る金髪を掻き上げたあと、納得したと言わんばかりに頷いていた。
またその動作がため息をともなうさまを見て、レヴィも苦笑する。
「蠅みたいにうるさく視界を飛び回るロキが、近頃あまり姿を現さないのは、そういうわけですか」
「はは、彼は特に顔が広いから、そういう手腕を見込まれてユウエルに連れ回されているらしいよ。仲介役、ってところだろうか。――うわ、なんかそうやって真面目に誰かと誰かを取り持つロキとか、ものすごく似合わないな……」
「まったくです。ケラケラと笑って状況を引っ掻き回すさまは、本当に似合うのに。
――ともあれ、あの道化が泣いている姿が鮮明に脳裏に浮かびます。ロキは拘束を嫌いますし。かといって相手がユウエルでは逆らうに逆らえない。――いや、なにもなければ逆らったかもしれませんが、ヘルメスの仇のためには必要な我慢でもあると、本人なりに納得させているのかも」
「いずれにせよ、ロキの人を馬鹿にしたような笑みは当分見られそうにないかもね」
レヴィは苦笑のままにそう言って、また話題を戻した。
「――それで、僕の農場の手伝いをしてくれてる神族には、早めにカムシーンから能力の使用の許可が下りたらしい。対価はやっぱり必要だけど、今だけは特別、少し譲歩をしてもいいって」
「この世界はじまって以来の、カムシーンの『甘やかし』かもしれませんね。――それでも、カムシーン自身は手を下さないのだから、頑固というか、なんというか。偏屈な爺様に思えてきます」
「気持ちはわかるさ」
と、レヴィが肩をすくめながら、そろりそろりと歩を踏み始めていた。
そのつま先が向いている先は、ティーナがいない側の通路である。
そんなじりじりとした歩の進みに、
「――」
エスターは当然気づいていたし、さすがにティーナも気づいていただろう。
それでも悪あがきとばかりに、じり、じり、と、レヴィが額に汗を浮かべながら逃げようとしている。
顔にはわざとらしい笑みが乗っていたが、それでいて頬がヒクついているのも、エスターはしかと見定めていた。
そんな当のエスターは、
「……」
このままレヴィの悪あがきに付き合ってやろうか、やるまいか、内心で悩んだ。
エスターからすれば「どうにもならないので諦めてください」と嘆息を込めて諭してやりたいところでもあり、兄の必死の抵抗を応援してやりたい気分でもあったが、結局総括すると、テフラ王族として、
「レヴィ兄上」
「な、ななななんだい、エスター」
「……がんばりましょう」
「……」
そう応援するしかなかった。
レヴィの顔がしゅんと萎びて、子どもが泣きだす寸前のような、情けない顔に変貌する。
最後通牒を突きつけられ、ため息すら出ないようだった。
すると、
「はい、エスター殿下もこう仰っているようですし、参りましょうね?」
いつの間にか音もなくレヴィの背後に回り込んでいたメイド格好の死神が、レヴィの肩をとんとんと叩いていた。
その身のこなしもさながら、主のこう萎びた顔を見て、悲しむどころか嬉々とした笑みを浮かべているあたり、だいぶ中身は嗜虐系に極まっているのだろうとエスターは思った。ちょっと怖かった。
「で、では、僕も仕事がありますので……」
「うん……」
エスターはレヴィにそう声を掛け、ティーナに対し適当に手を振り、廊下を先に後にする。
十歩ほど歩いてから、大丈夫だろうかとレヴィの方を振り返ると、そこにはガックリと肩を落としたレヴィと、エスターに向かって非の打ちどころのない深々とした一礼をしたままのティーナの姿があった。
王族に対しての礼としては完璧である。
その姿が見えなくなるまで、完璧な低頭を見せるさまは、やはり優秀な侍女という体であるが、
――兄上にとっては死神だからな……。
それだけ完璧であると、仕えられる方にもそれなりの覚悟が必要なのだろう。
エスターは自分の連帯しているギルドを思って、
――かえって深い主従関係がなくてよかった……。
あくまで懇意にしている取引相手、くらいの自分とギルドの関係を、むしろありがたく思った。
◆◆◆
エスターは自室に戻ると、部屋の前で待ち構えていた数人の部下に指示を出した。
そうやって、エスターの部屋の前でその部下たちが書類を片手に立っている光景は、今やよく見るものである。
エスターは臣下たちを扱う術に長けていた。
というのも、いくつかの物事を同時に処理する能力が高かったのだ。
そしてまた生真面目で、保身的であるから、こうして部下には逐一判断を仰ぐよう言ってある。
つまり、その光景の原因は、エスターのやり方にあった。
もちろん、些事にまで許可を求められていたのでは身が持たない。
だが、ほかの王族なら片手を振って通しそうな政務書類を、エスターだけは逐一持ってこさせた。
レヴィならば半日で逃げ出し、ジュリアスでさえも面倒気な顔を隠しもせず浮かべるような、膨大な量の報告である。
そうやって各自の担当する書類に最終点検の目を入れながら、また同時に、エスターはほかの王族が裁可した書類の最終校正も行っていた。
重要な書類は、誰か一人の独断によって裁可されてはならない。
ジュリアスが王として正式に戴冠すれば、多少の独断はジュリアスにかぎっては許されるだろうが、それでもジュリアスはやはりエスターを通しただろう。
エスターの最終校正は、苛烈であるあまり『行きすぎ』を露見しやすいジュリアスにとっての、最後の防壁だった。
いわば、最後の良心である。
保身的であるというのは、なにも悪いことばかりではない。
今のテフラには革新を求められていて、それを革命児たるジュリアスが引っ張っていくにしても、その土台は結局のところ国家という組織である。
現時点の国家という土台を無視すれば、その上に乗って革新を進めていこうとするジュリアスも、もろごと玉座から落下することになる。
エスターはそれが崩れないように、日々観察する見張り番であった。
カイムも似たような役割にあったが、そのカイムの裁可もまた、エスターが最終校正をする。
カイムはエスター以上に仕事が多岐にわたるため、まったくそれのみに意識を集中させているわけにはいかなかった。
「これはダメだ。予算の見積もりが甘すぎる。ナイアスの住人のがめつさを考慮しろ。あっちの住人はアリエルの貴族と違って権威とかそういうものには魅力を見ないし、そういうものに屈したりもしない。金以外の方法で釣るのは、もう少しアリエルとナイアスの文化が擦り合わされてからだ。今はすべて金や宝石のたぐいで計算しろ」
すべての資料をぱらぱらとめくり、その一瞬で資料のすべてを見たかのような言い草で、エスターは言った。
扉の前で数人の部下から分厚い資料を渡され、そのままめくり、一瞬で把握して提言を与える。
はじめてエスターに許可を貰いに行く新参の部下は、その異様な処理能力に度肝を抜かされる。
もはやそれがエスター傘下の文官たちの通過儀礼にもなっていた。
「ほかは通す。絢爛祭の広告草案は悪くない。その方向でまとめるように」
最後にそういって、ようやくエスターは自室の扉を開けた。
◆◆◆
中で待っていたのは、自分の身の回りの世話をさせている専属の侍女だった。
レヴィに仕えているティーナとは違って、ギルドに所属していない、ごく普通の侍女であった。
「いや、あっちが異常すぎるんだ」
ふとこちらの侍女が異端であるかのような考え方になって、エスターは思わず半笑いを浮かべてそれを取り消した。
上着を侍女に渡し、足早に政務机に向かう。
山のように積み重なった書類をちらりと見やりながら、
「――よし」
すぐさま気合を入れて、椅子にどかりと座った。
休まずの連戦である。
しかしエスターの意気は折れていない。
と、今に右手に羽根ペンを持って、インクにつけてから書類にサインを書いていこうとしたところで――
コンコン、と。
部屋の扉が外からノックされた。
「――ん」
右手に羽根ペン、左手に書類を押さえた状態で、侍女に顎で指示し、要件を伺わせにいく。
侍女は静かな足取りで、しかし決してのろのろとせずに、扉を少しだけあけて話を伺った。
そしてすべてを聞き終えると、再びするすると歩いてきて、エスターに耳打ちする。
「――『父上』が?」
エスターは侍女の話を聞いて、思わず椅子を後ろに蹴飛ばしながら飛びあがりそうになった。
その衝動的な身体の動きをなんとかとっさに抑えたエスターだったが、右手に持っていた羽根ペンは書類の上に落としてしまって、インクが白紙の上に舞い落ちた。
しかし、エスターはそれに構いはしなかった。
「父上が、王族を呼んでいる」
あの、キアル第一王子が死んでから今までまったく表に出てこなかった現テフラ王が、その子女たる王子王女たちを呼んでいる。
当然エスターはただならぬ予感を胸に抱いた。
エスターは執務を中断し、再び外に出るための上着を探し始める。
そこへ、そんなエスターの動きをあらかじめ予測していた侍女が寄ってきて、その両手に上着を広げた。
「ああ、助かる」
軽く礼を言ってその上着に袖を通し、エスターは足早に部屋の外へと向かった。
後ろでは侍女がゆったりと一礼をして、
「いってらっしゃいませ」
澄んだ声でエスターを送り出していた。
「――いってくる」
彼女の声に片手を振って答えながら、エスターは部屋の外へと出た。
直後、ふとくだらない考えが頭に浮かんできて、少し笑いそうになった。
「――はは、これできっと兄上は重労働から抜け出せるな。『やった、堂々とサボれる!』――なんて、喜んでいるだろうか」
テフラ王に呼び出されたというただならぬ雰囲気の中、不思議な高揚感が混ざって、思わずそんな軽快な冗談を思い浮かべてしまった。