206話 「大絢爛祭の噂」【前編】
「……」
腕を震わせながらも、トウカの表情は凍り付いていた。
観客側はぎゅうぎゅうだ。
とかく人が多く、試合が白熱していることもあって狭苦しい。
そんな場所で、サレとメシュティエが隣り合っている。
密着だ。
「……」
トウカがぽけっとしている様子に、サレは「ん?」と短い疑問符を頭の上に浮かばせながら首をかしげている。
かろうじてクシナと競り合っていたトウカだが、その隙をクシナは見逃さなかった。
一気に手に力がこもったのをトウカは感じた。
まずいと思って意識を試合に戻そうとしたときには、
「おら!!」
半獣化とでも言い表せそうな状態のクシナが、トウカの手を円卓に叩き付けていた。
それによって円卓がついに割れ、バキ、と乾いた音を奏でながら派手に散る。
しかし、かえってその豪快さが観客の興奮を誘発した。
爆音の歓声。
猛った観客が飛び跳ね、地鳴りのごとき音まで加えていく。
その大きな動きに巻き込まれたサレは、隣にいたメシュティエとともに、外側の方へと押し込まれていった。
クシナが獣化を解きつつサレの方を振り返ろうとしたときには、そこにサレの姿はなかった。
「あれ、なんだ、いねえじゃねえか」
「……」
クシナに敗北を喫したトウカは、心ここにあらずという感じで、いつにない静かさで着物の裾を掃いながら、
「わ、わらわ、帰る……」
「んん? なんだよ、最後まで見ていかねえのか? 俺に負けたのが悔しいのか?」
「それもあるが……なんだか今日は気分が優れぬっ!」
急に肩をいからせたトウカに、クシナは「な、なんだよ」とびっくりしながら、早々に踵を返した彼女の背を見送った。
「マジでなんなんだ……」
クシナはまだサレの姿を見ていない。
まるで付き添うように、つまりデートでもしているかのように並び立っているメシュティエの姿も見ていない。
それが救いであったかどうかはわからないが、おかげでクシナは次の試合も見事勝ち抜き、決勝に駒を進めた。
◆◆◆
決勝は当然、今まで一番騒がしいことになった。
「お前らマジで暇だな……」
特に、クシナにとっては自分の周りに陣取る〈凱旋する愚者〉のギルド員が気になった。
なかなか多い。
最初にいくつかの声を聞いていたが、あの声よりずっと多い。
途中から加わってきたのだろう。
彼らは口々に、
「おもしろそうじゃん」
「今日は毟り終えた」
「ていうか、ここの賭けこそいい儲け場だった」
「よく勝ったね! クシナ! おかげで収益プラスだよ!」
「決勝はさすがにつらいかもしれないけど、でも頼むよ!」
など、適度な外道っぷりを乗せながら、言葉を紡いでいた。
クシナは最後に掛かったギルド員の言葉から、相手が並々ならぬ実力の持ち主であることを察する。
実のところ、決勝までにしっかりと精神を統一させようとして、ほかの試合を見てこなかった。
――まあ、予想はあるんだけどさ。
実力者なんてものは、自分の周りに特にたくさんいる。
このテフラ王国内でのギルド間抗争に勝利したのは、自分たち〈凱旋する愚者〉なのだ。
必然、この国の中で、端的に力をもっている者が多いのは、自分たちである。
「よっ!」
「だよなぁ……」
決勝の相手はサレだった。
クシナは予想があたって「してやられた」という困惑と、一方で、身体の内側から沸き起こってくる闘志のようなものがあることを自覚して、その二つがブレンドされた、苦々しいとも好戦的ともとれる笑みを美貌に浮かべた。
対するサレは、腰に佩いたイルドゥーエ皇剣を円卓にあてないようマントの上から押さえつつ、椅子に座っていた。
「なんだこの円卓、やたら丈夫そうだな……!」
おもむろに円卓に手をおいたサレが、驚いたようにそんなことを言う。
サレの言うとおり、確かに腕相撲大会決勝につかう円卓は、やたらと丈夫そうだった。
というのも、木ではなく鉱石で出来ているらしいことが、一目見て分かったからだ。
どうやら、これまでですでにいくつかの円卓が参加者のあまりの膂力によってぶち割られているらしく、急遽酒場の亭主が店員に丈夫な机を買いにいかせたらしい。
まったく迅速な対応で、かつこんなちょっとした祭りに対し、ここまで高そうな円卓を買うなど、ずいぶん大仰なことだとも思ったが、酒場の亭主の顔はほくほくとした笑みのままで、どうやら今回の祭りでだいぶ荒稼ぎしたのだろうと、クシナは察した。
「番狂わせが多かったのかね」
「そうかもね」
クシナの言わんとすることにサレも気づいていて、にやりとした笑みとともに声を返していた。
「俺たち、さすがに結構有名になってきたらしいけど、実際の力量なんて、やりあった相手以外にはなかなか伝わらないものだからな。前からテフラにいて、そこそこ有名なギルドの一員とかと比べると、実力を疑いたくなることもあるんだと思うよ」
「ってーことは、そういうギルドの連中をのしてきたってことか」
「俺もそうだけど、クシナの方もね。だから番狂わせってわけ。おかげで払い戻しが少ないから、賭けのオーナーである亭主の方はがっぽがっぽだ。まあ、客たちはようやく俺たちのギルドの実力を信じはじめたくらいじゃないかな。亭主にとってはすでにだいぶ懐が潤ったから、十分なのかもしれないね」
「そうか? まだまだ稼いでやろうって顔してるぞ?」
「――マジで?」
そういってサレが振り向くと、さっきまでほくほくした笑みを浮かべていた酒場の亭主の顔に、またもや悪そうな笑みが浮かんでいた。『業突く張り』という言葉が、ありありとその顔に描かれていた。
「……うちに負けず劣らずだな」
ああいう顔は〈凱旋する愚者〉のギルド員がよくしている。見覚えのある顔だ。
「オッズがどんなもんだかわかんねえけど――まあ、俺たちには関係ねえか」
クシナはハハ、と笑った。
しかし、そんなクシナの言葉と打って変わって、そのオッズという単語に並々ならぬ熱意を向ける者たちがいた。
なにを隠そう、〈凱旋する愚者〉のギルド員たちである。
「おいまて! 俺たちは自腹切って賭けてるから! 超関係ある!」
「おいサレ!! お前クシナに負けろ!!」
「ねえ、負けてよ!」
「お前が途中の試合で片っ端から馬鹿力見せつけて円卓ぶち割ってきたから、ほかの客お前に賭けまくってんだぞ!!」
「だからクシナのオッズ高め!!」
「わたしたちはクシナに賭けたからね!!」
そんなギルド員たちの、まるで欲を隠そうともしない声が飛んできている。
どうやら彼らはサレに多くの票が入ることを見越して、逆にクシナに賭けたらしい。とんだギャンブラーである。
「お前ら少しは俺の応援しろよっ!!」
サレが野次とも取れる仲間たちの声に、黒い尻尾をぶんぶんと振りながら抗議の声をあげるが、
「うるせえ!! お前より金の方が大事だっ……!」
「自腹だぞ自腹ッ!! お小遣いから出てんだぞ!」
「勝ったら三日間プルミエール押し付けるからね!」
「最悪だなそれッ!!」
勝てば地獄である。
サレは冷や汗をだらだらと垂らしながら、また椅子に座り直した。
黒尻尾がビクビクと小さく微動していて、しまいにはくるくると小さく丸まってしまって、分かりやすい困惑の色が見て取れた。
サレはもう一度周りを見渡して近場に味方がいないか探したが、
「く、くそぅ……!」
いなかった。
この場合、ギルド員はだいたい敵である。
「ふああ……!」と急に肩身狭そうにきょろきょろしはじめたサレを見て、クシナは眉尻を下げた苦笑を浮かべた。
こうやって見ていると気の弱い少年のようだった。
尻尾が感情をよく表すから、内心の機微がわかりやすくて、見ている分にはおもしろい。
自分もときどきああなってしまっているのかもしれないと思うと他人事ではないが、当事者でなければなかなか楽しいものだ。
しかし、このまま不完全燃焼な勝負になるのはクシナもお断りである。
すぐさまサレに決心をつけさせるように、声を飛ばした。
「おい、サターナ、まさか手抜いたりはしねえだろうな?」
「う、うーん、抜きたい気がしてきたけど、でも負けるの嫌いだしなぁ……。クシナも手を抜かれるのいやでしょ?」
「当然だ。日々鍛錬でやられてる分は、ここでやり返してやるぜ」
当のクシナは、すでに半獣化していた。
その姿にサレは目を見張るが、すぐに好戦的な笑みを見せる。
どうやらスイッチが入ったようだった。
サレの好戦的な笑みを見たクシナは、思わず心臓が高鳴ったのを感じた。
口角がつり上がる。
たぶん、自分は今、本能的にこの男に恐怖を抱いたのだと、そうクシナは確信した。
今にはじまったことではないが、とかくこの男は普段の隙だらけな様相に対し、臨戦態勢がやたらと恐ろしい。
見た目の話ではない。
放つ空気が、鋭いのだ。
今まで自分たちの危機のほとんどを救ってきた圧倒的な存在。
魔人の名にふさわしい男。
竜族と並ぶ異族最高種としての魔人族という名前は、なんだかんだとサレにふさわしい。
クシナはそう思った。
「――最初はもっと、侮ってたんだけどな」
クシナは小さくつぶやいた。
観客たちの歓声にまぎれて誰にも聞こえないことを見越して、あえて口に出していた。
かつての、もっと精神的に幼かった自分への揶揄を、未来から飛ばしたつもりだった。
『こいつのおかげでお前は生き残ったんだぞ』と、かつての自分に言ってやりたかった。
今の自分自身にそれを言うのは、少し恥ずかしかったから。
「じゃ、やろうか」
サレが服の袖をまくり、円卓に肘を立てていた。
クシナも着物をはためかせたあと、同じく袖をまくってその円卓に腕を立てる。
組み、手の向こうにサレの手の温かさを感じた。
それに少しドキリとしたのも、事実だった。
でも、今は、
「まずは――勝負だな!」
クシナは獣の本能に身を任せた。
◆◆◆
「んおお……、人いすぎだってここ……! 眼鏡割れるから……! 今日で何個壊れたと思ってるの!」
サレとクシナの大会決勝がはじまる直前、喉が渇いて酒場に飲み物を買いに行こうとしたメイトが、どうにかこうにかという感じで観衆の群から抜け出ていた。
もう歓声やら足踏みの地鳴りやらで、まともに亭主まで声が飛ぶ状況ではなかった。
よく知る二人による決勝戦を見たかったのも事実だったが、あの二人の相対はなんだかんだと〈爛漫亭〉の中庭でも見ているし、なにより喉がとにかく乾いていて、メイトは今回それを見送ることにした。
観衆の群をぐるりと迂回し、ようやく酒場のオープンテラスから室内の方へ、足を踏み入れる。
直線距離にしたらたいした距離ではないのに、えらく遠回りをさせられた。
室内酒場の方でも、ちびちびと酒を飲みながら窓辺に見える腕相撲大会の様子を見ている者たちがいた。
そんな彼らの隙間を縫って、メイトは酒場のカウンターにまで歩み、外で金勘定をしている亭主に代わって店番をしていた店員に、
「なにか涼しげになる飲み物をくれないかい。あ、酒じゃないので」
と告げた。
店員は獣人系の娘で、茶色い頭髪に、垂れた犬耳をつけていた。
――かわいいな。
注文を受けてにっこりと笑みを返したその店員に、メイトは思わず見とれていた。
店員が「少々お時間を」と断りを入れてなにやら準備をはじめる。
本当はずっと彼女の姿を観察していたかったが、ジっと見ているのもかえって悪いかと思って、メイトはときたまちらちらと彼女の顔を窺い見ながら、大半は視線を泳がせていた。
そうして飲み物が出てくるのを待っていると、ふと酒場の中に目立つ紙が貼ってあるのを見つけた。
ポスターのようだった。
なかなか良い紙を使っていそうで、それだけでほかの貼り紙――賞金首の情報紙やらほかの商店や露店の広告やら――より目立つ。
メイトは向こうの猛る熱気と、こちらで新しく生じた別の熱気にあてられた身体を冷ますように、手団扇で服の中に冷たい空気を送りながら、そのポスターに目を通した。
「なになに――」
出来のいい絵画の上に、文字が乗っている。
絵はよく見るとテフラ王国の全景に似ていた。
空都アリエルと湖都ナイアスが縮尺されて書かれているようだ。
アリエルの方にあの馬鹿でかいテフラ王城が描かれていて、そのおかげで判別ができた。
さて、絵はともかくとして、問題は文字の方だ。――なんのポスターなのだろうか。
「――テフラ大絢爛祭?」
自分の口が紡いだ聞き慣れない言葉に、メイトは首をかしげていた。