195話 「露店通り:宿屋の赤紫」【中葉】
露店通り。
メイトとギリウスが歩いている通りに面した、隠れ家のような宿屋があった。商家兼隠れた宿泊施設という、一部の者たちの好奇心をくすぐるような建物の中に、男と女がいた。
「おい、〈シェイナ〉、見ろよ。――あん時の『黒竜』だ。やっぱあいつらここで生活してんだなあ」
「えー?」
赤い髪の男。隻腕の男だ。
男はベッドに掛けながら、ベッドの上のあたりに開いている窓辺に肘を掛け、けだるそうに露店通りの人込みを見ていた。
そんな男と同じ部屋に、姿見を前にして髪を結う女がいる。艶やかな紫の髪を伸ばした女。下着姿で、大人びた色気を放っている。
「お前が見てビビって漏らしそうになったやつだよ」
「ちょっと、それは言い過ぎじゃないの。勝手に変な事実作んないでもらえる?」
「冗談だ」
「あんたの冗談って本当にへたくそ。これっぽっちも笑えない」
「――うるさい」
「そうやってすぐへそを曲げる。子供の頃から腕っぷしばかり強くなったけど、中身はガキのまんまね。あたしがどれだけ子供の時から――」
「分かった、分かったよ。小言は勘弁してくれ」
エッケハルトは紫髪の女――シェイナに手をひらひら振って、「もうやめろ」と報せる。顔にはうんざりしたような色があった。
対するシェイナはようやく髪を結い終え、後頭部で一本に結んだ紫髪を撫でつけながら、エッケハルトに近づいて行く。
「お前、服着ろよ。『一応』女じゃねえか」
「なに? 死ぬ? 死ぬの?」
「飛躍しすぎだろ」
「こんな美人前にして一応とか、完全にそれガキが意中の相手にちょっかい出すのと同じ原理よね」
「自分で美人とか言うかよ」
「あんたの前以外では言わないわ?」
「そうかい」
「あんたも否定しないくせに」
「……」
エッケハルトはバツの悪そうな表情を浮かべ、また視線を窓の外に向けた。そこは建物の二階の部屋であったから、正確には見下ろすような形だ。
「――で、どれ?」
「あれ」
エッケハルトが窓辺に掛けていた腕を軽くあげて、眼下の一点を指差す。
シェイナが窓辺に顔を近づけて、その指の差す先を見た。
旅人と商人で飽和状態の露店通りに、一際目立つ体躯の男がいた。
否、男かどうかは一見しただけでは分からない。なんといっても竜顔だ。爬虫類質だ。
トカゲの顔を見て一発でオスかメスか分かるのなら、きっとそいつはトカゲ博士か変態かどっちかだろう。
「ていうよりどっちもね」
「何の話だ」
「こっちの話。――んー、そうね、間違いないわ。ていうかナイアスに魔人たちがいるのは確定なんだし、いまさら驚くこともないんじゃない?」
「そうだが、改めて見るとこう、なんかあるじゃねえか」
「単細胞の語彙のなさに今あたしヒいたわ」
「俺はお前の皮肉の連続に呆れた」
エッケハルトはそう言いながらも視線をズラさず、無くなった右腕の付け根を左手で撫でながら、遠くなっていく黒竜の背を見ていた。
「どっちが幸運だったんだかねえ」
「彼らの境遇は知ってるでしょ。いまさら彼らを『羨む』資格はあたしたちにはないのよ。それだけは絶対に忘れちゃだめ。あたしたちはあたしたちのために、多くの命を奪っているんだから」
「――分かってるよ。でも、理想を胸に抱くくらいは、別にいいじゃねえか。罰は当たんねえよ」
「さあね。最高神なら、あたしたちのことも見てるかもしれないわよ。余計なことしたら天罰を落とすかもしれない」
「――ハッ!」
シェイナの言葉に、エッケハルトが大きく鼻で笑う。
「ない。それはないぜ、シェイナ。最高神マキシアに限って、そんなことはない。――あいつは狂ってるからな。それも一番厄介な狂い方だ。真逆の欲望を同時に抱いてる狂人だ。あんなやつ見たことねえよ」
「人じゃないからね」
「違いねえ。――って言いたいとこだが、あれはたぶん人だ。人よりも人だ。人が究極的に惑うと、たぶんああなるんだよ」
エッケハルトの言葉は抽象的だったが、その声には力があった。
「だから、最高神マキシアにかぎって、わざわざ大舞台を崩してまで、俺たちに天罰を与えようなんざしねえだろ。それが分かってるから俺はテフラに行こうと決めたんだ」
「そんな深い理由?」
「あとはあいつらがいると思ったからな」
エッケハルトはついに見えなくなった黒竜の背に、そんな言葉を投げた。
「一番の理由はそれじゃない。まあ、別にいいけど。こうして全部がテフラ王国に集まってる現状は、なんだか世界の意志みたいで、ちょっと気味が悪いわね」
「神の意志じゃなけりゃそれでいい。それに、もっと増えるぞ。あと一週間。一気に来る。テフラが最後の防衛線になるんだ」
「確信?」
「勘だ」
「あんたの勘は殊に戦に関わる場合はやたらめったら当たるからね。やだやだ」
「俺は――」
エッケハルトが腕の付け根を強く握る。
シェイナはそれを見て、心配げな視線をエッケハルトに向けていた。
それでもエッケハルトは視線をまだ窓の外に向けたままで、シェイナのその視線には気付かなかった。
「いや、なんでもない。この『輪っか』から外されちまったのは俺が弱かったからだ」
「まだあの輪っかの中にいたかったの?」
「どうだかな。それが分からないから、ここに来てる。俺はアテムが好きだが、最高神マキシアが作った歪んだ輪っかの中に組み込まれたいとは思わない。だがそれぞれが矜持を掛けた純粋な戦いの輪には、入っていた方が楽しいと、そうも思う。――だめだな、俺は一人で考えるより誰かと話してた方が考えがまとまる」
「あたしじゃだめなの?」
「お前は俺に近すぎる。俺の隣にいるやつと話したって、考えは一辺倒になるだけだ」
その言葉にシェイナが少し頬を染めたことにも、エッケハルトは気付かなかった。
「だから――相対するか。俺と正反対の場所にいて、それでいてある意味近い場所にいるやつと」
「いいの?」
シェイナがエッケハルトに近づき、同じようにベッドに座って、その太ももに手をおいた。
心配げな視線と、少し艶やかさを伴った手つき。
シェイナはそのまま言葉を続ける。
「黙ってここで過ごしていれば、きっと何もかもが勝手に終わるわ。わざわざ巻き込まれにいかなくたって、この湖の街で静かに過ごしてれば――きっとすべてが勝手に終わる。私も付き合うから――それじゃ……だめなの?」
撫でるような声。甘い声。
「それもいいかもな」
「っ! じゃあ――」
「そうも思うよ。それは、思う。でも、だめだ。俺はじっとしてるのが苦手だし、俺が関わりたいと思ったものに関われないのは、やっぱり少し、頭にくる。誰にって、俺にだけどさ。それに、たぶんこのまま行ったらどういう結果になろうと後悔するからな」
「……」
「『納得』が欲しいんだよ。すべてを知って、それでいて結果に納得したい」
エッケハルトはついにシェイナの方に向き直り、真っ直ぐな視線を彼女に向けた。
シェイナの瞳が潤んでいることに気付きながらも、エッケハルトの視線は寄せ付けない強さを湛えたままシェイナの目に突き進んでいく。
「お前は来なくてもいいぞ。お前はいつも無理して俺にくっついてくるから。でも今回は無理しなくていい。王剣に入った時とは話が違う」
「……」
「お前には戦いの才能があったから、だからここまでついてこれた。でもここから先はたぶん、戦いの才能はもう必要ない。必要なのは『命知らずの才能』だ。だから、お前は来なくてもいい」
エッケハルトはそのたった一つの手を、シェイナの頬に添えた。
シェイナはそのままで数秒を沈黙し、しかしついに、服の袖で目元をぬぐう。
振り払われた腕の裏から現れたのは、いつもの気の強そうな彼女の顔だった。
「――ここまで連れてきておいて、いまさら置いて行く気?」
「ここまでついてきたのはお前じゃねえか――いや、これはナシだな。そうだ、ついてこようとするお前を遠ざけずにつれてきたのは、何を隠そう俺だな」
「そうよ。女もそうだけど、男も都合よく考えること、結構あるからね」
「分かってるよ」
「じゃあ、行きましょう」
すると、シェイナは勢いよくベッドから飛び降り、姿見の椅子に掛けておいた上着を羽織る。ぴっちりとした細身のパンツを穿き、すぐに外出の準備を整えた。
そうして彼女は振り向き、エッケハルトに言う。
「――魔人たちに会いに」