193話 「天使の告白」【後編】
「それで、天界が燃え行く様を見下ろしていた仮面の男が私に言ったの。『父と母、どちらを助けたい?』って」
「どういう意味ですか?」
「まんまの意味よ。――正確に言うなら、こうでしょうね。『父か母、どちらかだけを助けられるが、どちらを助けたい?』」
「意地悪な究極の二択に出て来そうな問いですね」
「そうよ。わざとそう言ったんだと思う。そいつ、楽しそうだったから。私の顔を見て、クスクス笑ってた。分かる? そいつはたぶん、やろうと思えば父も母もどちらも殺せた。でもあえて『残した』。私が惑う様を見るために、わざとどちらかの命は助けてやるって言ったのよ。いや、助けてやるじゃなくて、『助けさせてやる』かしら」
「……」
アリスが沈黙する。プルミエールは直後に力なく笑った。
「私ね、どちらも助けなかったのよ。どっちも、助けなかったの。それが私の罪」
青い吐息が天使の口から放たれる。
「迷ったのよ。当然、どっちも助けたかったわ。『だから』迷ったの。あの時の私は高貴じゃなかったわ。それが命取りだった。私じゃなくて、父と母の『命取り』。迷って、迷って、結局――二人とも殺されてしまった」
プルミエールの声は決して沈んではいなかった。むしろ強い響きが込められている。それをアリスも察していた。
「最後に残ったのは燃え散った天界と、息絶えた父と母と、黒い身体の民たち。父は右方から同じ仮面を被った白いやつらに運ばれてきて、母は左方から運ばれてきた。私は右か左、どちらかに行けばどちらかを救えたかもしれないけれど――結局その場を動けなかったから……。最後まで見ているだけだった。焦げた天界に投げ込まれた父と母を抱き止めて、私は黒い空の大地に着地する。呆然とそのあと空を見上げたら、もうやつらはいなかったわ」
「それは――」
「ええ。おかしいでしょ? ――私は『生かされた』らしいの」
「いよいよもって、何がしたかったのか分からないわよね」プルミエールは付け加えた。
「あの白い仮面の男は何をしたかったのかしら。もしあれが神族だったとして、力の強かった私の父――天使王を殺したかったとすれば、一応理は通る。それに反発した天界の民をもろごと殺したのも、まだ分かる。でもなぜ、その天使王の血を継いでいる私を殺さなかったのか。その理由が分からない。道理が通らないから、結論が出なくて、腑に落ちない。いつまでもその疑問が悲劇の光景と一緒に脳裏に残っているから、そこから抜け出せない。だから極力考えないようにしてきたわ」
「考えたって答えが出ないんだもの」プルミエールがため息を重ねる。
「……どんな理由があったのでしょうか」
「さあね。いっそたいそうな理由なんかなくたっていいわ。私が迷う様を見て楽しむようなやつだもの。そうして今度は、私が過去を胸に苦しむ様を見たかっただけかもしれない」
プルミエールは白翼を大きく広げ、ばさりと音を立ててはためかせた。
「だから、私はあれから特段に迷わないことを心に刻んで生きてきた。あの時の私は愚かだったから、『高貴』に生きようと決めたの。高貴は――時に残酷だから。高ければ、低いものを一括りの低きものとして扱えるから。そうしたら迷わずに済む。もっと合理的に取捨ができる。助かる確率が高い方を助けに行く。たとえば、あの時だったら、病床の父ではなく――」
「――プルミエールさん」
プルミエールが紡ごうとした言葉をアリスが止めた。
その声にプルミエールはハッとしたように口を開け、すぐに訂正する。
「そうね、あの時のことにいまさら判断をつけるのは、よくないわね」
「――すみません。出しゃばりました」
「いいのよ、助かったわ、アリス」
「……いえ」
対するアリスは少し俯いた。膝を立てて三角座りに。華奢な身体をさらに縮こまらせる。顎を膝のあたりに乗せて、視線を眼下に落としながら言葉を紡いだ。
「私が知るプルミエールさんは、その思いを胸に刻んだプルミエールさんなのでしょうか」
「そうよ。そう――ありたいものね。私、ちゃんと高貴だった?」
「おそらく、私たちの中では一番に」
「――そう。……でも、分かってるのよ。超越的なまでに高貴になるのは、たぶん今の私にはできない。なぜだか教えてあげる?」
「なんとなくわかります」
「フフ、そうね。……そう、あんたたちが五十人近くもいるからよ。私がたった一人を愛した女だったら、最高に高貴になれたかもしれない。でも、こんなに愚民がいたら、また『ああいうこと』が起こるかもしれない。それは否定しないわ。たとえば――二十五と二十五、だったりしたら」
「そう……ですね」
プルミエールの話を聞きながら、アリスはそれを自分に当てはめた。アリスは長ゆえに、そういう選択を迫られる可能性があることに気付いていた。
「命の価値は等価じゃないわ? ――少なくとも私にとっては。愚民とそれ以外だったら、どんなにその他の命を天秤に重ねられても、愚民の命を取る。でも、私の愚民の中では、愚民同士の命は等価よ」
プルミエールのその矜持は皆が知っているし、似たような思いを抱いている者はこのギルドに多いだろう。アリスはそう思った。
「愚民同士の命は等価。これは違えない。本気でそう思ってる。なのに、それでもなお、たった一つだけ例外がある。どうしようもない例外」
プルミエールがアリスに見せるように人差し指を立てた。
「例外……ですか?」
「そう」
そうして今度はアリスの頭に手を伸ばし、その少し巻き毛掛かった黒髪に指を絡ませる。
「あなたよ、アリス。あなたの命が誰よりも私たちにとって尊いものであるように、『私たちが決めた』の。そうじゃないと私たちが分散してしまう。分散したくなくても、分散してしまう。等量の命を選ぶ時に、確固たる判断ができなくなるから。それも本当のこと。サ――愚魔人があの時言った言葉は、今でも正しいと思ってる」
サレの名を口にしようとしたプルミエールが、とっさに照れ隠すように名称を訂正したことに気付いて、アリスは少しだけ笑った。
それでいて、真面目な話の最中であることを再認識し、また気を引き締める。
「愚民たちだって、この小さな輪っかの中の命は等価で扱おうとしている。だからこそ判断がバラつくの。そのバラつきが続いてしまったら、やっぱり私たちは分散してしまう」
「……」
仲間に優しいから。理想を追い求めるから。そういう齟齬が生まれてしまう。
人が人として違うから、それぞれに判断の基準が違う。
だけど、自分たちは共同体だ。
共同体が生き残るために、自分たちは指針を持たねばならない。判断の指針。生存への指針。
それが――
「私――ですか」
「あなたはそれを申し訳なく思いながら、しかし誰かの命が一つだけ上に立たなければならないことを知っていたから――それを受任した。そう、『祀り上げられる』って、こういうことね」
だから、
「二十五と二十五であったら、アリス、あなたがいる方を迷わず助けるわ。私はあの悲劇を経て、そういう生き方をすることを胸に誓った」
「……」
アリスは沈黙する。
言えないし、『言うべきでない』。アリスはそれを知っていた。
プルミエールはそれを見て、
「ええ、あなたは何も言わなくていいわ。我慢させて、ごめんね」
「――大丈夫です」
そうして二人の間の会話が止まる。
プルミエールの顔に透明感のある笑みが浮かんだ。
「よし、言い切ったわ。これで私はオッケーね。何がオッケーとは言えないんだけど」
「そうですね。なんだかふわふわしたものを扱っていた気がします」
そう答えながら、アリスはふと一人ごちて考えていた。
◆◆◆
――私が二十五と二十五を選ばなければならなくなった時、私はどちらを選べばいいのでしょうか。
◆◆◆
プルミエールが選ぶ時は、自分の命の場所が判断の材料になる。
しかし、その自分が選ぶ時は?
祭り上げられた命から見る他の命は、どれも等量だ。価値が同じだ。それが長の役目。
なら、
――私はどうやって……
プルミエールの告白は、アリスに答えの出ない命題を突きつけていた。