192話 「天使の告白」【中編】
「私が独りになった日、私は天界にいたわ。天使族の住む空の都よ。たぶんまだ、どこかの空を漂ってるわ。あの天界にいた天使族がみんな死んで、そのせいで術式による制御が利かなくなったから、どっかいってしまったろうけど」
「アリエルのようなものでしょうか」
「まあ、似たようなものね。もうちょっと小さいけど」
プルミエールは風になびく金の髪を撫でつけた。
「あの日私は、母様に言われて下界に降りてたの。父様――天使族の王ね――が病に倒れちゃってね。天界は煌びやかな印象をもたれるけど、アリエルよりずっと高くの天空に浮かんでる島だから、環境的には結構厳しいのよね。それで、薬草やらを求めて私が下界に降りたのよ。いつもなら備えがあるんだけど、まあ、その時に限って切らしちゃってて」
その時のことをプルミエールはよく覚えていた。下界に降りる際に暇つぶしに数えていた鳥の数。ゆったりと流れる雲の形。頬を撫でる空の風。
「それで、私が薬草片手に天界に戻ったのはちょうど一日後のことだったわ。あの時寄ったのはどこの街だったかしら。ちょっと曖昧ね。でも南の方だった気がするわ」
プルミエールは記憶を手繰る。
薬を買いにいっただけだから、あの時はたいして着陸した国のことなど気に留めてはいなかった。薬屋がある文化都市であれば、それだけでよかったのだ。名前なんてどうでもいい。
「金貨渡して、それっぽい薬草を片っ端から買って、お釣りは全部あげて、薬草詰まった袋背負って天界に戻ったわ。そしたらね――私の街が燃えてたの」
「……」
端的なプルミエールの言葉にアリスが小さく唾を飲み込んだ。
「端的でしょ? ――燃えてたのよ。天界に昇って行くときにも、もちろん気付いてたわ。火の粉が空に舞ってるのが見えた。風は横殴りだったから、焼けている匂いまでは届かなかったけど。――でも、実際に天界まで来ちゃえば匂いなんて嗅がなくても何が起こってるかは鮮明に分かる」
「燃えてたの」その言葉をプルミエールは繰り返した。
「で、そのあとに天界が燃えている様を見下ろしているやつがいることに気付いた。今思えば――そう、今思えば――」
プルミエールが片手で額を押さえた。まるで頭痛に耐えるような仕草だった。
表情は笑みのままだが、それでも片方の眉が少し下がっていて、いつもの笑みとは様子が違うようだった。
アリスは表情を見ることができないのでその変化には気付かなかったが、プルミエールの声音から、わずかな感情の機微を察していた。
「たぶん、あれは神族だったのだと、今なら思える」
その姿はきっとプルミエールにとってトラウマなのだろう。絞り出すように漏れた声が悲痛な胸中を象徴する。
「仮面を被って、素顔は分からなかったわ。ただ、浮いてたのよね。翼もなしで。そうなると考えられるのは術師である可能性。その場合、天界に来れたこと自体が優秀な術師である証拠になるわ。そいつは白い仮面と白い服を着て、白磁の陶器のような肌を日の光に照らしていたわ」
プルミエールの脳裏にかつての記憶が蘇ってくる。徐々に、鮮明に。
自分で記憶に靄を被せていた。それを意を決して取り払っていく作業だ。
嫌な作業だった。
「赤い天界と、白い仮面。天界は高度のせいで火もあまり勢い強くはならないけど、あの火はよく燃えてた。もしかしたら術式炎だったのかも。術式燃料を燃やして盛るタイプなら、あそこでも十分燃えただろうし」
「神族――ですか」
「実際のところ、本当に正体は分からないわ。あくまで『たぶん』ではある。確信が持てるならとっくにそう言ってるもの」
「自然系神族――つまり〈創造神カムシーン〉の管轄する領分にいる神族系は、対価さえ渡せば基本的に善悪は判断しないらしいですからね。かつての神族の矜持として、パワーバランサーであろうとする意気は持ちながらも、だからこそ、現界の民の善悪のバランスはとらなかったといいますし」
「まあ、パワーバランサーだけでいっぱいいっぱいだったんじゃないかしら。現界の善悪の基準はころころ変わるもの。それを指標にするのは、仮に私が神族であったなら、絶対にしないわ」
「そうですね」
アリスの頷きのあとに、「でも」とプルミエールが続ける。
「私は神族じゃないから、やっぱりムカつくけどね。あの火が火炎系の神族が善悪の判断なく貸したものであるとしても、私からすれば『よくも燃やしてくれたわね』だし、『よくもそんな火の使い方をするやつに厄介な火を渡してくれたわね』だもの」
「知らないふりをするには神族は術式によって現界に干渉しすぎるし、なにより持ちうる力が大きすぎるのかもしれません」
「そうね」
そこでプルミエールが「ふう」と大きく息を吐いた。張っていた緊張を解きほぐすように、吐息しながら身体を捩じる。
わずかばかりの沈黙が二人の間に流れて、ようやくプルミエールが再度口を開いた。
「――こんなものよ。今の私たちの手かがりになりそうなのは……こんなところ。ほとんど手がかりになってないのは愛嬌ってことにしましょ。愛嬌愛嬌、私かわいいわね」
「……」
「ねえ? 私今結構頑張ってかわいいとか言ったんだけど、こういう時に限ってスルーされるとちょっとキツいわ?」
「あ、考え事をしていました。変な頑張り見せないでください。いまさらかわいい路線ですか? ……す、少しキツいものが……」
わざとらしくアリスがプルミエールから半歩の距離を離れる。座りながら手で身体を支え、ずずず、と横にずれた。
それが演技だと分かっていながらも、プルミエールは思わずムっと頬を膨らませる。さらに、まるで幼気な少女のように、膨らんだ頬を朱に染めて見せた。
大人の色気を捨て、無邪気に、感情豊かな少女が怒るように。
「なによ! 私だってたまには――」
「サレさんに見せるための予行演習とかでしょうか」
「んっ! んんっ!!」
アリスの必殺の一撃が空間を貫き、プルミエールの耳を穿つ。プルミエールはそのアリスの声をかき消すように、わざとらしく咳払いをした。
「あ、図星ですか?」
「ち、違うわよ!」
プルミエールはそっぽを向いて、アリスのジト目から逃れようとする。
「そうですねぇ、皆さんはシオニーさんと比べてスタートが遅かったですからね。うまいことやらないと、ダメでしょうねぇ」
「だ、だから違うって」
「本当に?」
「ほ、本当よ」
「ほーう? ほーん?」
「相変わらず舐めるような問い返しをするわね……言葉になってないのに圧力が高貴過ぎる感じだわ……!」
プルミエールは一瞥のあとに再びアリスから目を逸らし、白翼を前に持ってきて手で撫でる。
対するアリスがまたプルミエールに近づき戻り、何気ない仕草でその細い指をプルミエールの背に滑らせた。薄い一枚布を避けて、直にプルミエールのなめらかな背筋を撫でるアリスの指。
「ひゃうっ!」
プルミエールは自分の背筋をアリスの指が這って行くのを感じて、思わず声を漏らす。ぞくぞくと奇妙な感覚が身体の中を走って行った。
思わず漏れた声はいつもの艶のある声ではなく、どれかと言えばやはり少女のような響きを含んでいた。
「やっぱりこのプルミエールさんは偽物なのでしょうか……。反応が新鮮過ぎますね……」
アリスのジト目が深くなる。盲目とは思えない眼力だ。
しばらく背中に走った感触に身を震わせていたプルミエールだが、これ以上耐えきれないとばかりに話題を転換する。
「ち、ちなみに、手がかりとは関係ないところで、一応続きもあるのよ」
「あ、逃げましたね。……まあ、ご自身のトラウマまでもをそうやって――良い意味での遁走の道具に使えるのなら、きっとプルミエールさんは前を向けているのでしょう」
「そういう風に私の行動をフォローできるあなたも相当よ」
プルミエールはようやくいつもの表情に戻る。膨らんでいた頬は引っ込み、今度は少し、儚げな表情だ。
笑みというほどではないにしろ、微笑のようでいて、悲しげでもある。透明感のある物憂い様の表情。
「それで、続き――ですか」
「そう、続き。私がどうやって一人になったか。まだあの悲劇は収束してないからね」
プルミエールはまた先ほどの悲劇の続きを紡ぎ始めた。




