187話 「命の糸」
アリエルの西側転移陣を抜け、湖都ナイアスの中央湖の傍のボロ小屋から出てきたアリスたち一行は、そこから出てきた瞬間にちょうど〈シルヴィア〉と鉢合わせした。
対するシルヴィアは一歩遅れてアリエルへ向かおうとしていたところで、唐突な愚者たちの出戻りに珍しく目を瞬かせていた。
「うわっ、なんかぞろぞろ出てきたね――」
シルヴィアは片手に紫色の術式燃料を迸らせながら、小屋からなだれ出てきたアリスたちを目を丸めて見ている。
しかし、アリスたちから続いて出てきた一人を見た途端、シルヴィアの表情は曇った。
シルヴィアの顔を曇らせたのは、サフィリスに肩を抱きかかえられている〈アルミラージ〉が原因だった。
その腹部に白い槍が突き刺さっているのをシルヴィアは見定める。
「――ソルの神格槍か」
シルヴィアは一瞬でその造形を見て断定した。
「あなたがアルミラージの『親』か! お願いだ! アルミラージを救ってくれ!!」
小屋の中から続々となだれてくる異族たちや、銀鎧の騎士たちや、はたまたメイドたちまで、そんな流れの中にありながら、サフィリスが涙を浮かべて力強い声をあげていた。
対するシルヴィアも状況を察し、すぐに言葉を紡ぐ。
「――これ、ネメシスの力が通ってるね。純粋な神格槍じゃない。ああ、もう、ネメシスの神力は粘りつくから嫌なんだ」
数秒も経たずにその場が人でごった返すが、しかしシルヴィアとアルミラージの間にだけは誰も身をすべり込ませなかった。
その空間だけは開けておくべきだと、皆が察して外へと身体を流していく。
シルヴィアはその空間をそそくさと駆け、サフィリスに抱えられているアルミラージに近づいた。
まずその頬をぺちぺちと叩き、軽く声をあげる。
「一号、意識はある?」
「――あります」
「痛い?」
「痛くはありませんが、なんだか身体の先端から暖かいものに蝕まれていくようで」
「それはネメシスの神格の力がなだれ込んでるからだよ。君の身体は僕の〈命力〉で創られてるから、だいぶ〈神力〉に対する抵抗力もそれなりにあるけど――」
「やっぱり、だめですかね?」
「……」
シルヴィアは黙り込んだ。
対するアルミラージは軽い笑みを浮かべている。少し額から汗が出ていたり、また苦しそうに息を荒げているところを見ると辛そうであったが、それでも彼は柔らかな笑みを浮かべ続けた。
「頼む! 私にできることがあるならなんでもいってくれ! 私は二度もアルミラージを失いたくはないのだ!」
「――サフィリス様」
シルヴィアはアルミラージの肩を抱きかかえてる美しい女を見た。
一介のテフラ人として彼女に対して敬称を付けるが、
「――サフィリス、本当になんでもするんだね」
次にシルヴィアがその名を紡いだ時、そこに敬称はなかった。
つまり――
「〈術神レイスター〉として訊こう。君はアルミラージのためになんでもできる?」
シルヴィアが『神族』としてサフィリスに問いかけたのだ。
シルヴィアの銀紫の髪が徐々に真っ白に輝き出したのに、そこにいた誰もが気付いていた。
それが紛うことなき神力燃料の白光。
神の光だった。
風もないのにふとシルヴィアの髪がふわりと浮きあがり、サフィリスに視覚的な圧力を与えるように扇状に広がる。
「アルミラージはね、一度死んでるんだよ。そして二度目の生を得た。これが死族の基本だ。死族は一度死んでいる。これって実はすごく重要なんだ。なんといっても、〈命神〉と〈死神〉の領分を一度通ってきているからね」
シルヴィアは続けた。
「つまり、二度目の生は〈命神〉に許された世界の仕組みなんだよ。もしそれが〈命神〉の理に反していれば、きっと〈命神〉は二度目の生を受けた者を即座に刈り取って行く。そしてまた二度目の死も、〈死神〉によって許されたことなんだ。もしそれが許されなければ、死族は一生死ねなくなる。生と死の不可分が崩壊する。だから死族はちゃんと二度目の死を受け入れることを『許されている』。――でもね」
シルヴィアは少し目を伏せて言った。
「三度目の生は、命神も許していないんだ。だから、今こうして神格に冒されて存在を消されかけているアルミラージが、もし死神によって二度目の死を受容していると判断されてしまったら――」
サフィリスがシルヴィアの言葉を聞いて息を飲んだ。
「――なにをやってもアルミラージは生きられない。二度目の死のあとに再び生き返ることを、命神が絶対に許さない。神族の掟どころじゃない。これは世界の掟だ。だから、もう一度言うけど、今の時点でアルミラージが死んでいると判断されていたら、ここから何をしてもアルミラージは助からない」
「そんな……」
話をしている今のこの瞬間も、アルミラージの状態は変化して行っている。
しかし、それでもシルヴィアは話した。
『話さねばならなかった』。
アルミラージを救うにあたって冒さなければならない領域の話は、あとでその対価を申し渡せるほど軽いものではなかった。
ゆえに、徐々にシルヴィアの話す速度も速まって行く。
「でも、もちろん可能性もある。死族の死というものが『生体の死』以上に『存在の死』に強くかかわる以上、死神の裁量が大きくなる。だからあえて説明した。この状態でもアルミラージは死んでいる可能性があるって。でももちろんこうしてアルミラージ自身が話しているように、生きている可能性もある。そうした場合、今彼の傷ついた命力の身体を治す術もある」
「どうすればいいのだ!」
◆◆◆
「――君の命を使うんだ」
◆◆◆
その場の時が止まった。
特に、アルミラージが目を見開いた。
「それは……っ!」
「全部じゃない。一部だ。サフィリスの『命力燃料』を使う。つまり君の寿命を使うことになる」
シルヴィアは淡々としていた。時間がないと言外に言わんばかりに、どんどん話を進めていく。
「神力を命力で跳ね除けるには、とても多くの命力を必要とする。命力はとても格の高い術式燃料だけど、やはり神格には及ばない。この傷を治し、再びアルミラージの身体を構成するのに、理不尽な量の命力対価が必要だ」
シルヴィアはそこで少し自身の顔を曇らせた。
「ボクはできない。ボクはアルミラージを大切に思っているけど、それはあくまでボクの作った死族としてだ。それ以上に入れ込むことができない。ひどいことをいうけど、ボクは元神族だから。君たちの前で取り繕ったりはしないよ」
シルヴィアは悲痛な面持ちだった。感情をあまり表に出さない彼女をして、それは最大の悲痛の表れだった。
「ボクは無意識のうちにそう判断してしまっている。一号がだめになったら二号を作ればいいからね。この判断を捻じ曲げてボクが力を使えば、きっとそれは傲慢になる。どんなに神族の役割を捨てたとしていても、ボクの神族としての地位が消えたわけじゃない。陛下はこんなボクにも優しいけど、たぶんここでボクがこれ以上自身の命をアルミラージにつぎ込むのは神族としては間違っていると判断するだろう。それに――ボクでさえ確信してしまっている。マキシア様の方針よりは、ボクはユウエル陛下の方針を推したいと思っているからね」
きっと自分がユウエルにまた出会うことがなければ、こういう思いがストッパーになることなどなかったかもしれない。
しかし、出会ってしまった。
そして今、こうしてアルミラージを救える立場にいることは、自分が〈術神〉の名を捨てなかったからだ。
出会わなかったらアルミラージは救われなかった。
しかし出会ってしまったから、アルミラージを救えなくなった。
相反する状況がそこにはあった。
「これは最大の譲歩だ、サフィリス」
シルヴィアは片手を振り抜いた。
眼前にたたずむすべてのしがらみを取り払うかのようにして、サフィリスと真正面から対峙する。
その姿は〈術神〉の名に恥じぬ厳然とした様相を呈していた。
「――今だけボクは君と契約しよう。そして君の命力燃料という対価をもらって、僕が術式を行使しよう。アルミラージを救う術式を」
最後にシルヴィアはサフィリスの顔を見た。
その視線の先にあったのは、
◆◆◆
「なんだ、そんなことか。――構わない、術神レイスターよ。私の命が使えるのなら、存分に使ってくれ」
◆◆◆
涙に染まった――笑みだった。
彼女は笑っていた。
心底ほっとしたように、笑っていた。
「――分かった」
そしてシルヴィアは彼女にうなずきを返した。
次いで、その右手をサフィリスの胸に伸ばす。
その手は、まるでそこに服も肉体もないと言わんばかりに、サフィリスの身体をするりと貫通して、白い光を発しながら彼女の胸の中に吸い込まれていった。
その状況を見ていた周りのものが、思わず息を飲む。
そんな中、一つ、大きくあがった声があった。
――〈第三王子レヴィ〉の声だった。
「サフィリス! 君もちゃんと生き残るべきだということを忘れてはいけないよ! いいかい――『君は生き残るんだ』」
「ハハ、分かってるよ、レヴィ」
レヴィの顔はサフィリス以上に涙に濡れていた。
その涙が兄妹の悲痛な状況を察してのものであることに、誰もが気付いていた。
レヴィはお人よし過ぎた。
すぐに彼女に感情を乗せてしまう。それが演劇主義者と揶揄されるレヴィの短所でもあり、また長所でもあった。
しかしレヴィはシルヴィアを止めなかった。
演じる者に求められる卓抜した『観察の目』でサフィリスの胸中を察しているがゆえに、それを止めることができなかった。
だから最後は兄妹として、彼女に言う。
生きて帰ってこい、と。
サフィリスはそれに笑顔で返していた。
同じ年の兄弟に対する、柔らかな笑みだ。
「いくよ」
「ああ――」
そして――
シルヴィアがサフィリスの胸からねじれ折り重なった『糸』を取り出した。
それは紫色に輝く――『命の糸』だった。