184話 「終幕担いの劇役者」【後編】
トウカたち陸戦班員を先に空都に向かわせたアリスだったが、アリス自身もすぐにギルド員に連れられて空都アリエルへの道を進んだため、結果的にアリエルにたどり着いた時間に大きな相違はなかった。
プルミエールに抱かれて空の道を進んだことも大きかっただろう。
そうして、アリスは周りをギルド員たちに守られながら、アリエルの街路を走っていた。
そんなアリスの足元を大きな揺れが襲ったのは、ほんの十数秒前のことである。
不穏な揺れだ。
空の大地が揺れているという異様な事態が、内心に恐怖を煽りたててくる。
――何事でしょうか。
予想を立てるにも事態が唐突かつ現実離れしていて、まるで予想のための材料が見当たらない。
そんなことを考えていると、ふとアリスは自分の周りにギルド員たちが集まってきたことに気付いた。
視覚が無いので見えないが、やはり分かる。
足音が一気に自分の周りに集まってきた。
まるで自分の周りに壁を作るようにして、集まってきたのだ。
「何かありましたか、プルミエールさん――」
鼻腔をプルミエールの良い匂いがつついて、彼女が自分の目の前にいることを確認する。
そうして何事かと訊ねた直後、それは来た。
声だ。
知らない女の、声だった。
◆◆◆
『おねーちゃん! あたしおねーちゃんに会いに来たよ!』
◆◆◆
おねーちゃん。
姉。
その声は誰かに話しかけていた。
一体誰の『妹』であろうか。
周りのギルド員たちは特に声をあげない。
もし誰かの妹であったなら、その姿を見て驚きの声の一つくらいあげそうなものを。
しかし、誰も声をあげなかった。
それどころか、声のあとにピリピリとした空気が蔓延した。
一体どういうわけなのか。
アリスが不審に思っていると、再び声がやってきた。
◆◆◆
『アリスおねーちゃん! 声を聞かせてよ!』
◆◆◆
今彼女はなんと言ったのだろうか。
アリスは混乱した。
見えない目を、思わず声が飛んできた方向に向ける。
声の主はこちらの視線が向いたことに気付いたのか、嬉しそうな声をあげていた。
「あはっ、おねーちゃんがあたしのこと見てくれた! ――あっ、でも見えないんだっけ? うーん、残念だなぁ。せっかくの初対面なのに、邪魔なのがいっぱいいるし」
何もかもが『分からない』。
アリスはパクパクと口を小さく動かすだけで、声を出せなかった。
周りのギルド員たちも戸惑っているようで、特に声はあげないが、警戒心はさらに強くなったようだった。
アリスの頬にプルミエールの羽毛の感触があった。
プルミエールがさらに自分を隠すように近づいてきたのだ。
羽が触れるほどに、自分に密着してきた。
その行動を知って、アリスはさらなる不穏を知る。
――プルミエールさんがこれほどまでに警戒する相手。
「ちょっと、そこの天使さんどいてよ。おねーちゃんが見えないじゃん。ああ、もう、あんまり時間ないんだから、邪魔しないでよ」
「うるさい小鳥ね。なによあんた、頭イっちゃってる系少女? そういうのはもう私の愚民どもで足りてるからいらないのよね。うちのアリスに変な理由つけて付きまとうの、やめてくれないかしら?」
プルミエールの声が響いていた。
強い響きを持った声が、空を突き進んで少女の方向へと飛ぶ。
「変な理由じゃないもん。あたしはアリスおねーちゃんの妹だもん。本当だもん」
「ちょっと、マジに話が通じない系少女は私も手に余るんだけど。いまさら私の愚民どもがまだまともな頭の持ち主なんだって気付いて、嬉しくなってきちゃった」
わざとらしい皮肉を紡ぎながらも、プルミエールは小声で「術式展開」とつぶやいていた。
その声をアリスの耳は捉えていた。
プルミエールは攻撃するつもりなのだ。
そうして軽い口調で相手の意気を逸らしながら、その少女を確かな敵だと認識して、攻撃の手を加えようとしている。
加え、プルミエールは近くのアリスにだけ聞こえるような小声で、また言葉を紡いでいた。
「アリス、あなたに『妹』はいるの?」
攻撃への意気を見せながらの、最終確認。
その天使の気の配り方には、まるで隙が無かった。
不穏に対する迎撃の反応を取りながら、それでいて万が一の可能性すらを考慮する。
そんなプルミエールの内心に気付きながら、アリスはその言葉に答えた。
「知りません。少なくとも私は、自分の妹に会ったことすらありません」
「そうね。もし本当に覚えがあるなら、あなたが先に声をあげているはずだものね」
プルミエールの言葉にうなずく。
アリスはあえて、そのあとに続けたかった言葉をプルミエールには知らせなかった。
――そもそも妹に会えるような環境に、私はいませんでしたから。
つまり、可能性としてはまったくないわけではない。
もしかしたら、自分の知らないところで妹が生活していた可能性がある。
しかしここでそんなことを言っては、プルミエールの判断を鈍らせてしまう。
だから、アリスはあえてそれを言わなかった。
「おねーちゃん! あんまり時間がないから名前だけ教えてあげるね!」
すると、少女がまた大きな声をあげていた。
興奮気味な声だ。
内心の歓喜を抑えられないとでも言わんばかりの、弾んだ声。
そして彼女は――自分の名を高らかに叫んだ。
◆◆◆
「あたしの名前は〈コーデリア〉! 〈コーデリア・シード・アテム〉! おねーちゃんと同じ、アテム王国の王女だよ!」
◆◆◆
アリスの中の時が止まった。
――嘘だ。
真っ先に紡がれた言葉はそれ。
しかし、アリスには彼女の言葉を否定できる材料が一つもなかった。
自分がどれだけ統制された生活を強いられてきたのかを再確認し、同時にその程度の事柄にさえ自分が無知であることに自責の念を感じずにはいられなかった。
「じゃあ、あたしは帰るね! きっとまた会えるから!」
そんな少女の声のあとに、少女が小声で「――ああもう、我慢できない、やっぱり言っちゃおう」とつぶやいたことに、聴覚が特段に優れているアリスだけは気付いていた。
そして、また少女の声が続く。
「――っ、きっと一週間後に会えるから! だから待っててね、おねーちゃん! また会いに来るから!」
直後、アリスは目の前のプルミエールが術式弓を使って矢を放ったことを、その弦が弾ける音を聞いて察した。
「いい加減にしなさい。妄言ばっかり吐いて。――それに、あんたでしょ。『あんなこと』したの……っ!」
「あはは、危ないよ天使さん。――そうだよ、アリエルの地盤を壊したのはあたしだよ。魔人さんと竜さんが湖の街の人たちを助けるために飛び込んでいったから、天使さんたちも手伝いに行った方がいいと思うよ」
「どうかしてる……! ――あんたたちも行きなさい! あれは無視していいから! 空戦班員はサレとギリウスのところに! その他の愚民は――」
プルミエールの言葉が切れる。
プルミエールはアリエルの街路の奥を見ていた。
こちらに向かって走ってくる者たちの姿が映る。
ジュリアスと、レヴィと、アルミラージにサフィリス。その他、メイドや銀鎧の騎士を担ぐ派手なローブ姿の者たち。
必死に地盤の崩落から逃げるようにこっちへ走ってくる者たち。
「こっちにいる愚民どもの救助よ!」
プルミエールはその他のギルド員に彼らの避難を手助けするよう指示を出した。
すべてがまた動き出す。
プルミエールが〈凱旋する愚者〉のギルド員たちに指示を出した時には、少女の姿は屋根から消えていた。
アリスはそれをプルミエールのついた舌打ちから推測しつつも、いまだ混乱の極みにある理性をなんとか叱咤して、どうにかこうにか言葉を紡ぐ。
「これはあまりにも――」
不可解だ。
分かりやすい解なんてないんじゃないかと思えるほどの、難解な問題の提示。
頭の奥の方がズキリと痛む。
そんな頭痛を感じていると、ふとアリスの手が誰かに握られ、そのまま引っ張られた。
「急いで、アリス」そんな言葉を掛けながら、自分の手を女性ギルド員が引っ張ったのだ。彼女の声は焦燥を孕んでいた。
アリスはギルド員に手を引かれながら、短く「わかりました」とだけ返すが、やはりまだ少し茫然としていた。
アリスはその足が震えるのを感じながらも、ただ無心で走った。
冷静に思考を巡らせるだけの余裕が、もはやアリスにはなかった。