183話 「終幕担いの劇役者」【前編】
末弟と狂姫が演じた劇の終幕に、そこまで積み重ねてきたすべてのカタルシスを攫って行く存在が、少し離れたところにいた。
その存在は屋根の上にいた。
銀鎧の騎士たちが多く倒れている街道の、側壁に面した建物の屋根。
『黒いローブ』が風に揺られていた。
黒いローブを着て、屋根の上に立つ存在があった。
ジュリアスとサフィリスの演じた舞台の片隅で、全ての話の流れから独立したように存在する第三者。
女だった。
女の髪は黒かった。
そして――
女の双眼は赤かった。
その容姿はサレにとても似通っていた。
同時に、アリスにも似通っていた。
若い、女だった。
ともすればアリスよりも若い、まだあどけなさが抜けない少女だ。
その少女は笑みを浮かべていた。
「やっぱりだめだったね。でも、これはこれでマキシアが喜ぶだろうから、べつにいっか。ほーんと、面倒くさい性格してるなぁ、マキシア」
少女の声が風のそよぎに混ざって消える。
「おねーちゃんも見れたし、そろそろかえろっか。――ああ、おねーちゃんにあたしのことバラしたいなぁ。でももう少し溜めておいた方が、バラした時にキモチよさそうだなぁ。どんな顔するんだろうなぁ」
少女は黒いローブのフードをかぶりながら、視界の奥に映る人々を見ていた。
「ああ、だめだめ、興奮してきちゃった。あんなむさい銀騎士の長よりも、可憐なおねーちゃんと交わってた方が絶対キモチいいのに」
少女の頬がわずかに上気して、直後、ついに少女が動き出す。
屋根を跳躍し、徐々にサレたちの方へと近づいて行った。
「あとであとで。今はまだ盛り上がりに欠けるから、我慢しないとね。そろそろネメシスも辛そうだし、拾ってから一旦おうちに帰ろう」
少女は身軽な動きでどんどんと進む。
「――でもちょっとだけ、おねーちゃんに声だけ掛けていこうかな。これくらいなら、マキシアも怒らないよね」
ローブのフードが跳躍時の風に煽られ、大きくはだける。
露わになった少女の顔には、あどけなさと色気が同席していた。
少女でありながら、その美貌には艶めかしさが顕れていた。
少女は屋根を行く。
跳んで、跳んで、ついにサレとネメシスが対峙している場所までたどり着いて――その場に足を踏み入れた。
◆◆◆
黒い少女は唐突にその場に姿を現した。
その場にいた者たちの視線が一斉に少女に向く。
ネメシスにあと一歩と迫ったサレでさえも、唐突な乱入者に思わず動きが止まった。
加えて、サレの動きが止まったのには他の理由もあった。
その姿に見覚えがあったのだ。
あのナイアスの西側国門で見かけた黒い髪の女。
自分の叫びに反応し、一瞬だけこちらを振り向いた赤い眼の女。
その時に脳裏に焼き付いた顔。
同じだ。
あの時の女が、そこにいた。
サレは戸惑った。
――国門から出て行ったはずじゃ……
どうやら彼女があそこにいたのは国から出るためではなかったらしい。
だから国門の外に行っても姿が見えなかったのだ。
なんだかうまく尾行を躱されたような気分になる。
しかし、今はそれどころじゃない。
――何者だ。
――なんでここにいる。
――なにをしようとしている。
あらゆる疑問に答えが見つからない。
「お前――」
ネメシスに向かっていたサレの視線は、少女に釘付けにされた。
対する少女はサレの視線に気づくと、その顔をわずかばかりの喜色に彩りながら、言葉を返していた。
「はじめまして、魔人さん。君のことも気になるけど、今はマキシアの命令とおねーちゃんの方が優先。機会はきっとあるだろうから、また今度ね」
動きを止めていたサレが、しかし再び動き出す。
少女の抽象的な言葉の羅列に、ある一つの意図を見出していた。
細かい分析なんて今は必要ではない。
この女は『向こう側』の存在だ。
ネメシスの助力に来たのだ。
――逃がすか。
少女の視線がネメシスに向いていた。
同時にサレの目もネメシスに向く。
先に――
「【殲せ】――」
「ネメシス、あたしの中に入るといいよ」
どちらの方が早かったろうか。
一瞬だった。
ネメシスの身体が消え去ったのは。
しかし、当人たちにはどちらが早かったのか分かっていた。
「危ないなぁ。ネメシスも少しくらい考えて欲しいよ。神格者に頼らないと神界にすら出入りできないくせに」
少女は飄々としていた。
対してサレは苦々しい顔をしていた。
――逃げられた。
サレは内心で短い悪態をついた。
だが、まだだ。
まだその女はここにいる。
むしろ、実体のある存在になっただけ、より捕まえやすくなったではないか。
「あはは、あたしのこと捕まえようとしてるんだ。あそこにいる銀騎士の長みたいに、あたしの身体にメロメロになっちゃった? やっぱり男ってそんなものなんだね。ま、そんな性癖のおかげであたしはテフラで暗躍することができたんだけど」
飛躍した言葉がサレの耳を穿つが、もはやサレはそれに取り合う理性を捨てている。
理性はすべて彼女の捕縛方法を考えることへとつぎ込まれていた。
ちょうどその頃になって、後ろの方から聞こえてきていた〈凱旋する愚者〉のギルド員たちの声がさらに近づいてくる。もう少しだ。じきに皆合流できるだろう。
「あっ、おねーちゃんが来たね。一言だけ言って、今日は帰ろうかな」
「逃がすと思っているのか」サレの脳裏に言葉が浮かんだ瞬間、サレの身体は前に弾けていた。
「大人しくしててよ、魔人さん。ほら、ちゃんと助けないと――『王国が死んじゃうよ』」
サレの身体が高速で動き出したのと同時、少女の方も動いていた。
少女は地面に手をつき、そこに術式を描写していた。
幾何模様と神語によって構成されたその術式は、『神格術式』だ。
それに気づいた時には、彼女が展開した神格術式が発動していた。
◆◆◆
その日、空都アリエルは巨大な揺れに襲われた。
◆◆◆
空の大地が揺れる。
ときたま浮遊島が風に揺られるだとか、そんな生ぬるい揺れではなかった。
明らかな異変。
何事かとサレがその術式陣に目を向けた直後、その術式陣がさらに高速で周囲に広がっていった。
まるであらかじめそこに描かれていたかのような、巨大な術式紋様。
さすがにこの場で全てを編むには、無理があるであろうと思わせる膨大量の術式は、空都の石床を凄まじい速度で走って行った。
そして――サレはようやく揺れの原因に気付いた。
気付かされた。
その術式陣の中心から、アリエルの地面が『崩落』し始めていた。
疑う。
地面が落ちていくという光景を、思わず疑う。
引きつるサレの表情とは対照的に、少女は笑みを浮かべていた。
「どんどん落ちちゃうよ。こんなに大きな空の大地が崩れて、ナイアスに落っこちたら――どうなっちゃうんだろうね?」
サレの顔から血の気が引いた。
サレだけではない。
少女の行動の意図を知った者たちの顔から、一斉に血の気が引いていた。
この女は今、テフラ王国に住まう者すべての敵になった。
「自分が何をしたか分かっているのか……!」
「分かってるよ。あたし、ちゃんと自分の立場分かってるもん。おねーちゃんよりずっとずっと、分かってるもん」
その時の少女の顔には、あどけなさだけが煌々としていた。
艶めかしい色は消え、一人の年端もいかぬ少女のように、頬を膨らませてふてくされている。
――狂ってる。
サレの胸中に言葉が浮かんだ。
「お前の方が、サフィリスなんかよりずっと狂ってる」
「あはは、そりゃあ、違う趣向の舞台に立っている役者は、その趣向を知らない観客から見たら狂っているように見えるかもしれないよ。ふふ、これはマキシアの言葉だけどね」
『これ』を引き起こしておいて、なぜ笑みを浮かべていられるのだ。
サレの身体が少女から数歩のところで止まり、その眉間に皺が寄る。
目には怪訝な色が浮かんでいた。
「あたし、たぶん魔人さんとやりあっても少しくらい抵抗できるから、相手してあげてもいいけど――その間に下の湖の街は壊れちゃうよ?」
サレには考えている時間がほとんどなかった。
アリエルの空中地盤の崩落が、思った以上に深刻だった。
自分が立っている地盤さえも、ともすれば崩れてしまいそうな脆さを呈し始めている。
サレの脳裏に浮かんだのは、『逃げろ』という自分を救うための命令ではなく、
『逃がせ』という仲間たちを救うための命令だった。
手傷を負ったアルミラージをはじめとして、自失状態のサフィリス、そしてメイドたちや、晶人たち。この場へ今にもやってこようとしている〈凱旋する愚者〉のギルド員たち。
なによりも、
――ナイアスの住人を、助けないと。
サレには少女への最後の一手が出せなかった。
行動のきっかけは次の瞬間に地面を襲った一際大きな揺れ。
目と鼻の先の地盤が崩れ、街路に面した建物ごと、それは眼下へと崩落していった。
「じゃあ、あたしは行くね。ばいばい、魔人さん」
サレが踵を返して崩落し始めた地面の『穴』に飛び込んだのと、少女が走り出したのは同時だった。
少女の行先はさっきまでサレが立っていた場所の後方。街路の向こう側、〈凱旋する愚者〉のギルド員たちがぽつりぽつりと見えていた方向だ。
加えて、サレと少女以外のその場にいた者たちも、状況を察して動きだす。
ギリウスはサレを追った。追うしかなかった。サレ一人では、この大規模な災害を止められないかもしれない。
メイドや晶人たちは、周囲の建物の中へ壁をぶち壊しながら最速で入って行った。避難していない者たちがいないか、確かめなければならなかった。
また一部のメイドたちは、アルミラージとサフィリスを担ぎ上げて、一心に〈凱旋する愚者〉の面々が駆けてくる方向へと走った。彼らが使ってきたであろう西側の転移陣を使って、二人をナイアスに避難させるために。
一部の晶人たちも、倒れている銀騎士を拾いあげて同じようなルートを走り出す。
王族の舞台に幕が下ろされた直後に――
崩落の序曲が鳴り始めていた。




