181話 「魔神への階段」【前編】
腕が空間の奥へと入っていく。
気味の悪い光景と、気色の悪い感覚。
しかし、サレは迷うことなく奥へと手を突っ込んだ。
そして、
――引っ張り出してやる。
残忍な加虐心が、サレの脳裏を支配する。
今だけは、この加虐心も悪くないものだと思える。
――お前だけは、絶対に――
残忍に、冷酷に。もはや慈悲など必要ない。
これに対してはそれでいいと、自分の理性すらもが雄叫びをあげている。
サレの手は細い何かを握り、そしてそれを引っ張り出した。
絶対に話すまいと握力を込め、つかんだものの中からボキリと何かが砕ける振動が伝わってきたが、構うことはない。
無理やりにそれを術式陣から引っ張り出そうとすると、術式陣の途中で向こう側の物体が引っかかった。
狭まっていた術式陣の枠に引っかかったのだ。
「開けよ」
しかし、サレはもう一方の手でその術式陣の枠を『掴み』、思い切り広げてみせた。
無理やりに枠をぶち壊し、まるで鍵のついた扉を力づくでこじ開けるかのようにして、術式陣の枠を拡張してみせた。
まさしくそれは暴虐の化身であった。
摂理を力ずくでぶち壊していく怪物。
加虐に邁進するその姿は、見ていた者に言い知れぬ恐怖を抱かせた。
鍵を掛けても無理やりそれをぶち壊して侵入してくる者に、恐怖を抱かぬものがいようか。
まさしくそれを、あの術式陣の向こう側にいる者はやられているのだ。
バキバキと、不穏な音が響いた。
術式陣から響いてくる音だ。
いつの間にかサレの両手には黒炎が宿っていて、それが燃え盛る音も混じり始めていた。
『ば、化物め……!』
復讐神ネメシスがわずかばかり動きを止めて、頬をヒクつかせながら言葉を紡いでいた。
しかし、すぐさま眼下のサレを突き飛ばそうと近寄って行く。
「ギリウス」
直後、サレの声が再び響いた。
そして――
『な、なに――ッ』
直後、ネメシスの身体が紅黒い巨塊に薙ぎ払われて――霧散した。
それは、
「やっとこっちに加勢にこれたのである」
竜神と化したギリウスの『拳』だった。
◆◆◆
ギリウスは両腕から深紅の炎のような粒子を派手に放出させながら、サレの傍らに一瞬で飛翔してきた。
そしてその拳を振り上げて、サレに手を出そうとしていたネメシスに向けて振るった。
力神の力層をもぶち割る拳が、ネメシスの身体に直撃する。
ネメシスの声は最後まで響かずに、その途中で途切れた。
「あんま殴った感じがしないのである」
「すぐに再生する。止めておいてくれ」
「承知である」
サレはまだサフィリスの首後ろの術式陣と格闘しているが、すでにサレが掴んでいる神族の腕はほとんどが露出していて、あとは術式陣さえ広がれば引っ張り出せそうだった。
「サレ……さん……」
「待ってろ、アルミラージ。絶対助けてやるからな。お前も、サフィリスも」
サフィリスの身体を隔てて反対側にいるアルミラージが、柔らかな微笑を浮かべてうなずいた。
それでもやはり、少しつらそうだ。
腹にはまだ槍が刺さったままで、サフィリスも泣きじゃくっていて、状態的には混乱の極みである。
二人の状態を見て、時間がないことを強く意識させられたサレは、
「――早く――しろよ!!」
思わず声を荒げていた。
――お前にてこずっている場合じゃないんだ。
そうして怒りと共に力を込めて、ついに――
バキリ、と術式陣が音を立てた。
壊れたのだ。
一気にそれが広がり、霧散するように消えて――同時、その中から白い人型が引っ張り出された。
◆◆◆
それはひらひらと宙を踊る葉っぱのように、軽い動きで空を走った。
サレに腕を掴まれて、大きく引っ張り出されながら、身体を風に舞わせる。
とにかく体が細い。
まるで棒のようだ。
そして髪がすさまじく長く、顔のすべてが髪に覆われていて、表情など到底窺えるものではなかった。
しかし、サレは迷わずそれに害意を向ける。
同時、
「ユウエル!! 狂神はこいつか! ――答えろッ!!」
ユウエルは神族の王だ。
当然狂神がそれであると判断できる者である。
しかし、ユウエル自身も神族だ。
自分が今から何をしようとしているのか、おそらくユウエルも気付いているだろう。
それを知って、はたして神族であるユウエルは『是』と言うだろうか。
ユウエルは一瞬言いよどんだ。
一瞬だ。
そして、
「――そうだ」
哀しそうな、切なそうな、そんな青色に染まった表情を浮かべ、項垂れと共に言っていた。
神々の王をして、今回の出来事を擁護せざると、そう判断したがゆえの答えだった。
「――分かった」
――ならば。
サレは狂神の腕を掴みながら、それを振り回し、最後に地面に思いきり叩き付けた。
言葉にならない吐息が叩き付けた白い身体から漏れる。
女の声か、男の声か、幼い声か、老いた声か。
――知らなくていい。
「お前は今から、死ぬんだから」
サレは今までで最大級の悪意と害意を、地面に叩き付けた白い身体に向けた。
◆◆◆
〈神を殲す眼〉はネメシスの身体の格と同等だった。
勝りはしない。
だからネメシスは再生した。
狂神アーテーはどうなのか。
ネメシスの焦りを見ると、マキシアの最高神格は供給されていないのかもしれない。
最高神格を有するにも条件があるのか。
ともかく、
――失敗は許されない。
ここで取り逃したら、すべてがだめになる。
絶対に、確実に、殺さなきゃだめだ。
また、相手に最高神格が供給されているか否かで結果が決まるような『力』は、今後役に立たない。
独力でその最高神格に手を伸ばしていけなければ、いずれ自分の力には限界が来る。
だから、ここで超えるしかない。
この眼は最高神の格に届くのだろうか。
――届く。
届かせる。
なんとしてでも――殺してやる。
◆◆◆
「【殲せ】!!」
◆◆◆
サレの赤い瞳が輝いた。
金の六芒星の紋様が閃き、目に見えぬ破壊の力が走る。
サレは凝視した。
その神族の身体を、凝視した。
思念は一つに収束し、ただ破壊のみを願い、魔人の固有の力を発揮する。
ただ一つ、それまでの〈神を殲す眼〉の発動とは変わっている点があった。
サレの言霊は、その時に限って、害意の矛先に向けられたものではなかった。
まるでその眼に命令するかのように、『殲せ』と叫んだ。
殺せと、滅ぼせと、そう命令していた。
一体であるはずのその眼に、まるで自分のものではないかのごとく、命令を下す。
そしてまた、その瞬間には別の動きも起こっていた。
黒炎が、サレの右腕を這い上がるようにして登って行き、終にその右眼を覆っていた。
片眼だけ。
まるで力を分け与えるかのように、黒炎が〈神を殲す眼〉の上で揺らめいた。
直後――
サレの下で伏せっていた白い身体が――
朽ち果てるように――
消え去った。
◆◆◆
『神が……死んだ』
◆◆◆
神々の王の驚愕を含んだ声が、その白い残滓を追うように空に舞いあがった。




