179話 「狂気に罰を、無垢に愛を」【前編】
アルミラージは誰よりも早く空都への転移陣を抜けていた。
そして宮殿を走り抜け、騒動の音を聞く。
アリエルの中央通り。そこだ。
「サフィリス様……!」
そこにきっと、自分が守ろうと決めた王女がいる。
大人ゆえの哀愁と、そして子供のような無邪気さを内包した、愛すべき彼女が。
◆◆◆
アルミラージが中央通りの端っこにようやくたどり着いた時、目の前に広がったのは『戦場』であった。
剣を振るう者、剣を受ける者。
道に倒れている者、道に立ち塞がる者。
そしてその奥に、魔人と対峙している〈サフィリス〉の姿があった。
サフィリスの頭の上には、ゆらゆらと漂う白い身体をした女がいる。
独特の白光を放つ風貌は、紛うことなき〈神族〉のそれだ。
――あれは……!
アルミラージはその神族とサフィリスを見て、胸中で驚きの声をあげる。
直後、アルミラージの心中を襲ったのは強烈な不安感だった。
サフィリスの目が虚ろだった。
ずっと近くで見ていたから、それが異常な状態であることはすぐに分かった。
今、かつて自分を圧倒した魔人――〈サレ〉が、サフィリスに向かって疾駆を開始した。
速い。
我ながらよくあんなものと剣を合わせられたと思う。尻尾を巻いて逃げ出さなかったあの時の自分を、いっそ褒めてやりたいほどだ。
そのサレがサフィリスに向かって駆けていくが、どうやら狙いはサフィリスではなくあの上部の『神族』のようだった。
黒くうごめくものがサフィリスの身体を登り、その上に浮いている神族に跳びかかっている。黒い炎のような身体を持っている不思議な生き物だ。サレの術式だろうか。
また近場の家の屋根にもその蟲のようなものが登って行って、神族に跳びかかっていた。
翼はないようだが、その蟲の動きは素早い。
あんなものに襲い掛かられては普通の生物はひとたまりもないだろう。
しかしあの神族は、噛みつかれこそすれど、すぐに噛みつかれた部分が再生していっている。
――神……か。
なるほど、そういう部分を見ると、やはり神族は神のごとく見えてしまう。
しかし、黒い蟲の方も負けてはいない。
異様なしつこさだ。
しかもサフィリスが持っている白い槍に貫かれても死んでいない。
アルミラージは中央通りを駆け抜ける。
ギルド同士が戦っている場所は、思ったよりも激しさが失せていた。
勝負が決しようとしているのだ。
なんといっても――〈黒竜〉がいる。
アルミラージの目には、空を縦横無尽に飛翔し、その圧倒的な暴力をいかんなく発揮する〈黒竜〉が見えていた。
グリフォンの姿があるが、その大半が黒竜――ギリウスによって地面に叩き落とされている。
地上部の戦闘も、銀鎧の騎士の数が少なく、白黒の侍女服に身を包んだメイドと、華美なローブを身にまとった結晶人らしき者たちが優勢に進めていた。
アルミラージはそこを抜け、ついにサレとサフィリスに迫る。
「――サフィリス様!」
サレの動きが加速している。
長大な刀身の術式剣を片手に、サフィリスの周りをぐるぐる回っていた。
まるで隙を窺っているようだ。
牽制し、踏み込む。
しかしそこへサフィリスが白い槍で応戦する。
サレはやりづらそうにしていた。
否、やりづらそうというよりも、なんだかサフィリスの動きを探っているような感じだ。
「サレさん!」
サフィリスに声をかけても反応がない。
だからアルミラージはサレに声を掛けた。
しかし、サレはサレで戦闘に対する異常な集中を見せていて、アルミラージの声はサレの耳を穿つことなく空に霞んでいった。
――私は……
ふと周りを見ると、レヴィに押さえつけられているジュリアスがいた。
その顔にはいつものジュリアスからは想像がつかないような冷たい表情が映っている。恐ろしい表情だ。
そのうえ、レヴィに組み伏せられているという現状が、アルミラージに並々ならぬものを想像させた。
そうやって抑えねばならないほどの激情に駆られているのだと、アルミラージは正確に察知する。
伊達にテフラ王族に関わってきたわけではない。
そしてまた『あのジュリアス』が、こんなになってしまうほどの出来事が、今さっきここで起こったのだと察知した。
たぶん、この状況は……自分が思っている以上に抜き差しならないものだ。
確信。
アルミラージは一つの決心を即断で胸に落とした。
サフィリスに『自分で止まることのできる力』を身に着けさせるために、サレとジュリアスと一緒に考えた方策。
完全な状態でそれを敢行できる状況ではないが、似たようなことはまだできる。
だから、アルミラージはサレとジュリアスに黙って、独断で『それ』を敢行することにした。
「――行きます」
誰にいうでもなく、アルミラージは声に出した。
自分の決意を自分で後押しするように、言葉を紡いだ。
そうしてアルミラージはサレの動きを観察する。
いつサフィリスに接敵するか。
問題はそこだ。
サフィリスはサレに接敵された時、まるで壊れた人形のごとく手に持った白い槍を突き出す。
そこを狙う。
――私はもう一度、サフィリス様の前で死にましょう。
『あの日の再現』をすることが、三人の紡いだ方策であった。
◆◆◆
サフィリスはあの時、自ずから止まったという。
自分は死んでいたから知らないが、自分の「お退き下さい」という言葉を聞き入れて、サフィリスは自ずから退いたという。
これは劇薬的な療法だ。
それをもう一度サフィリスに思い起こさせる。
もう一度、自分で止まってもらう。
一度でダメなら、二度だ。
サフィリスにはまだ――可能性が残っているのだ。
サレとジュリアスが見出したその可能性を、自分は信じる。
彼女の精神に負荷をかけることになるのは分かっている。
だけど、
――あなたにはそろそろ、『罰』が必要でしょう。
彼女には叱ってくれる者がいなかった。
彼女自身が『この人に叱られるのなら仕方ない』と思える人物が、ほとんどいなかった。
かろうじてその位置にいられたのはキアル第一王子。
あの最も王位に近かった王子が死んでからは、サフィリスを叱れる者はいよいよ本格的にいなくなった。
だったら自分が叱ってやるなどと、そんなだいそれたことは考えないが――
でも――
――このままでいいとも、思っていませんからね。
サフィリスを思うなら、きっと――
◆◆◆
そして、サレがサフィリスに接敵する。
アルミラージは誰に言われるでもなくして、その二人の間に駆け込んだ。
間に合う。
ギリギリのところで、サレの方は剣を引いていた。アルミラージの乱入にギリギリで気付いて、その身体を斬ってしまわないように、とっさに剣を引いたのだ。
しかし――
サフィリスが突き出した白の槍は、少しも止まることなく、アルミラージの腹部を貫いて行った。
◆◆◆
「サフィリス……様……」
サレはアルミラージがその場に来ていたことに、最初気付いていなかった。
黒蟲の術式処理と、戦闘への思考。サフィリスへの観察に、ネメシスの性質の分析。
とかくサレの思考は一杯一杯だった。
しかし、ギリギリのところでアルミラージの姿を視界の端に捉え、〈改型・切り裂く者〉を引く。
反射のようにその場を離脱して、目の前の光景を再び見据えた。
「――アルミラージ!」
サフィリスの槍に、アルミラージは貫かれていた。
血は出ていない。
しかし、アルミラージは苦しげだった。
死族は外圧に強く、普通の人族が死ぬような傷でも死なないと言うが――
あの槍は神族の槍だ。
神格による攻撃は、果たしてアルミラージにどういう影響を及ぼすのだろうか。
特に、アルミラージの身体はシルヴィアの術式によるところもあると話に聞いている。
もしそのシルヴィアの術式が、神格よりも格が低かった場合――
アルミラージの身体は、やはり消えてしまうのではないか。
アルミラージの『死の再現』をしようと、確かにジュリアスと話して決めていた。
サフィリスに対する劇薬にはそれが一番だと、残酷であるとの自負を得ながらも、真面目に話し合って決めた。
アルミラージもそれに強いうなずきを返していた。
しかし、
――これは……だめだろう……
こんなやり方は望んでいなかった。
アルミラージが死族であることをしっかり考慮して、『アルミラージも生きられる方策』を決めた。
なのに、これでは――
「これじゃあ――だめだろう……っ!」
サレはサフィリスとアルミラージの姿を、ただ茫然と見ているしかなかった。
それでも、わずか数秒でサレは意気を取り戻した。
サフィリスの上にいるネメシスが、黒蟲を掃いながら眼下のアルミラージを直視していたのが見えたからだ。
その瞳には敵視の色が見えていた。
『取り戻すつもりね、小賢しい坊や!』
黒蟲の攻勢をあえて受容して、ネメシスが高度を下げた。
アルミラージに対する処理の優先度をあげたのだ。
アルミラージの存在が、ネメシスにとって邪魔であるようだった。
だから、
「やらせない……!」
サレは再び手を合わせる。
合掌からの術式展開。
――アルミラージには触れさせない!
もっと強い蟲を。
もっと速い蟲を。
少しの間だけでもいいから、ネメシスの動きを完全に止めていられる蟲を。
【蟲に羽をつけなさい。事象式は教えたよ。ここぞという時にちゃんと成功させてこその、魔人皇だ】
サレの脳裏に優しげな声が響いた。
『黒炎の意志』から伝わってくる四代目魔人皇の声。
その声が頭の中に響いた時には、サレは追加で黒蟲を創造していた。
今度は宙空に広がった術式陣から直接、それは生まれ出でた。
羽音を鳴らす、黒い蟲。
たったの四匹。
しかし、それは他の羽のない蟲よりも大きく、そして速かった。
四匹の黒羽の蟲が、一瞬にしてネメシスのもとに飛翔し、アルミラージに伸ばしていた手を食いちぎった。
転回。
さらに蟲が返す一噛みで、ネメシスの逆の腕を食いちぎっていく。
連打。
ネメシスの再生が追い付かないまでの速度で、蟲が白い身体を食いちぎった。
サレは頭の中でガンガンと煩わしい衝撃が鳴るのを感じながらも、術式を処理し続ける。
――アルミラージが、サフィリスを取り戻すまでは。
なんとしてでも――……