178話 「黒白が踊る」【後編】
それは真っ黒な『蟲』だった。
蜘蛛のような六足で、大きさは拳ほどもない。
小さい蟲だ。
しかし、とかくそれは『多かった』。
とてもではないが数えられない数だ。
そんな無数の黒い蟲たちが、サレの足元からまるで影が立体になっていくかのようにぽこりぽこりと生まれ出で、鋭い奇声をあげながらサフィリスに向かって行った。
蟲たちの進軍は速い。それが見る者にぞわりとした寒気を感じさせた。
当のサレは、まだ合掌の状態を崩していなかった。
合わせられた掌から広がった術式陣は、その構成線からパチパチと黒い炎をあげていて、まるで術式そのものが生きているかのように、『生物的』であった。
「喰らい尽くせ」
サレがもう一度言う。
蟲たちに語りかけるように、その声を深く沈ませる。
――単発の攻撃では有効打になり得ない可能性がある。
〈神を殲す眼〉を使って気付いた。
この固有術式でさえ、神の身体を完全に消し去るにはまだ何かが足りないらしい。
単発ではすぐに再生してしまう。
となると〈黒砲〉は相性が悪いだろう。
そこで思い浮かんだのが、つい先日ようやく発動に漕ぎつけることができた四代目魔人皇の黒炎術式――〈黒蟲〉だった。
術式で『生物』を創ることの、なんと難解なことか。
自律運動をこなす生物となればなおさら、それを表す事象式と変数式が膨大になる。
――軋む。
サレが視線を向けた先に、地を疾駆する無数の蟲たち。
可能であればもっと蟲を作って、数による有無を言わさぬ蹂躙をしてやりたいが、頭の中の軋みが自分の限界を知らせる。
「――行け」
そしてついにサレは合掌を解いた。
手の間に広がっていた術式が解かれ、新たな蟲の生成は止まる。
対して、現出した蟲たちはサレの言葉に歓喜の声で応えていた。
金切声。
空気を削るような蟲の雄叫び。
空間が蟲の声に蹂躙されていく。
「そうだ、あれを喰い殺せ」
サレの紡いだ命令に、再び蟲の雄叫びが返された。
走り行く黒の波。
黒蟲は黒炎の神格を持った生物だった。
それ一体一体の一噛みが、窮鼠の如く、神族の身体を喰らう。
端的な破壊力という点では他の黒炎術式に及ばないかもしれないが、その局所的な効力が、神族に対して鋭い牙となる。
纏わりつけば、喰らい尽くす。
連続的に、その黒い蟲は神族の肉を喰らう。
『なぁに、これ。すごく気味が悪い蟲ね。でもこんなちっぽけな蟲で私の身体がどうにかなると思って?』
黒い蟲はその小さな身体から黒炎を発生させながら、サフィリスの身体を目指した。
先頭の一匹がその白い脚を登り始める。
ネメシスはまだ笑みを浮かべていた。
〈神を殲す眼〉を喰らっても動じなかったところを見ると、ネメシスには自信があるらしかった。
最高神マキシアに最高神格を供給されているがゆえの自信か、それとも別の理由による自信か。
ともかく、自信のそれとも傲慢のそれとも判断がつきにくい笑みを、復讐の女神は浮かべていた。
だが、そんな復讐の女神の笑みは直後に消える。
黒蟲がサフィリスの身体に登り、腰のあたりにまできて、獲物を見定めるかのごとくふとその黒い蟲の眼をネメシスに向けた途端、
『――っ、良くない蟲ね』
ネメシスの顔から笑みが消えた。
それまで余裕の笑みを見せていた顔が、堅い表情を載せていく。
余裕から緊張への変容だ。
『散りなさい』
直後、ネメシスの短い声が響いて、サフィリスの足を登ろうとしていた黒蟲に、白く輝く水が襲い掛かった。
水の刃。
まるでジュリアスが右手に宿していた白く輝く水と同じものだ。
ネメシスが振るった腕から、その水が溢れ出て、刃となって正確に黒蟲を打った。
しかし、
『これ……斬れない!』
そして消えない。
炎のように燃え盛る黒い蟲は、白く輝く水に直撃されても、吹っ飛びこそしたが死にはしなかった。
刃で切れることもなければ、水で鎮火されるでもない。
黒蟲はまるで傷を負わなかった。
「その程度で四代目の『蟲』が散ると思うなよ……!」
言葉を返した瞬間、今度はサレの身体が動く。
背に黒翼はないが、それでも疾駆の速度は超人的だ。
左手に皇剣を持って、そこに蒼い〈改型・切り裂く者〉を装填し――行く。
その間にも黒蟲たちがサフィリスの身体を登り続け、その白く艶やかな肢体を這いあがり、ついに彼女の肩のあたりにまで集まってきた。
狙いはサフィリスではない。
その上にいる、ネメシスだ。
黒蟲が跳ぶ。
『近寄るな!』
ネメシスがそれを手で掃うが、構わずに黒蟲たちがどんどん跳んでいく。
ネメシスはサフィリスの上部から離れない。
サレはその側面に回り込みながら、ネメシスの行動を観察して、分析を開始した。
――サフィリスから離れられないのか。
何か制約があるのだろうか。
神界術式の中に逃げ込むという選択肢もあるだろうに、ネメシスは逃げようとしない。
サフィリスがこと切れたように虚ろになったのも、ネメシスが表に出てきてからだ。
――現界に出てこないと、十分にサフィリスを傀儡にできないのか?
考えながらも、サレは皇剣を振りかぶった。
サフィリスは無視だ。
斬るべき位置を上部に設定し、回り込みながらネメシスに近づく。
しかし、
「――くそっ!」
サフィリスの身体がサレの方を向き直り、その右手にいつの間にか召喚していた白い槍を持って、サレを突き刺そうとしていた。
サフィリスを動かないものと断定していたサレは、とっさの動きに少し狼狽するが、すぐさま反応する。
皇剣を槍の柄に打ち付けて、その軌道を逸らした。
一歩下がり、サフィリスの顔を見る。
「サフィリス――」
答えはない。
目は――
――生きているのか、死んでいるのか、判断に難いところだ。
彼女の意識は、まだ生きているのだろうか。
「あれは槍神ソルの神格槍だな……」
さっきのディオーネの術式といい、どうにもロキと一緒にいたメルという少女を思い出す。
盗神ヘルメスの生まれ変わりである彼女は、他人の術式を『盗んで』使っていた。
あれと同系統の術式だろうか。
――『復讐神』。
サレはようやくそれに思い至った。
「喰らった攻撃を『やり返す』のか」
似たようなものだ。
なるほど、確かに『復讐』だ。
ならば、
――〈神を殲す眼〉は?
すでに二発、使っている。
だが、ネメシスはあの黒蟲に手こずっている。〈神を殲す眼〉を使ってきそうな様相ではない。
――違いはなんだ。
サフィリスと、ネメシス。
――……どちらがやられたか、か。
気付く。
サレの思考は戦闘に際して加速度的に閃いていった。
――なんだかんだといって、ネメシスは神格者の被弾がなければ力が使えないのか。
人から生み出された復讐神。
ゆえに、マキシアの傲慢の配下に下っていても、個人では復讐の力を振るえない。
特に人と関連した概念を司る神族は、かえって自分が力を使う場合にも人という媒体を必要とするのか。
――もしかして……
こうして表に出てきたこと自体、ネメシスにとっては想定外だったのではないだろうか。
出てくる意味がないではないか。
サフィリスの意識がこと切れたことくらいしか……
「――それか」
サフィリスの意識を、断っておきたかったのだ。
なぜ。なぜ断っておきたかった。
サフィリスが、自力で『正気』に戻りそうだったから。
◆◆◆
情報を統合し、的確な補完を加え、サレは一つの答えを知る。
『サフィリスは戻れる』。
少なくとも、戻ろうとしていた。
行き過ぎてもなお、まだ戻ろうとしていたのだ。
ジュリアスにそれを教えてやりたい。きっと喜ぶだろう。行き過ぎた狂姫の中にも、まだ『第二王女』はいたのだと。あれはお前の姉であるのだと、伝えてやりたい。
でも――
――今はだめだ。
ジュリアスも冷静ではないし、なによりこの状態でそれを伝えたって意味はない。
現にサフィリスは傀儡と化しているのだから。
すべてを救ったあとでなければ。
そうすればきっと、自分なんかがわざわざ伝えなくとも、ジュリアスとサフィリスはお互いの想いを知るだろう。
だから、
――サフィリスを、取り戻す。
殺すのは簡単だ。
サフィリスの身体を壊せばいいのだ。
どういうわけか、ネメシスはサフィリスの身体に頓着していない。
駒だと言っているわりに、黒蟲がサフィリスの身体を這った時に反応を見せなかった。
否、駒だからこそだろうか。
――使い捨ての、駒なのか。
ただ、ネメシス自身は黒蟲の攻撃を嫌がった。
油断はできない。演技かもしれない。
しかし、ここで勘ぐっても意味はない。
――行け。
動いて、さらに情報を引き出せ。
もっとも気になる〈狂神〉の尻尾を引きずり出せ。
引きずり出したら――
――撃滅しろ。
サフィリスの狂気を助長しているだろうその神を――殺すのだ。