176話 「黒白が踊る」【前編】
サフィリスはジュリアスの想いを初めて知った。
ジュリアスの本当の想いを、初めて知った。
ジュリアスが闘争に際して何を考えているかは、それらしく察知できていた。そういうことには勘が利くようだった。
一番最初に〈凱旋する愚者〉にちょっかいをかけた時も、ジュリアスが王権を得るために彼らを偵察したのだと、なんともなく気付いていた。
しかし、サフィリスはジュリアスの本当の想いを、何一つ知らなかった。
――私は……他の兄弟姉妹に……
甘えていたのだろうか。
よく、分からない。
自分の身の内に『享楽』は確かに存在する。
それは幼少時から続けたきた慣習によって身についた性格なのかもしれないが、この年齢までくれば、もはや性根とさえ呼べるものだ。
だが、ならば、その幼少時の慣習は、誰によって許されたのか。
――許されていたという状況にさえ、私は気付いていなかった。
誰かが矯正しようとすれば、もしかしたらできたのだろうか。
分からない。
矯正しようとしなかったことも、逆に言えば不干渉、無関係を装った、冷徹な接し方だったかもしれない。
どちらとも言えてしまう。
自分が悪かったのか。周りが悪かったのか。
しかし――
たぶんそれを決めることに、意味はない。
それはいいのだ。
もう、いいのだ。
こうなったという結果が、すでに出てしまっているから。
でも。
――私は、私を叱咤すべきなのだろう。
ただ一つ、その点に関してだけは自分には非がある。
――私は……
「弟の叫びに、気付いてやれなかったのか……」
年下の弟。妹。
それは自分にとって弱者だ。
守ってやるべき、弱者であった。
だが自分はそれを、
――捨て去ってしまった。
同じこと。
父が自分を捨てたことと、同じこと。
捨てられたのは、キアル王子を除いて皆一緒だった。
それでいて、その中でもっとも弱者だったのは――ジュリアスだ。
誰よりも負を抱えていたのはジュリアスだったはずだ。
自分だけでは、なかった。
――気付いたところで、いまさら私はどうすればいいのだ。
もう、遅いのだ。
私はすでに――
◆◆◆
取り返しのつかないところまで踏み込んでしまっているのだから。
◆◆◆
【サフィリス、狂気に身を委ねなさい】
サフィリスの頭の中に、艶めかしい声が響いていた。
同性であるのにうっとりしてしまうような、妖しい女の声だ。
【サフィリス、己の欲望以外を、捨て去りなさい】
――やめろ。
【サフィリス、盲目になりなさい】
――もういいんだ。
【サフィリス、愛を求めなさい】
――もう私だけが好き勝手に叫ぶのは、嫌なんだ。
【それでも愛を、求めなさい】
――ジュリアスが――また泣いてしまう。
【あなただけが求めるべき、愛を】
――弟が泣いてしまうんだ……
【そして欲望のために、邪魔なものを――】
――。
【――排他しなさい】
◆◆◆
「逃げろ!! ジュリアス!!」
◆◆◆
【あなたがやらないのなら、私が代わりにやってあげる】
サフィリスはその言葉が脳裏に響いた直後、自分の身体の自由が利かなくなったことに気付いた。
かろうじてぎりぎりで叫んだ言葉が、ちょうど街路に響き渡った時だった。
ジュリアスは目を見開いて、こちらを見ている。
――だめだ、ジュリアス。
お前は、
――逃げろ。
◆◆◆
ジュリアスはサフィリスの叫びを聞いて、我に返った。
そしてサフィリスの顔を見た時には、その目がすでに虚ろになっていた。
まるで起き抜け様の半覚醒状態。
そして――
『ああ、いたいた。あなたが王神の神格者ね。――邪魔だから、死んでちょうだい』
サフィリスの口から放たれた次の言葉は、彼女の声とは思えぬほどに甘ったるく、艶めかしい音色を奏でていた。
瞬間。
サフィリスの片手が開いて向けられる。
そして、
『――〈神空砲〉』
ジュリアスに向かって、破壊の空波が放たれていた。
◆◆◆
サレはその瞬間の光景を、離れたところから見ていた。
銀騎士の数は減り、あとは他のメイドや晶人たちに任せても大丈夫だろうかと、そう思っていた矢先、ふと気になって視線を向けた先で、ジュリアスが危機に陥っていた。
サレはジュリアスの反応が鈍いことに気付いていた。
――ジュリアス。
ジュリアス。
心の中で二度呼ぶ。
――おい、聞いているのか。
サレはサレで、自分が声を出していないことに気付かないほど、視線の先の光景を見て混乱していた。
そしてようやくそのことに思い至って、叫ぶ。
「避けろッ!! ジュリアスッ!!」
直後、叫んだサレの背部に、異常に巨大な黒翼が爆発するように発生し、次の瞬間にはサレの身体が掻き消えていた。
◆◆◆
ジュリアスがとっさに〈ディオーネ〉を呼ぼうとして、しかし頭の中で声をかけても彼女が答えないことに気づき、ようやく彼女との契約をテミスによって封印されていたことを思い出した。
そのわずかの反応の遅れが、ジュリアスにとって命とりになった。
空気の波動が、ジュリアスの身に迫ってきていた。
これに触れるのはまずい。
威力は自分がよく知っている。
なぜ彼女がディオーネの術式を扱えたのか、そんなことにばかり思考が巡るが、現状でもっとも必要なのは回避への意志だ。
しかし、
――だめだ。
これは避けられない。
わずかの遅れによってままならぬ状況に陥ったことに、ジュリアスは気付いた。
そして――
次の瞬間、横から凄まじい勢いで身体を弾き飛ばした存在があって、ジュリアスの身体が横に吹き飛んだ。
何事かと思いながらなんとか身体を回し、さっきまで自分が立っていた場所を見ると――
そこには黒炎の翼を宿したサレの姿があった。
直後。
そのサレが空気の波動に巻き込まれ――見ていられないほどめちゃくちゃに回りながら、アリエルの向かいの建物にまで吹き飛んでいた。
「――サレッ!!」
ジュリアスの焦燥を孕んだ悲鳴が、街路に響いた。
◆◆◆
――頭を打った。
サレは自分の身体が回りながら空中を飛び、そのあとに石の壁に激突したのを身体の痛みで確信する。
頭の中でがんがん痛みが鳴っていて、耳鳴りもする。
打ちどころが悪かったようだ。
しかし、
――まだやれる。
サレは折れなかった。
身体が『起き上がるな』と警笛を鳴らしてくるが、それを無視して立ち上がる。
視界がぐわんぐわんと揺れていて、看過しがたい吐き気を催した。
そんな状態でも、サレの視線はサフィリスに向く。
まだ次の動きは見せていない。
次にジュリアスに向ける。
思いっきり突き飛ばしたからそれなりに痛かったとは思うが、どうやら傷はなさそうだ。
――よし。
間に合った。
生身のジュリアスにさっきの波動が当たるのはどうにもまずいと、本能が判断を下していた。
それに間違いはなかった。
最後に自分の身体に視線を向ける。
「はあ……これはひどいな……」
思わず自虐気味なため息が漏れた。
とっさに黒炎を纏った右手を空気の波動につきだして防御したが、その腕がひしゃげている。
自分でこれなのだから、純人族のジュリアスが喰らっていたらもっと悲惨なことになっただろう。
――治るのに、少し時間が掛かるか。
そこから治るであろうことはもはや確信だ。
近頃では何度も何度も重傷を負ってきたせいか、昔以上に傷の治りが早い気がする。身体が傷に慣れたのだろうか。
魔人族であること以上の肉体的な強靭さが、身体に宿ってきている気さえするのだ。
ともあれ、
――皇剣は、まだ左手で持てる。
術式も、編める。
頭痛と耳鳴りが厄介だが、これもそのうち収まるだろうし、たとえそのままであっても意地で術式を紡いでみせる。
サレの思考は自分のダメージの認識を終えると、淡々と戦闘へと傾いていった。
――行けるぞ、サレ・サンクトゥス・サターナ。お前はまだ、戦える。
視線をサフィリスに戻す。
その瞳に映る、金髪の美貌。
しかし、サレの視線はその後にまた移動した。
サフィリスからわずかにズレて、その頭の上へ。
――なんだ、アイツは。
そこには、白い身体に、瞳のない黒い眼を宿した――『神族』らしき女が浮いていた。




