172話 「悲劇で終わらせないために」【前編】
赤い光が尾を引いて落ちてくる。
その双眸から毀れる光は、階下にいた者たちに言い知れぬ恐ろしさを抱かせた。
不穏な色だ。
背で炎の嬌声が鳴っている。
まるで主であるその男に媚びるように、舞い散る黒炎が身体に纏わりついていた。
左手に華美な輝きを迸らせる剣を。
右手に黒色の炎の収束体を。
『魔人』が着地する。
背の黒翼を羽ばたかせて着地直前に減速し、軽い足音を立てた。
直後。
魔人が消える。
弾かれたように、零からの超加速で身体が消えた。
◆◆◆
人の形をした銀色が、街路を横へと吹っ飛んで行った。
一つ、また一つ。
グリフォンの甲高い悲鳴と、鎧越しにくぐもった悲鳴が響いて、直後、騎士だけが街路の横に吹き飛んでいく。
掌打だ。
ただの、掌打だった。
落ちてきた魔人が、跳躍と同時にグリフォンの背に乗る騎士に襲い掛かり、その鎧の胴部を黒炎の掌で打っていた。
べきり、と金属製の鎧が凹み、数瞬遅れてその衝撃を受けたかのごとく、騎士が弾かれていく。
掌打を撃った直後には、魔人の姿はその場にない。
加速、掌打、加速。
繰り返し、淡々と騎士の数が減っていく。銀の騎士が、魔人の一撃で次々と倒れていく。
強者だ。あまりにも強い、圧倒的な強者だった。
そんな光景を唖然と見ていたメイドや晶人族たちも、ようやく『それ』が味方であることを確信し、動きを再開する。
有利が生まれた。
思わぬ助力。
見れば、騎手を失ったグリフォンがその魔人から逃げるかのごとく、空へと羽ばたいていくが、それをもう一体の超越的な生物が叩き落としていた。
黒い竜。
竜族だ。
こちらは、まるで上からボールでも叩き付けるかのように、軽々とグリフォンを平手で打っている。
あの空の王とも謳われるグリフォンを、そうもたやすく、まるで蠅でも打つかのように叩き落とすとは、何事なのか。
あれが王ならば、その黒い竜はなんなのだ。
光景を見ていた者たちは、戦慄と同時にそんな言葉を浮かべるが、まだ眼前の騎士もそう減ってはいない。
攻防に意識を向ける。
気付けば、多人数の交戦状況を見定めていた〈神域の王子〉が、踵を返して〈狂姫〉の方へと向かっていっていた。
彼は完全にこちらの状況をあの二人に任せたのだ。
一瞬の判断で。
その行動に、信頼の糸が括りついている気がした。
◆◆◆
ジュリアスはサレとギリウスが降ってきたことを確認し、〈銀旗の騎士団〉との交戦を二人に任せた。
――まだ、今回の騒動は『王権闘争』のせいだ、と言い訳することはできるだろうか。
ジュリアスはサフィリスとレヴィが対峙している場所へと走りながら、そんな言葉を浮かべる。
言い訳。
それは自分が使うためのものではない。
サフィリスに使わせるための言い訳だ。
これだけのことをしておいて、のちのち民や高級貴族たちに責任を追及された時、サフィリスは逃げきれるだろうか。
王権闘争との言い訳が使えれば、まだ言い逃れはできるだろう。
しかし、それさえなくなると――
――……。
――ギルド間の闘争は、まだいい。
すでに〈傍に仕える者〉と〈烈光石〉が助力しているが、これらは今回の王権闘争の参加ギルドだ。
王権闘争の中で交戦し、自分と〈凱旋する愚者〉が勝ったから、それを材料に交渉をした。
ややぎこちない言い分であることは理解しているが、まだこれは通る。
エルサが他ギルドの武力を借り入れる手法を使っていたことが、ここで生きる。
しかし、他王族の直接的な介入は、言い訳が辛い。
一応これだけ派手になってきた影響で、高級貴族は王権闘争のことを耳に入れている。
彼らの皆が皆、テフラ王族に好意的であるわけではない。
テフラがテフラである所以、他国と繋がっている貴族もいるだろう。
それは仕方ないが、あえてここでそんな彼らに、サフィリスを貶めさせ得る材料を与えるわけにはいかない。
テフラ王族は誰一人欠けてはならない。
それはジュリアスが当初からずっと掲げていた理念の一つだ。
「――レヴィ兄さん! 手を出してはだめだ! 僕が相手になる!」
ジュリアスは叫んだ。
ああして眼前で対峙している二人の間に、一手でも攻撃は飛べば、こんなアリエルのど真ん中で大立ち回りをしているだけあって、どこかの貴族が見ているかもしれない。
だから、それはだめだ。
ジュリアスは駆けた。
そして、
「姉さん――僕が相手です、闘争をしましょう」
ついにジュリアスは二人の間に身をすべり込ませ、高々と宣言した。
二度目の、自分からの闘争宣言。
王族会合の時以来の、自ずからの宣言である。
「――はっ、良いだろう。お前が本気になるというのなら、ここで手を交えるのも楽しいかもしれない」
サフィリスは笑った。
すでに一度、彼女は自分の狂気の源泉を露呈してしまっている。
直情的過ぎる、父性への欲望。
だがまだ、彼女は享楽を語った。
仮にその狂気の源泉がなくとも、やはり彼女は享楽主義者だったかもしれない。
この状況でまだ笑っていられるのだ。
「そう、楽しいはずです。僕も本気を出しますから」
「そんなに多くの対価を払えるのか? まあ、お前ならずいぶん量も目減りするのだろうが、それでも使いすぎれば対価を求められるだろう?」
「あなたとの勝負のためなら、払ってみせましょう」
――命さえも。
口には出さなかった。
それは最終手段であるし、きっとまたディオーネが怒る。
加えて、〈凱旋する愚者〉の皆も怒るかもしれないし、当然の如く、兄弟たちは怒るだろう。
だから、それは最後に。
神族の仕組みが変わったあと、ジュリアスとてまったく神界に関わってこなかったわけではない。
そのあとでも自分に力を貸してくれるという神族を探し、新たに契約を交わした。
変わらずに力を貸してくれていた神族もいたが、一部その契約を破棄した神族もいた。
もともと契約こそすれど、対価の影響もあって、特に使い勝手の良いディオーネや、馴染みのある槍神ソルの力を多用してきたが、今回はさらに選択肢を増やした。
世界の仕組みの変化に対応し、いまだにしっかりと対価を取る者。
今まで通り、少し対価を減らしてくれる者。
そして、今回の出来事で再び自分が調停者であることを自認した者は、対価を通常より重くした。
しかし、ジュリアスは対価が重くなった神族の力をも、あえて必要ならば使おうと決めた。
王神ユウエルの神格者である矜持もある。
自分が信じたい道なのだから、
――それでいい。僕は僕の思う道を、ただ――
突き進む。
ジュリアスがサフィリスに片手を開いて見せた。
「さあ、勝負だ、姉さん。僕はここで姉さんを止めてみせよう」
「ああ、面白そうだな、ジュリアス。お前が本気になる姿を見るのは、とても面白そうだ」
狂姫の幼子のような無垢の微笑が、ジュリアスの視界に映った。