169話 「儚き欲望の末路は」【後編】
テフラ王族は皆腹違いだった。
テフラ王は代々多妻であり、例によって今代のテフラ王も多妻であった。
加えて言えば、特に今代のテフラ王は多妻だった。
理由は深くは分からないが、カイムは自分の母からこんな言葉を聞いたことがあった。
『あの人はね、怯えているのよ』
カイムの母は母というよりもカイムの女友達という気が強く、軽い口調でそんなことを言っていたのをカイムはしっかりと覚えている。
若い母は、カイムにとっても母というよりは友人のようであった。
カイムは生みの母には育てられなかった。
幼少時、四歳か五歳かまでは一緒に話をするくらいの仲ではあったが、決して母ではなかった。その生みの母も数年後にどこかへ消えてしまった。
代わりに乳母に育てられたカイムは、七歳になるころには下の弟や妹たちもずいぶん生まれていて、腹違いながらも兄である意気を強くしていた。
しかし、ただ唯一、自分の兄であるキアル第一王子には、特別な親愛を抱いていた。兄妹として甘えられるのは兄だけだった。
キアル王子は柔和な男だった。
おそらく最も人に好かれる王子はキアル王子であったろうとカイムは思う。
特別に優れた才があったわけではないが、その人柄は誰もが親愛を謳いたくなるほどのものだった。
その笑みは複雑な心境を身に抱いている兄弟たちの心を癒し、その声は天使の歌声の如く耳を穿って、また身体をも癒した。
才能という方面では最後に生まれた第七王子ジュリアスが抜きんでていた。
ある日、まだ三歳ほどであったジュリアスが、王城の空中庭園で何人かの神族と駆けまわっているのを見た時、それを見た王族関係者の数人は卒倒し、またその場にいたカイムも開いた口がふさがらなかったのを覚えている。
数年して、さらに成長したジュリアスが、キアルとカイムにだけ王神ユウエルとの契約の話を相談したことがあった。
その時もカイムは開いた口がふさがらなかったが、キアルはいつもの笑みでジュリアスを諭していた。
ジュリアスは恐らく誰かに支えて欲しかったのだ。まだ十にも満たないジュリアスは、王神ユウエルの存在圧力に当てられて、恐怖に縮こまっていた。
それを察したキアルはジュリアスを優しく支えた。
キアルはとにかく、テフラの兄妹にとって真ん中の一柱、すべてを支える柱であった。
いつしかカイムが憧れるほどに、キアルは理想的な『兄』であった。
そしてそれはサフィリスにとっても同じだった。
サフィリスは幼少時からやんちゃであったが、そんなキアルの諌めの言葉には大人しく従っていた。
キアルは理想的な兄であり、かつ、『父の代わり』のようでもあった。
テフラ現王はジュリアスが生まれたあと、あまり他の王子や王女に構うことがなくなった。
キアルのみに愛を傾倒するようになったのだ。
幼い王子王女から見て、即時に理解できるほどに、キアルは溺愛されていた。
正式な王妃の息子ではないジュリアスにも一応王族としての身分を与えていたが、ジュリアス本人に構うことはあまりなかった。
カイムには、まるで現王がジュリアスを恐れているかのごとく、あえて避けているように見えた。
ともあれ、王族という特殊な生まれにありながら、それでいて父である王とも十分に関わらず、加えて生みの母とも十分に関わることのなかった王子王女たちは、やや曲がりくねった幼少期を経たように思える。
ただ神族という存在や、キアルという父代わりもいたことで、特段に異常に育った者もいなかった。
ただ、サフィリスだけはあのままだった。
異常に育ったというよりは、一部だけがまるで子供のままのように、『育たなかった』のだ。
子供のように無邪気で、欲望に忠実な第二王女。
享楽主義者。
◆◆◆
――違う。
◆◆◆
カイムはそれまでのサフィリスへの印象をすべて取り払う。
サフィリスもあのままではなかった。
ただ、それが自分たちには見えなかっただけなのだ。
サフィリスは言った。
――『父上』の視線を集めるためならば、私は国すらを売って見せよう。
サフィリスの行動の源泉は、『父』の視線を集めたいという欲望にあった。
あの享楽は享楽主義に見えて、その実まったく享楽的ではない。
あれは苦渋の上にある『駄々』なのだ。
あれは、
――悪戯をして親の気を引こうとする、愛に飢えた子の行いだ。
サフィリスは『父性』を求めていたのだ。
◆◆◆
あの環境でまともな育ち方をした自分たちは、ある意味で異常なのかもしれない。
サフィリスの方が、ある意味正常なのかもしれない。
カイムは思った。
――だけど。
もうそれを無邪気に行える年齢にはいない。
自分たちは肉体的に育ち過ぎた。
子供の頃ならば、できることは限られていた。
無邪気に悪戯をしようと、乳母や従者に怒られるくらいで済んだかもしれない。
でも、今はもうそういう段階にはいないのだ。
怒られて終わる程度の駄々で済まない可能性がある。
サフィリスがこのまま突き進んでしまえば、サフィリスは大衆の悪意と、確固たる叛逆の事実に――
殺される。
サフィリスは言った。
国をすら売ってしまえる、と。
これは『王権闘争』ではない。
サフィリスはもっと大きな枠で、『叛逆』しようとしている。
――アテム。
悪戯が、駄々の段階が頂点に達した時、子は親の気を引くためにあえて危ないことをする。
自傷すらするだろう。
サフィリスはテフラ王たる『父』の気を引くために、もっとも今のテフラにとって目につく存在である敵国アテムに、寝返ろうとしている。
――サフィリスは知っていたのか。
最高神マキシアがアテム側にいるという話も。
王神ユウエルがそのマキシアを討つべくテフラ王国を使おうとしていることも。
それを知って、サフィリスはあえてアテムに有利を作ろうとしている。
テフラを売ろうとしている。
シルフィードを削って、テフラの防壁を薄くして――
そのうえ――まだサフィリスは何かをしようと――
――これ以上サフィリスを進ませてはならない。
この先に進ませてしまったら本当に取り返しがつかないことになると、カイムは確信した。
◆◆◆
カイムが大通りに差し掛かり、銀の鎧に身を包んだ騎士と、彼らがまたがる薄茶色のグリフォンと、そして道の真ん中に立ち塞がるジュリアスを見かけた瞬間、場は大きく動こうとしていた。
銀鎧の騎士たちが背の槍を抜いて天に掲げ、
『銀旗に信ずる正義を!』
一斉にそんな大声を発していた。
まるで鼓舞の声だ。
開戦を告げる鬨の声。
そして――
銀鎧の騎士たちが、同じく銀光を迸らせる槍を腰脇に構え――ジュリアスとレヴィに突撃していった。
半分はジュリアスに、もう半分は後方のレヴィに。
カイムは人垣を避けて回り込んだために、二人の間にあった脇道にいた。
騎士の目は向けられていない。
カイムはどちらをも助けにいけなかった。
距離はあるし、手に武器もない。
だが、あったとしてもあえて助けにはいかなかったろう。
ジュリアスとレヴィは、自分の助けがなくともこのくらいならば一人で乗り越えられる。
そう信じているゆえでもある。
それに、彼らには、
――神族がいる。
ジュリアスには天空神が。
レヴィには自然系神族が。
その対価を緩めてまで、あえて力を貸そうとする。
だから、カイムは二人から視線を切り、ちょうど目の前で白のグリフォンに乗ってドレスを揺らしていたサフィリスに目を向けた。
彼女が本気で神族の力を使えば、自分はたちまちにひれ伏すことになるだろう。
単に体術であっても、サフィリスは天才的であった。
カイムとて単純な体術であればそれなりに自信があったが、
――私はサフィリスに拳を振るえるのか。
カイムは自分の甘さを知っていた。
たぶん、サフィリスには拳を振るえない。
たとえそれが必要だと分かっていても、身体が本能的に力を制限してしまうだろう。
でも、
――だからといって、私は引き下がるわけにはいかない。
カイムは疾走への歩を進める。
たとえ自分がサフィリスに斬られようと、それでサフィリスを少しの間でも立ち止まらせることができるなら、それでいい。
カイムは決意した。
走る。
顔を上げる。
サフィリスがカイムに気付いて、その瞳を向けた。
嬉しそうな、それでいて悲しそうな、複雑な色がその瞳に映った。
「止まりなさい、サフィリス!」
「――兄上、あなたがもしキアル兄様より先に生まれていたら、きっと私はあなたを父の代わりに求めたでしょう」
「――サフィリス!!」
「でも、あなたは二番目の兄だった。もうだめなのです。あなたに『それ』を求めるには、私たちは年を取り過ぎた」
子供のままであればよかったのに。
サフィリスの悲しげな声が響いた直後、
「だから、私は『父』のために、あなたに剣を向けてしまえる。――さようなら、カイム兄さん」
兄に対する敬称が瞬く間に変転していく。
兄上、兄様、兄さん。
どれがサフィリスが求めた『兄』であったのか。
どれが父の代わりに父性を求めた『兄』であったのか。
カイムの脳裏に言葉が過り――
「サフィ――」
サフィリスまであと三歩と迫ったカイムの足元に――『白の剣』が現出していた。
切っ先を上に。
今にもそのカイムの身体を突き上げ、
突き殺そうと。
そして――
白の剣が空を舞った。