165話 「空都の風が変わった日」
レヴィ・シストア・テフラはテフラ王城の最上階にいた。
最上階は四方が吹き抜けになっていて、上に凸型の屋根がついているだけで、とかく解放感を助長させるような場所だ。
空に浮く都アリエルの上。巨大なテフラ王城。さらにその最上階。
つまり異常に高い場所である。
吹き付けてくる風もまた、その高度ゆえか強く激しいが、レヴィには特に恐れる様子がなかった。
手すりからも手を離し、両手を広げて身体全体に最上階の風を受ける。
「んー、いい風だねえ」
心底心地よさそうに、金糸の髪を宙に舞わせながら紡ぐ。
ふと視線を下げると、その足元には、
「レヴィ様、レヴィ様! そんな危なっかしいところで両手を広げるとかホント危ないですからやめてください! 見てる方がこわ――うわこっちまで風が――」
「あれ、もしかしてティーナって高いところ苦手?」
梯子を上る途中の体勢でティーナが震えていた。
いつものメイド服を着込み、口元を山なりにキュっと締めている。
わずかに震えているところを見ると、いつもの鬼のような厳しさはどこ吹く風だ。まるで普通の少女のようである。
「ほら、おいでよ。いい風だよぉ」
「レヴィ様、レヴィ様、今ちょっと『積年の恨みをここで!』とか考えました? 考えましたよね!? なんですか、一生そこにいるつもりですか? 降りてきたらどうなるか分かってるんですか?」
「お、降りてから地獄……?」
「大丈夫です。皮を削ぐまでにしておきましょう」
――なにが大丈夫なのか小一時間問い詰めたい。
「そもそもメイドって皮削いだっけ……?」
「ええ、私は究極のメイドを目指してますからね。調理の時に鳥の皮だって剥きますし、つまりそれの応用です」
――なにがつまってそうなったのか是非に問いたい。
レヴィはあと三十分はその場に留まって、地獄への旅路を拒否しようと胸に刻んだ。
そんなことを思いながら、また景色に目を移す。
小さい。
世界が小さく見える。
同時に、広くも見える。
双極する感慨が脳裏に充満するが、しばらくしてレヴィは理性的に思考を働かせた。
顔は西を向いている。
つまり、アテム王国の方向だ。
もちろんそこからあの国を見ることはできないが、ずっと向こうの方に小さな山や、点々とする森のような緑は見える。
「アテムが動くとしたら、あっちの方から来るのかな」
「そうでしょうね。回り込まれたりしていなければ、ですが」
ティーナも真面目な声音で答えていた。
「回り込まれるとしたら――南かな」
「北大陸への道は険しい山岳地帯に遮られていますからね。意味もなく山を越えて北に回り込み、そしてまた山を越えて戻ってくる、なんて馬鹿げた浪費はしないでしょう」
「費用と効果が釣り合わないか」
「さすがに」
ティーナが梯子に両手両足をかけたままレヴィの床下の空間でうなずいていた。
「南は――エルサの話だと〈ウルズ王国〉があるらしいけど、どうなんだろうね」
「エルサ殿下のことですから、すでに例の〈獅子の威風〉の長であるウルズ王レオーネと話をつけているのではないでしょうか。例の話のあと、エルサ殿下も忙しくしているようですし」
「あとカイム兄さんもね」
「あの方は常に人一倍何かしらをこなしていると思いますが、その忙しさをあまり見せないのが超人的なんです。あの方は分身できたりするんですかね?」
「い、いやぁ、さすがにカイム兄さんでもそれは無理なんじゃないかなぁ……」
むしろ、カイムだからこそできないだろう。
神族の力を使えば、もしかしたらそういうこともできるのだろうか。
神格術式も奥が深そうだが、所詮それを借りるだけの身である自分たちには考えが及ばない。
「レヴィ様もあれくらいできれば――ああでも、最近は頑張っている方でしょうか」
ティーナは珍しくレヴィへの皮肉を取りやめていた。
メイドとして取りやめるのが珍しいというのもなんであったが、しかしティーナがレヴィを褒めるのはそれはそれで大事だった。
「ティーナに褒められたなぁ。ご褒美欲し――」
「前言を撤回しますよ」
「うん……」
レヴィがうなだれる。
「レヴィ様、そろそろいいでしょう。下に降りましょう。今日はギルドのメイドたちも久方ぶりにレヴィ様に会いたいと言っていますし、一度拠点に帰りましょうよ」
「そうだねぇ、かわいこちゃんたちに会って、少しくらい目を休めるのもいいかもねぇ」
ティーナはそう微笑で紡ぐレヴィに、心配そうな視線を送っていた。極力それがバレないように、視線が合っていない時にだけ見せる心配げな表情。
ティーナはレヴィが近頃そのへたれぶりに似合わず働きすぎていることを、内心で少し危惧していた。
端的に、レヴィが過労で倒れてしまわないか心配だったのだ。
「よし、じゃあ今日は一旦侍女館に戻ろうか」
「レヴィ様、さすがにその通称はやめてください」
「えっ! 普段『メイド道』とか言ってるのにそういうとこ気にするの!?」
「基準がわかんないなぁ」と頭を掻きながら言うレヴィにため息を一つ吐き、ティーナが梯子から先に降りていった。自分が降りないことにはレヴィもこの梯子を使えない。
そうして二歩、三歩と梯子を降りていく。
その途中。
不意にレヴィが「えっ」と尻切れな声をあげた。
何事かとティーナが上を向くと――
「〈シルフィード〉の風向きが――変わった」
驚愕の表情をしたレヴィが、そんな言葉を紡いでいた。
◆◆◆
「なにかありましたか? レヴィ様?」
「――待って、シルフィードの様子がおかしい」
シルフィード。
空都アリエルの周りを取り囲む、乱風域。
ギリウスをして「なんとか越えられる」と言わしめるほどの風の防壁たるシルフィードは、ディオーネの言によれば風を司る何人かの神族の合作であるらしい。
そんなシルフィードの異変を、レヴィは感じ取っていた。
「――ボレアス! ボレアス!」
レヴィは床下の梯子に片足をかけていたが、すぐさまそれを引っ込めて、再び最上階に立った。
そうして手すりを何度か叩き、とある名を呼ぶ。
〈ボレアス〉。
なにもない虚空に対して声を紡ぐ姿は、テフラ王族によく見られる。
つまり――
「呼んだか、レヴィ。乱暴な呼び方をするな。頭に響く」
〈神族〉である。
レヴィの横の空間に神界術式陣が広がり、中から美髯を生やした男が姿を現した。
上半身は裸で、その隆々とした筋骨が目立つ。
当然ながらその身体は神族特有の白光に輝いていた。
「ボレアス、君、シルフィードのこと知ってるよね」
レヴィはボレアスが何を司る神族かを当然神格者として知っていた。
〈北風神ボレアス〉。
複数人いる風神の中の一柱。
中でも特に荒々しい風を司るボレアスは、おそらくシルフィードのことを知る神族の一人であった。
「ああ、知っている。あれの制作には私も関わっていたからな」
「ならちょっと答えて。今、シルフィードの風向きが変にブレたように思うんだけど、どう?」
レヴィの覚えた違和はかすかだった。
身体を打ち付ける風が少し弱くなったとか、風向きに違和感を感じただとか、普通ならなんともなく無視してしまいそうな微細な変化だ。
しかし、レヴィにはそれを無視することができなかった。
複数の自然系神族から加護を受けていることも影響していたかもしれない。
ともかく、是にしろ非にしろ、確信を得るためにレヴィは風神の力を借りようとした。
「ふむ、しばしまて。今調べる」
すると、来風神ボレアスは両手を宙空にかざし、目を瞑った。
風が彼の髭を撫で、優しく揺らしていく。
数秒。
ボレアスの肩がピクリと上へ微動したのをレヴィは目ざとく観察していた。
「――誰だ。――誰が手を加えた!」
腹に響いてくるボレアスの怒号。
風を司る一方で、その〈北風〉という性質から『荒々しさ』をも部分的な特質とするボレアスが、その怒気を露わにしていた。
「――ボレアス」
「お前の感覚は正しいぞレヴィ。さすがは自然に好かれるだけはある。――シルフィードが『薄く』なっている……!」
ボレアスはいまだに宙に手をかざしながら、そんな言葉を紡いだ。
「なんでいまさらシルフィードが……」
ボレアスがさらなる情報を風から抜き取っている間に、レヴィは思考を回した。
――シルフィードを薄くする意図は、どこにある。
問題はシルフィードが薄くなったことそのものにはない気がしていた。
あったとしても、すでにシルフィードは薄まってしまっているのだ。
つまり、今考えるべき最たる問題は――
――『なんで』シルフィードを薄くする必要がある。
それが分かれば犯人も突き止めやすい。
否、神族が関わってきている現状で考えるならば、
――突き止めなければならない。
下手をすると、この予兆染みた変化が、大事件の発端になるかもしれない。
レヴィは疲れでやや鈍い動きを呈する自分の思考を、この時ばかりは恨めしく思った。