164話 「奇縁」【後編】
「エッケハルト!!」
すぐさま隣のシェイナから声があがった。
「黙ってろ。お前はもう何もしなくていい。これは俺とコイツの間での取引だ」
「あんた両腕なくなったら剣を持てなく――」
「剣を持てなくたって、戦える」
サレはエッケハルトの言葉を反芻しながら、その目を見た。
――ジュリアスと……同じ目だ。
猛炎の意志が、その瞳に閃いている。
「聞け、魔人。俺はお前の剣に右腕を飛ばされた。だから、残る腕はこの左腕だけだ。これを斬られれば、俺は剣を持てない。ついでに教えてやる」
エッケハルトの赤い髪が、そよ風に揺られた。
そしてその口から再び言葉が紡がれる。
「俺はもう――〈神格術式〉を使えない」
サレはその言葉を聞いて理解した。
さっきこの男が、なぜ「よええぞ」と言ったのか。
あの時あれほどまでに果敢だった男が、なぜ自分を皮肉るようにそんな言葉を述べたのか。
「お前――」
「いろいろあんだよ。アテムにも。――いろいろあったんだよ。だがな、何度も言うが、勘違いするなよ。――俺は『アテム人』だ。俺はあの国を母国だと思ってるし、あの国にまだ忠誠を誓う気でもいる。だから、お前らに協力はしねえ。当然、拷問されたって、一方的に情報を吐いたりはしねえ」
エッケハルトは続けた。
「俺は俺の目的でテフラに来た。お前を安心させるために言えば、『俺はテフラを害するつもりはない』。本心だ。信じられねえだろうがな。俺はただのアテム人の旅人として、テフラに来た。アテムの軍人として来たわけじゃねえ。ほら、そこらへんにいる旅人や行商とおんなじだ」
腕を差し出しながら、エッケハルトが顎で周囲の旅人を示す。
「だから、協力はしねえが――旅人や商人としちゃ、まあ、それなりに『相手』をしてやってもいい」
エッケハルトがサレの赤い瞳をまるで恐れずに見据え、言った。
「俺は情報が欲しい。世界を知りたい。別の視点からアテムを見定めたい」
そして、
「たぶん、お前らは俺のアテム人としての情報が知りたいだろう。そうなったら――『取引』だ。取引すりゃいい。貿易都市、自由都市、混合都市、テフラ王国らしいじゃねえか。んで、その交渉の席につくためにお前の疑心を鎮めなきゃならねえんだったら――ほら、俺の最後の『武器』をやるよ」
エッケハルトが左腕をぐいとサレの前に差し出し、さらに一歩、サレに近づいた。
「都合の良い――話だ」
「否定はしねえよ」
「俺がお前を信じると思うか」
「思わねえ。だが俺も退かねえ」
――そうだろうな。
サレはエッケハルトの目を見て察する。
「一つ聞かせろ。是か非か、どちらかで示せ」
サレは皇剣を掴んだまま言った。
「〈最高神マキシア〉という名前を――知ってるか」
エッケハルトとシェイナは答えなかった。
是も非も言わなかった。
だが、
その目が見開かれていた。
『答え』だ。
「そうか。――分かった。お前たちは俺たちにとっても有用な存在かもしれない。入りたければ入れ。だけどな、あえて先に言っておくが――」
瞬間。
サレが皇剣を完全に抜き放った。
一瞬の挙動。神速だ。
オパール宝石のような彩色豊かな刀身が、光と共に空を走る。
軌道はエッケハルトの腕を避け、下から突きこまれるようにエッケハルトの首に。
切っ先が彼の喉元ぎりぎりで止まった。
「少しでもおかしな真似をしてみろ。――絶対に息の根を止めてやる。――見ているからな。俺はお前らを、見ているからな」
サレの瞳には神すらを殲す破壊術式の紋様が浮かび上がっていた。
エッケハルトはそれでもなおサレを直視する。
「ハハ、あん時とは立場が逆だな。――いいぜ、それでお前らが俺たちをテフラに入れてくれるってんなら、いくらでも見ておけばいい。なんなら毎日どこに泊まるかまで申し出てやってもいいくらいだ」
エッケハルトの答えを聞いて、ついにサレは皇剣を鞘にしまい込んだ。
カシュン、と軽快な音が鳴って、ついにエッケハルトも腕を下ろす。
「なら――『行け』。必要があればこっちから出向く」
出向く。
つまり、常にどこにいるか知っていることを前提とした言葉。
サレが『本気』であることをその言葉に察知したエッケハルトとシェイナは、しかし――うなずきを見せていた。
最後の最後。
サレは彼らが本当に軍人ではなく旅人としてこの国に来たことを確信させられる。
――そうか。
なんなのだろうな。
誰に対してでもなく、ぼんやりと問いかける言葉。
世界がもっと、単純だったら良かったのに。
サレの胸中にそんな言葉が浮かび上がった。
――あいつが敵で、あいつが味方で。
そんな単純な括りで人のすべてを包括できれば良かったのに。
人の変容は直視に難いことがある。
受け入れられない時がある。
お前はこんなやつだった。
あんなやつだった。
こんなわけがないと。
――神族ですら、変わるのかな。
変わるのだろう。
だから世界は組み変わった。
誰かが別の『仮面』を被り、舞台が変わり、また別の劇がどこかで行われている。
――考えすぎなのかな。
そういうすべてを考えようとすると、生きづらいような気もする。
いっそすべてを単純に、思考さえ停止して生きられたら、人生は楽なのかもしれない。
――否。
せめて自分で関わろうと決めたものには、あえて無知であろうとすることを許容するべきではないだろう。
知らない。自分は知らない。
だけど、ずっとそのままでいいとは思わない。
だから、やっぱり考え続けよう。
世界がどうなるのか。自分の周りの世界が、どう変わっていくのか。
アルフレッドも言っていた。
『自分で見聞を広めなさい』と。
――そうだね。やっぱり、アルフレッドの言うことはいっつもなんだかんだと、正論だよ。
サレは先ほどの黒髪の女の存在をまだ脳裏の隅に置きながらも、それを一旦引き出しの中にしまいこんで、再び『今』できることに身を費やすべく、ナイアスの西国門を通って爛漫亭へ戻って行った。
◆◆◆
サレがナイアスの国門で一つのいざこざを処理し、ジュリアスが爛漫亭で元〈術神〉シルヴィアとの会話をしていたころ、また空都アリエルにも関連して動く者たちがいた。
〈神族〉だ。
セシリアとアテナは、テフラ王城の中層『書庫』に入り浸っていた。
理由は戦神アテナが書庫の書物を読ませるようにセシリアに頼んだからだ。
そんなセシリアはアテナが書庫の四方から書物を集めてきて、そのまま床に座り込んで読みふける姿を紅茶を飲みながら見ていた。
「アテナ、椅子を使わなくていいのか?」
「いいの。椅子に座ってると落ち着かないもの」
戦場の乙女ゆえの趣向だろうか。
セシリアは思いつつ、自分は椅子に座って紅茶を啜る。
王城中層、その書庫の壁面はガラス張りになっていた。
日光による書物の色落ちなどを考慮して、書籍自体は日に当たり過ぎないよう調整されているが、差しこんでくる日光は特段に眩しい。
中層書庫はテフラ王城にある三つの書庫の中でも一番巨大で、特に多くの文献が集められていた。
ナイアスが流通都市であるのにも起因して、テフラ王国には多くの書が集まる。
過去のテフラ王族に書物崇拝狂がいたことも、王城内に書庫が三つもある理由なのだろう。
「神界に戻らなくていいのか、アテナ」
セシリアは再びアテナに問いかけた。
最近の彼女は基本的に現界に出てきている。
神界に戻ることがあまりない。
その活発さと淑やかさをバランス良く内包する美貌を、テフラ城内で晒すことが多くなった。
いちいち男性勤務者たちの目を引くので、なんとも居た堪れない気持ちにもなる。
「いいの。もう神界にいる必要がないから」
アテナの返事はさきほどからそっけない。
たぶん書物を読むのに集中しているからだろう。
彼女が読んでいるのは『戦』関連の書物だ。
古代文献の戦術書やら、武術書やら。
あまり活発なジャンルの書物ではないが、探せばそれなりにあるものだ。
「神界にいても【集約】がないから。あとは自分で『学ぶ』しかないもの」
「それはそうなんだが……」
アテナはこう見えて勤勉だ。
もっと感覚で動くタイプなのかと思っていたが、近頃その考えを捨てた。
【集約】の権限がマキシアに切り離されたことでなくなった彼女は、それでもなお、自分で世の戦事知識を集約しようとしている。
それが戦神の矜持から来るのか、それとも彼女の『人』としての性格に起因するのかは定かではないが、ともあれ彼女はここのところ勉学に励んでいた。
「その神界も、いまいち仕組みがわからんのだが、マキシアが神格を切ったことでどうにかなったりはしないのか?」
「今のところないわね。でもなんか、ちょっと嫌な予感もするわ。あの部屋、【集約】がなくなってから行くと静かすぎて」
「静か?」
「そう。勝手に集まってくる理もないし、神格切断のあとから契約を求める声もほとんどなくなった。だから、静かなの」
「なるほど」
「静かな部屋に一人って、嫌なものよ。特に周りから断絶されている神界は、この世界に私一人しかいないんじゃないかって、不安になるから」
その気持ちはセシリアにも分かる。
昔、まだ母がいた頃はそうでもなかったが、母がいなくなってからは自室にいるとそういう寂しさを得ることがあった。
侍女や従者がまったくいなかったわけではないが、そういう『王族らしい環境』はほとんどがキアル第一王子の方に集中していて、第一王女の自分でさえもあまり手は掛けられなかったと思う。
――私にはメシュティエたちもいたからな。
メシュティエは傭兵一家の生まれで、彼女の父がテフラに移住してきたころに連れられてやってきた。
彼女と幼少時に出会ったのは偶然だが、偶然の後に親交が深くなったのは必然だったように思う。
「部屋に一人でいるのは、寂しいかもな」
「それが好きな人だっているけどね。神族にもそういうの、たまにいるわよ」
「ほう」
そういう話を聞くと、ますます神族が近しく感じられる。
自分たちが過剰に畏怖を抱いていた、というのもあながち間違いではないかもしれない。
今でも畏怖がないわけではないが。
「私はディオーネとかと違って、人の能動的な行いに依拠する性質が強いから、あのロリみたいに何もしなくても神格が保てる、ってわけじゃないのよね」
「天空神は――その、何も変わらないのか?」
なにが、というと口で説明しづらいが、アテナにはその微妙な意味合いが伝わったらしかった。
「たぶんね。あのロリはたとえ神格が切れたって、強い『信仰』があるから。空って毎日毎日見るし、一度は憧れるだろうし、一部は空そのものを神と呼ぶ。信仰っていっても意味合いは広いけど、とにかく『在る』だけで万人から意識されるから。そんな天空と違って、戦はそれほど万人に信仰されるわけじゃないのよ」
「そういうものか」
「そういうものよ。まあ、時代によっても信仰の重さは違うけどね。しかも、なんだか最近は特にその『信仰』が少ない気がするのよ。なんでかは知らないけど」
「むしろ戦乱色が強くなってきている今からすれば、アテナへの信仰は強まりそうだがな」
「私も今となってはよくわからないけどね。ともかく、だから自分で学ぶのよ」
アテナはそういって、また書物へ意識を傾けた。
セシリアはそれを見ながら、また一口、紅茶を口に含んだ。