163話 「奇縁」【中編】
サレはナイアスの西側に向かって疾走する。
急いでいる時に限って、頭上を有翼獅子や天馬などの希少動物が成金趣味な服装の行商を乗せて飛んでいくが、生憎サレにはそれをじっくり観察している余裕がなかった。
わずかに視界の上端にそれらが飛んでいくのを意識の隅で把握しながらも、視線は眼下。
毎度のことで悪いとは思いつつも、結局家々の屋根を跳んで移動していた。
西国門まではなかなか距離がある。
途中サレは〈黒翼〉を使って思い切り距離を稼ぎながら、とにかく眼下を注視していた。
それでもやはり、露骨に怪しい人物など見当たらない。
――くそう。
西側国門の外観が視界の奥に見えて、ついにサレは街路に着地した。
国門付近の街路は旅人が多く、ナイアス土着の民は数を減らす。
とはいえ、出ていく者、入ってくる者がとことん多くて、場はごった返していた。
サレは手をうまくつかって人をかき分けながら、首を左右に振る。
そんなサレがようやく異変を察知したのは、西側国門に到着して数分後のことだった。
異変。
だがその異変はサレが求めていた異変ではなかった。
ニーナを害した犯人の手掛かりでもなければ、アテムの匂いを感じさせる存在でもない。
正確には、サレが感じた異変は『自分自身』によって引き起こされたものだった。
西国門付近の街路をぐるぐると回っていた時。
――。
なぜか、なぜかサレの口は言葉を紡いでいた。
理由があったら知りたかった。
だが、サレの身体が勝手に『反応』したのだ。
◆◆◆
「――リリ……アン」
◆◆◆
サレは自分の口から出た音に、自分で驚愕した。
なぜ――
――なぜ俺は今、その名前を口ずさんだ。
思わず足が止まる。
人通りの激しい街路の真ん中で、サレが立ち止まった。
周りの旅人たちが訝しげな視線を向けながら、サレを避けていく。
当のサレは、
「なんで――」
まだ自分の無意識の音の紡ぎに、答えを見いだせていなかった。
さっきニーナを抱きかかえた時に、『彼女』が被って見えたからだろうか。
血に臥す女の姿に、彼女の姿が重なったからなのだろうか。
――違う。
たぶん、自分の身体が『何か』に反応したのだ。
匂い、空気、雰囲気。とにかく曖昧な何か。
サレは自分の意図の読めない言葉の浮かびに、この時ばかりは出どころの分からない確信を得た。
そして、サレがおもむろに西側国門の方を振り返る。
視界の中心。
人垣に紛れた向こうに、
『黒髪の女の後姿』があった。
黒いローブに身を包み、西側国門へと歩いて行く細い背中。
今、その女がフードをぱさりと頭に掛けて、国門への歩みを早めた。
黒髪の女なんて、どこにだっている。
エルサだってそうだ。
だけど、
サレはなぜかその後姿が気になって仕方がなかった。
追えるか。
距離が遠い。
人に紛れ込まれると追えなくなるかもしれない。
とにかくサレはその女の反応を見たくて、街路のど真ん中で大声をあげていた。
「――リリアン!」
たとえ人違いでも、振り向くくらいはするだろう。
そんな大声。
案の定、その黒髪の女も、わずかばかり振り返った。
顔はフードのせいでよく見えない。
だが、それでいてサレには確かに見えたものがあった。
◆◆◆
その瞳が、赤い輝きを放っていた。
◆◆◆
心臓が高鳴り、足が勝手に駆けだす。
鼓動が痛い。
サレが二歩目を踏み込み、人を突き飛ばしてでもその女に向かおうとした瞬間――サレの目の前を一際巨大な人の波が通って行った。
もみくちゃにされ、前へ進むどころかその場に留まることすらできない。
「くっそ――」
サレは悪態をつく暇もなく、数メートルを横に流されたあたりでようやくそこから抜け出し、先ほどの黒髪の女の方へ走った。
「――いない」
黒いローブの女の姿は、もうどこにもなかった。
それでもまだあきらめきれなくて、サレは近場の建物の上に急いで登る。
周囲を見渡し、まだ見つけられなくて、今度は国門の方へ駆けていった。
国の外にだって出てやる。
とにかく彼女の姿を確かめるまでは。
そう思い、国門をやや無理やりに通り抜けて――開けた西側の短草平原を見渡した。
旅人、行商、大きな獣に、鎧姿の騎士まで。
様々な姿が映るが、やはりさっきの女の姿はなかった。
――たぶん、気のせいだ。
サレは気になる気持ちが溢れてどうしようもなくなりはじめた自分に気付いて、言い聞かせる。
ニーナを抱きかかえた時に、リリアンの姿が被ったから、見間違えたのだ。
レオーネに言われて悲劇の記憶を努めて思い出すようになったから、それのせいで視覚がときたま歪むのだ。
きっと、そのせいだ。
思い、しかし奥歯を噛む力はまだ失せてくれない。
振り返ればナイアスの国門。
なんだかんだと、ずいぶん爛漫亭から離れてきてしまったものだ。
そう冷静になって思って、サレは最後にもう一度だけ草原の向こう側を見た。
その最後の振り向きの途中で――
サレは見覚えのある影を『二つ』見つけた。
いつか。
自分たちが立ちあがった最初の頃。
自分たちの前に初めて立ちはだかった、軍隊。
アテム王国軍隊〈第二王剣〉。
その――剣将たる――あの――赤い髪の――
「なんで――なんでお前が『ここ』にいる! なんで……!!」
〈エッケハルト〉。
憎むべき敵国の軍隊の将が、旅人の列に紛れてサレの脇を通り過ぎようとしていた。
サレはその日、二度目の混乱を得ていた。
◆◆◆
赤い髪の男は、サレの叫びに反応してそちらを振り向いた。
赤い髪の男の隣にいるのは、紫がかった髪を宿した怜悧な美貌の女だ。
忘れもしない。
あの、アテム王国の――
「答えろ! なんでお前らがここにいる!!」
サレは〈エッケハルト〉と目が合った瞬間には、心臓から頭にまで昇ってきた紅蓮の感情を止められずにいた。
――敵だ。
敵。
その認識が、まっさきにサレの脳裏を支配する。
右手を皇剣の柄にまで回し、その場で抜き放ちかけた。
その頃になって、ようやくエッケハルトが口を開く。
顔に皮肉るような笑みを乗せて、その唇で言葉を紡いでいた。
「よぉ、〈魔人〉じゃねえか」
ハハ、と乾いた笑いを浮かべながら、剣を抜き放つ寸前のサレを見ても驚く様子はない。
「お前――」
サレはとっさにそれ以上の言葉が紡げなかった。
さっき得た混乱と、今得た混乱が交ざって、思考の歯車を鈍らせる錆を形成していた。
対するエッケハルトは両手――否、左手だけを開いて見せて、また言葉を続ける。
彼の右手は存在しなかった。
「ハハ、まあ落ち着けよ。俺はもうお前の敵じゃねえからよ。ああ、味方でもねえけどな?」
違う、敵だ。
間違いなく、敵なのだ。
サレはエッケハルトが何を言っているか理解できない。
「そう怖い顔すんなよ。なあ、おい。『あの時』だって、まだ少しも会話する心の余裕ってもんがあっただろうが。なんだよ、いまさら理性をかなぐり捨てんのかよ?」
「――信じられると思うのか」
敵じゃないという言葉を。
「さあ? 俺はお前じゃねえからな。べつに殺したきゃ殺せよ。――今の俺はお前に押されただけで死ねるくらい、すげえ『よええ』ぞ。ほら、やれよ」
ずい、と。
エッケハルトが大きな一歩を踏んだ。
サレへの近寄りだ。
しかし、
「やめなって、エッケハルト。あんた、本当に殺されたらどうすんのよ」
その肩を隣の紫髪の女――〈シェイナ〉が止めていた。
「あんた、異族の憎悪買ってるの、忘れちゃだめよ」
「分かってるよ。異族はこええもんな」
サレは二人のやり取りの間に、ようやくほんの少しの冷静さを取り戻す。
まだ右手は皇剣から離せないが、言葉を浮かべるくらいの余裕は戻ってきていた。
「――なんなんだ」
あの最高神の裏切りから、世界の変動が著しい。
固定的な括りの枠が、あちらこちらで壊れる音がする。
「なんで、テフラに来た」
サレはやっとのことで疑問を一つ投げかける。
ただならぬ雰囲気を宿しているためか、国門を出入りする旅人たちが脇を通るごとに訝しげな視線を向けていた。
そんなものお構いなしという体でエッケハルトは淡々と答える。
「〈アテム王国〉を見定めるためだよ」
なにを言うのだ。
お前はアテムの『剣』だろう。
剣は主を見定めたりはしない。
主のためにただ身を振るうのが、剣の役目だ。
「お前らは剣だろう」
サレは率直な言葉を浮かべる。
そこに含ませたニュアンスに、エッケハルトの方も気付いたようだった。
「剣は――『折れた』。『お前ら』が折ったんだ」
「――」
「勘違いすんなよ。お前らに責任を押し付けてるわけじゃねえ。そういうのはやめろ。俺はあれで、それなりに楽しめたんだ。過去の戦いの意義まで俺から奪うのはやめろよ?」
「そんなに俺はお人よしじゃない」
矜持がぶつかって、負けた方が折れた。そこに命を奪ったこと以上の責任は持たない。
そんなものをいちいち拾いあげていたのでは、心が持たないから。
「んでよ、まあ、こういうとなんだか複雑な気分になるんだが――あれはあれでよかったのかもしれねえ。いや、俺の部下は俺のせいで死んじまったから、よかったってのとはまた違ぇか。あー、なんかこういう微妙な感情、処理するのめんどくせえよな。折り合いつけんのが、めんどくせえんだよ」
「あんたはそれでいいのよ。処理できるほどの頭持ってないんだから。筋肉脳だからね」
二人が自分を前にしてそうして言葉を紡ぐ様子に、サレはある印象を受けていた。
それは感覚的な察知。
一種の穏やかさとでも言おうか。
不条理を受容している者の『穏やかさ』と『軽さ』。
余裕とはまた違う『揺蕩い』が見える。
――似ている。
こいつらはたぶん、『断崖』に立っている。
一歩後退したら死ぬかもしれないというギリギリの状態であった『自分たち』と、似ている。
後ろを振り向きつつ、死を目鼻の先に捉えつつ、それでいて、なんとか笑おうとした自分たち。
――なぜ、お前たちが『そこ』にいる。
アテムは崖からずっと遠い場所で、揚々と立ち塞がっているはずだろう。
自分たちの進む道をどこかで通せん坊するために、向こうの方で立ち塞がっているはずだろう。
そんなアテムに所属していたお前たちが、なぜ断崖に立っているのだ。
「なあ、テフラ王国は、来るものを拒まねえんだよな。しかもよ、そんな国だから、世界中のいろんなところからいろんなやつが来るんだよな」
「――」
湖都はいまだにそのとおりだ。
ジュリアスは監視の目を以前より多めに入れていると言っていたが、テフラの自由都市の理念を取っ払うつもりはなかった。
国としての最後の主権をアリエルで保持しつつ、ナイアスではテフラの理念を体現する。
そういう難しいことに詳しくないから、はたしてそれがうまく続くのかは分からないが、ジュリアスの思惑を察するに、まだまだナイアスは混合自由都市であり続けるだろう。
「――ああ、そうだな。ナイアスは、そうだ」
「じゃあ、俺たちを拒みはしねえよな?」
理論上、理性上ではそのとおりだ。
だが、
「ナイアスに踏み込んだって、お前たちが何かから守られるわけじゃない」
「遠回しな言い方だな。つまり気に入らない場合はぶっ殺すってことだろ? 王国法とかなんとかいうのがあるらしいが、ナイアスは多勢力による折り合わせ自治が強いっていうからな。俺だってそのくらいは知ってるぜ。――そうか、お前らも『ギルド』なんだな」
エッケハルトは閃いたように顔を明るくさせた。
「読めてきたぜ。お前らがあのあとどういう道を辿ってきたのか。テフラに行ってるだろうとはなんとなく思ってたけどな」
ハハ、と。またエッケハルトは笑いを浮かべた。
そして、
「まあいい。そうだな、ナイアスがそういう街なら、お前は俺を排除できるわけだな。つまり、俺たちはすでにお前らに命を握られてるってわけだ」
極端な言い草だとは思うが、サレはエッケハルトの言をあえて否定はしない。
そのとおりだからだ。
誰がなんと言おうとも、この二人が『アテムの軍人』だったことは変わりがない。
障害だ。
仲間たちの障害になるなら、今この場で斬り捨ててもいいくらいなのだ。
サレが皇剣の刀身をさらに数センチ、鞘から抜く出す。
瞬間、エッケハルトから再びの声があがっていた。
「じゃあよ、分かった――」
◆◆◆
『左腕』もやるよ。
◆◆◆
狂人が、左腕を前に差し出して、そんな言葉を紡いでいた。