158話 「爛漫亭大浴場にて」【後編】
「ね、ねえトウカ? 本当にいいのかしら? ここ男性の浴場で――しかも清掃中って――」
「カカッ、マリアよ、ぬしはそういうどうでもいいところでは感覚が鈍いのう。――よいか、これはたぶんシオニーあたりの仕掛けた罠じゃ。あたふたっぷりが表れておる」
男湯、脱衣所。
すでに着物を脱ぎはなって裸体で仁王立ちしていたトウカは、隣でゆっくりと服を脱いでいるマリアに言葉を投げかけていた。
対するマリアは、まだ上着を脱いだあたりで、トウカの言葉に再び訊ねている。
「そ、そうなの? あっ、また服が胸につっかかって――」
その言葉のあとで、マリアが服をその胸に突っかけているのを見て、トウカは動揺した。
激しく動揺した。
「えっ、そんなに?」と目を丸めてマリアの莫大な胸元を見ている。
そのあとで、やや動揺を引っ込めながらやっとのことで言葉を続けた。
「そ、そそ、そうじゃ。ま、まず浴場の清掃は昼間じゃ。よく湯に入るわらわからすれば、こんなのバレバレの嘘じゃな。そしてさきほどサレが部屋から「もういやだあああ」と叫びながら浴場へ突撃していくのが見えた。つまり――」
「つまり?」
胸のつっかえを取ったマリアが、トウカに再び訊ねる。
トウカの返答は大きく、はっきりした声だった。
「中にはサレとシオニーがあられもない状態でっ!!」
「えっ!! そ、そんなところに入ろうとしてるの!?」
マリアが思わず身体をビクリと波立たせた。
「いいから行くのじゃ。――ぬしとてちょっと気になっておるのじゃろ? んん? どうなのじゃ? んん?」
トウカはマリアの顔を下から覗き込み、「ほれ、どうなのじゃよ?」と訊ねている。
マリアはその視線から目を逸らして、やや俯いて答えた。
「い、いや、それは、その……でもシオニーが先にいるなら……」
「馬鹿め、マリアらしくないの。そんなものはあれじゃ、『勝負』じゃ。どこにだって勝ち負けはある。それにまだ勝負はついておらんぞ。――負けるのは嫌じゃろ?」
「で、でも……」
「ぬし、その男の理性を破壊するためだけに存在するような身体を持っていて、そんな弱気ではならんぞ!」
「ひ、ひどい……! また言われた!」
マリアは自分の胸を両手で抱えて、目尻に雫を浮かべた。
口元を恥ずかしさに波立たせて、「そんな風に言わなくても……」と頬を染めている。
「ぬしには圧倒的な有利があるからの。あのプルミでさえも出し抜けるボディじゃ。これでイチコロすればよいのじゃ」
「――トウカは?」
そこで、不意にトウカはマリアの反撃を喰らう。
「ぬ、ぬっ?」
「トウカも気になってるからここにきたんでしょう?」
「い、いや、その、なんじゃ、楽しそうじゃなぁって……べ、べつにな? 抜け掛けはさせまいとかそういうのはべつに……べ、べつに……」
「ふーん?」
マリアはその優秀な状況判断能力で攻勢に出れると確信し、スパートを掛ける。
「――好きなの?」
なにを、とはあえて加えないで、ただ端的に。
その言葉に対するトウカはあたふたとして黒髪を揺らし、
「そ、そんなことはない! さあ、いいから入るぞ!」
慌ただしく浴場へと一歩を踏み込んで行った。
「あなたも素直じゃないじゃない」
マリアもなんだかんだとそのあたりで吹っ切れて、服を脱いだあとに浴場へ入って行った。
◆◆◆
シオニーはその日二度目の悔しさを得た。
原因はさきほどのプルミエールの時と同じだ。
そんなプルミエールでさえも隣で「ぐぬぬ」と言ったあと湯船に口元を沈め、ぶくぶくと泡立たせている。
――な、なんだアレは……!
ずるい。
いやいや、そうじゃない。
いやずるいけども、そうじゃない。
シオニーは動揺した。
ゆったりとした動作でおしとやかさを表しながら、優雅な歩みでこちらへ近づいてくる女。
魔性の女、マリア。
純人寄りの精霊族だという彼女の周囲には、すでになぜだか神々しい光が見えている。
あれが精霊の加護なのだろうかと思いながらも、そんな神々しさとはまた別で、もはや神そのものであるといえてしまいそうな『それ』に視線が吸いこまれる。
――で、でかい……
あえて明言は避けようと思った。
言ってしまえば自分のそれとの差が明確になる。
さっきの「自分のにも結構自信がある」という発言も、アレを見せられては撤回せざるを得ない。
もちろん何度も女湯の方で一緒になっているから初めてというわけではないが、こうして改めて直視して身の内に湧いてくるのは、いっそ感嘆の如き感情だ。
埋もれてみたい。
女でさえもそう思う、あの魔性。
谷間に手を突っ込んだらどうなるのだろうか。いったいどれくらい柔らかいのだろうか。
大きさ、形、恐らくアレが『憧れ』の完成系だ。
憧憬を抱かせる完全無欠さ。
「うう……」
アレを武器にされては、分が悪い。
シオニーは唸った。
「あら、トウカもきたの? ――ふーん」
「な、なんじゃ、その意味深な声は」
「べつにぃ?」
隣にはトウカがいた。
こちらはこちらで端正な姿態だ。
実にバランスが良い。
物量もあるし、それでいて柔らかそうであるし。
――いやいや、さっきから私は何を言っているんだ。
加えて言えば、トウカの身体の魅力はその腹部であろうか。
撫でたくなる。
あのキュっとしまった腹部。
鍛えられた腹筋がうっすらと浮かんでいて、そのラインにそって手で撫でたくなる。
サレのややマニアックな趣向に、確かあっち系があったはずだ。
となると、
「うむむぅ……」
腹ではトウカに負けない自信があるが、五分では意味がないのだ。
他の部分で勝たねば。
だがトウカはトウカで、隙がない。
――まったく、このギルドの女性陣はどうかしてる。
自分の自信をことごとくねじふせてくる猛者が多い。
これはやっぱり精進を欠かせまい。
シオニーは最後にもう一度唸って、ふと思い出したようにサレの方を見た。
サレが湯船にうつぶせで浮いていた。見事な窒息姿勢だ。
「う、うわあああああああああ!! サレッ!?」
◆◆◆
サレの意識は朦朧としていた。
視界がボヤけたのはプルミエールが女の武器をぶるんぶるん派手に揺らして走り寄ってきたあたりだ。
すでにシオニーとのなんともいえない空気感の中で、自分がのぼせ気味な事には気付いていた。
しかし、その状況で「じゃ、俺は先にあがるから」とも言えず、さらに奇人の侵入を許してしまった。
不覚である。
そのあとからは記憶もおぼろげで、二人の言葉もただの音として流れてきて、言葉として認識できなかった。
さらに、自分の身体を支えていた誰かの手が離れ、直後、
――最近俺の頭が打撃の嵐に晒されている気がする。
何か硬い物に頭をぶつけた。
どうやらすでに自分の身体に支えが利かないようだった。
今こそ目を開き、光景を脳裏に焼き付けないで何が男なのか。
今貴様は全ギルド員男性陣の期待を一身に背負っているのだ。
その目を閃かせよ、網膜に絶景を。
この肉林の喜びを――!
と心の底でだけハイテンションに言うが、もはや身体は自制の枠から逃れていってしまった。
そのあとでマリアとトウカの声も聞こえて、思わずマリアの姿態だけでも、と思って精神を奮い立たせたが、身体は奮い立たなかった。
限界である。
身体が浮力に押し出されてうまいことを反転し、湯船に対しうつぶせになった。
そしてそのまま、一番手放しちゃいけない場面で意識を手放した。
◆◆◆
「ちょ、ちょっと! 顔真っ赤じゃない! 今まで気付かなかったの!?」
「えっ、あー、なに、あれよあれ。ちょっと夢中になっちゃって――てへ」
わざとらしい言い訳はプルミエールだ。
シオニーはマリアの胸に抱かれて半気絶しているサレを見た。
どうやら命に別条はないらしいが、のぼせてはいるらしい。
それにしても、あの双丘に埋まっている感触はどうなのだろうか。
あわよくばサレが『起きていない』ことを祈る。
もし『アレ』の虜になってしまったら大変だ。取り戻せなくなる。
マリアはマリアでこういうときの対処が早く、裸体であることを気にせずにサレを抱き、そのまま脱衣所へかけていった。
――本当に、起きていないことを祈る。
あんな魔性の女に、まるで母の如き献身的な愛を受けて、まともでいられる男がいるものか。
シオニーは内心に少しいじわるな気を得ながら、去っていくマリアの後姿を見た。
「ま、今回は引き分けって感じかしらね」
「わらわまだなんもしとらんが……」
「なんかするつもりだったの?」
「ぬあっ、いやっ、そういうわけではないぞ!」
「あんた簡単に誘導に引っかかるのね」
「う、うむむ……」
プルミエールとトウカが湯からあがって会話していた。
「その口ぶりだとプルミエールもなんかするつもりだったんじゃないの?」
少し悪戯気な気が湧いて、シオニーはプルミエールに訊ねた。
「私はそんなんじゃないわ? ホントに、おもしろそうだったから首を突っ込んだだけよ?」
「ふーん。そっか」
しかし、シオニーはプルミエールの白翼が二度ほどぴくりと微動したのを見ていた。
プルミエールの翼は、特にその六枚の中の下段の翼は、プルミエールの内心をよく表す。
そのことに気付いたのは最近だ、
だからシオニーは、プルミエールが動揺していることを実は察知していた。
「素直じゃないね、プルミも」
「な、なによ、私はいつだって素直だわ? 高貴かつ素直っ!! そういうこと!」
ふん、と鼻で息を吐いてそっぽを向くプルミエールを見ながら、
――ふふ、これはこれで、なんか面白いな。
今の自分たちの状況を振り返って、少し楽しくなった。
悪くない。
こういう関係も、悪くないかもしれない。
――まあ、最後は私が勝つけどな。
そう心に思って、シオニーも湯からあがった。
◆◆◆
その頃、清掃中の木簡が下げられた浴場の入口あたりに、一人の女の姿があった。
白髪の人虎、クシナだ。
トウカと同じような着物を身に纏い、悩み惑うように浴場の入口をうろうろしている。
その強気さを感じさせる絶世の美貌が、今は悩ましげに歪んでいた。
「うーん……」
少女らしい小さな仕草で、口元を指で押さえて唸っているクシナ。
「――くそ、なんだか先を行かれた気がする」
中から聞こえていた複数の女の声に、クシナは反応していた。
だが、
――でも、俺あんまり身体が……
女としての魅力にはまだ薄いかもしれない。
もちろん、それなりに自信はある。
あるのだが、相手が悪い。
――くっそぉ。
もうちょっと時間が経てば、もっと成長してくれるだろうか。
ときたま自分が少女と形容されることに、不成長の言い訳をおいておく。
まだ自分は若いのだと。
異族間の年を一緒に考えるのもあまり意味はないが、自分はギルドの中では年が下の方だ。
だから、少し上の女たちを相手にすると、分が悪いこともある。
――いや、たった二三歳の違いであんなになる気はしねえが。
そう、たとえ同じ年であったにしても、アレらは別物だ。
存在の根本からして次元が違う気がする。
――もうちょっと、あとちょっとでいいから、大きくならねえかな。
自分の胸を持ち上げて、小さく語りかける。
するとちょうどその頃――
「あれっ!? なになに!? なにしてんのクシナ! 男湯の前でうろうろして! もしかして逆覗き!? 積極的だね! 皆に言いふらそっと!!」
なるほど、この眼鏡は自殺願望があるらしい。
クシナは響いてきたメイトの声に、神速で反応した。
――貴様の本体を、その記憶と共に砕いてやる。
大人しくそこで直立してろ。それか眼鏡と脳漿を差し出せ。ぶちまけとけば、記憶もなくなるだろう。
クシナは右に拳を握って反転する。
直後、
「ふおおおおおおおおおっ!! ごめんなさい調子乗りましたあああああああああ!! 命だけはッ! 命だけはあああッ!!」
廊下を掛け逃げていったメイトに向かって身を弾かせた。