156話 「爛漫亭大浴場にて」【前編】
爛漫亭での事件は、サレが四代目魔人皇の記憶にしごかれて二時間ほど経ってから起こった。
「もういやだあああああああああ!!」
絶叫。
深夜に差し掛かろうかという頃に、爛漫亭の三階にサレの絶叫が響き渡っていた。
「や、やってられるかっ!! 複雑すぎて頭がおかしくなるううう!!」
二度目の叫びのあとに、爛漫亭の浴場へ走って行くサレの姿が目撃された。
そしてその背中を自室の扉をあけて見送る影が、五つ。
◆◆◆
「わかりました。わかってます、そうです、その通りです、私にはあなた方の術式が必要です。はい、はい、わかりました、はい、なんかすいません」
サレは爛漫亭の大浴場手前、その脱衣所で誰にでもなく頭をぺこぺこ下げていた。
「お、おう、なんか大変そうだけど、大丈夫かよ副長」
するとサレと入れ違いで浴場からあがってきた数人のギルド員の男性陣が、珍しく心配そうな顔でサレの肩を叩いていた。
普段なら「なにやってんだこいつ」と言いながら苦笑の一つでも浮かべるところだが、その時のサレの姿は迫真掛かっていて、さすがの外道たちも心配したらしい。
「大丈夫、大丈夫、ハハハ――くっそぉ、目の前に事象式が見えるぜ……!」
「だめじゃねえか……!」
「気にするな、そのうち収まる」とギルド員を安心させて、サレは一気に服を脱いだ。
服を脱ぎ散らかして、頭の中に残響する「ほら、そこ違うよ、違う違う、はいだめ、最初から組み直して」という四代目魔人皇の声を必死で振り払いながら、浴場に踏み入れる。
身体を洗い、髪を濯ぎ、一息。
爛漫亭亭主の素晴らしい気遣いが見て取れる備え付けの薔薇石鹸の匂いが、ようやく精神を安らげてくれた。
そうして身体を洗い終えて、ようやく大浴場の湯につかる。
今日の湯の色は白濁だ。
湯自体に香りはあまりないが、浴場の各部に置かれた香草類から、スンと心地よく鼻をつく香りが漂っていた。
この浴場を売りにしているだけある。
爛漫亭の風呂場はまるで安らぎの聖地だ。
今は自分たち〈凱旋する愚者〉が独占中だが、身辺の王権闘争といういざこざがなくなったら他のギルドの者たちも入りに来ればいいと思う。
ちなみに、自分たちが拠点にしてしまうことで亭主の方も客層の固定化に悩んでいるのではないかと思って、一度それを訊ねたことがあった。
その時の犬顔亭主は「私どもはこうやって連日部屋が埋まっているというだけで、十分でございます。今までこんなに大盛況だったことはありませんから」などと笑みで返していた。
そのあとに小さく「つまり儲けが出てれば万事オッケーでございます」と軽い言葉で加えていたのも覚えている。
サレはそこに湖都ナイアスの商人の心中にある普遍的な原理を見つけた気がした。
「ふうー」
そんなことを思いながら、静穏の息を吐く。
そうして身体にじわじわ染み込んで行く心地いい熱量を感じながら、ふとサレはあることに気付いた。
「――というか珍しくこの時間に風呂に誰もいないな」
さっきの出ていった者たちで最後だったらしい。
時刻はそろそろ十一時を回るというところだろうか。
まあ、時間的に遅いといえば遅い。
朝に毟――稼ぎに言ってるような面々は、早起きのためにすでに寝ている者もいるだろう。
「まあいっかー」
浴場を独占するのは久しぶりだ。
あんまり音がないとまた頭の中に「ほら、次はこの事象式ね、はい、そこの変数違う。はいだめ、また最初から燃料通して」と徐々に難解になっていく声が聞こえてきそうで、やや怖い。
――休め、休むのだ。
休むのも訓練とよく言われたものだ。
こういう状況になると、ちゃんと身体や頭を休めることがどれだけ難しいかがよく分かる。
まったく、あえて言えばそんな難しさに気付きたくはなかった。
◆◆◆
しばらくして、湯に浮かんでぼんやりしていると、サレの耳が浴場外の音を拾った。
脱衣所の方からだ。
「――ん?」
がさごそと、擦れるような音。
たぶん誰かが脱衣所で服を脱いでいるのだろう。
独占の時間は終わったようだ。
少し残念だとは思いつつ、サレは次に入ってくるのが誰なのだろうと観察していた。
ふと脱衣所の角から影が伸びてきて、天井の術式灯の光に少しかき消されながらも、そのシルエットを映す。
細身だ。
翼はついていない。
となると、ギリウスではなさそうだ。
次いで、サレの目はその影にあるものを見た。
左右にぷりぷりと揺れる――尻尾。
「――」
見覚えのある動きだ。
ふさふさと柔らかそうな毛が生えた、尻尾。
緊張したりびっくりすると毛が逆立って、もふりと大きくなる尻尾。
褒めると異常な速度で左右に振れる尻尾。
サレはその尻尾を知っていた。
それを観察するのが一つの楽しみでもあったから、忘れもしないし、間違えもしない。
「あっ――」
サレの脳裏に複数の選択肢が現れた。
一、男だろ、迎え入れろ。
二、男だろ、迎え入れろ。
三、男だろ、迎え入れろ。
――違う、それはきっと違う。
おかしい、こっちは男湯だ。
なぜこっちに影が映るのだ。
まるでこちらに今にも入ってきそうな、そんな様子ではないか。
女は柵の向こう、隣の湯だ。
そうして柵の向こうから漏れてくる女たちの声に、男たちはこちらで聞き耳を立てるのがマナーだ。
ああ、そこまでやって、マナーだ。
聞き耳を立てない奴などいない。
――あっれぇ?
いざ状況が差し迫ると、どうしていいか途端に分からなくなる。
自分が、自分で思っている以上に実はへたれなのではないかと、そう思わずにはいられない。
レヴィのことをへたれというのも、やや遠慮したくなってくるほどだ。
そうしてサレが浴場の隅の方によって悩んでいるうちに、ついに影が中へと入ってくる。
「う、うお……」
予想は的中。
シオニーだ。
美しい。
なにをおいても、まずはそう言っておかねばならない気がした。
◆◆◆
白い肌をさらし、左手で胸元を覆って、右手で下の方を隠しながら、少し内股になって浴場へ入ってきた銀の人狼。
冷たい美貌が、今は少女のそれのような恥じらいを醸している。
視線を斜め下に逸らし、頬を朱に染めながら、ときたまチラリとサレの顔を窺っている。
湯気で彼女の銀の髪がしっとりと濡れ、その肢体に張り付いてなんとも艶やかな印象をもたした。
サレは瞬きを忘れた。
顔から視線がやや下がり、その胸元に行く。
細身のわりになかなかの物量を呈する女の武器が目に入る。
それを覆っている手が双丘にぐにゅりと沈んでいて、露骨な柔らかさを見せつけた。
細くくびれた腰。
うっすらと縦に筋の入った腹部。適度な筋肉がついている。
絶妙な肉感。
あの姿態は並みの努力では得られないだろうと、男であるサレに一目で実感させるほどの端正さ。
「あ、あの……」
すると、見惚れていたサレにシオニーがちらりと視線を向けて、頬を染めながら恥ずかしそうに言った。
「私も入っていいか……?」
「んあ、ああっ、うん、いいよいいよ」
この状況で断れる男はいまい。
なにせ向こうはもう脱いで入ってきてしまっているのだ。
言い訳をさせて欲しい。
美女が、あのはにかむ表情で「入っていいか……?」などと言って、それを断れる男がいるだろうか。
いやいない。
いるとしたらそいつは鬼畜だ。
ほんの一瞬、ほんの少しだけ、そこで「だめ」と言ったら彼女はどんな顔をするのだろうかと、嗜虐的な思惑が浮かばないではなかったが、さすがに言えない。それは想像の中でシミュレーションするに留めておくべきだ。
「……」
ちゃぽん、と静かな水音を立てて、シオニーが白濁の湯につかってくる。
そしてじりじりと、視線を逸らしたままで近づいてくる。
一、落ち着け。
二、瞑想するのだ。
三、そうだ、今こそ四代目魔人皇の心折れる言葉を思い出せ。
男のリビドーが「おっしゃ俺の出番だな」と立ちあがった気がして、思わずサレは選択肢の三を選んだ。
「ううっ……」
泣きたくなった。
「ど、どうした? サ、サレ?」
「ああ、うん、なんでもないんだ。なんでも……くそぅ、馬鹿にしやがってぇ」
その選択肢は結果的に逆効果だった。
サレの唐突なすすり声に反応して、シオニーが心配そうな顔で一気に近づいてきたのだ。
湯が白濁でなければ、さぞ近くでその肢体を見れていただろう。
感謝するべきか、憎むべきか。
判断に難いところだ。
「が、頑張りすぎるなよ……? その……じっとしてられないのは分かるし、ちゃんと準備をしなきゃいけないのは分かってるけど……」
シオニーは両手の指をつんつんと胸の前で繋ぎながら、そんな言葉を紡いだ。
「頑張りすぎてここで潰れてしまったら、何にも意味ないからな。本当に全部がだめになってしまったら、また皆で旅に出ればいいんだ。――そこに罪悪感はあるけど――でも」
死んでしまうよりはマシだ。
シオニーは続けた。
「だから、つらくなったら――私に言って。サレが言いづらいなら、私が皆に言ってあげる」
シオニーは湯の中のサレの手を握って、その顔を覗き込んでいた。