13話 「天使の矜持」
アリスは後方からの飛翔音と、前方から発せられた弓弦のはねる音を聞きながら、身体の力を抜いていった。
そうして、来るであろう衝撃になされるがまま、倒れようとした。
しかし、不意にその身体を誰かに支えられる。
――良い香りがする。
高嶺に咲く花のように、凛とした清らかさを持つ香りだ。
ふと、自分の頬を心地良い感触が撫でた。
それは最上級の羽毛のようで――
◆◆◆
「なんなの? ――いくら美麗かつ高貴なこの私でも、自ら死にに行く愚民を救うのはなかなか手のかかることなのよ?」
◆◆◆
高い声が響く。
その声は――
「――プルミエールさん?」
「ええ、私よ。超絶美麗かつ高貴な天使よ。――ああ、天国からの迎えの方の天使じゃないわ。異族としての――天使族の方よ? フフ……!」
「……そうでしょうね。天国の使者がこんなに高慢なわけがないですからね」
「フフフッ……! この期におよんでまだ毒が吐けるのなら大丈夫ね」
そしてプルミエールは少し震えた声で、
「安心なさい。まだあなたは死なせてあげないから。あなたは誇るべき私の愚民第一号なのよ? せいぜい私のために働くといいわ? ええ! 私のために働きなさい!」
――今、彼女はどんな顔をしているのだろうか。
アリスは胸中でそんなことを思うが、自分を支えてくれている天使の顔は見れない。
このときばかりは、視覚が絶たれる原因となった自分の軽率な行為を少し後悔した。
次いで、アリスが気付いたのは自分を支えるプルミエールの腕が少し震えていることについてだった。
ふと気になって、前方から抱きこむように自分を支えているプルミエールの背に、手を伸ばした。
すると、その手に――
ぬるりとした感触があった。生温かい感触だ。
――まさか。
「プルミエールさん?」
「なあに?」
「――そこをどいてください」
「なんで? ――フフ、愚民が私に命令するの? ――ダメよ、聞いてあげないわ! 私は命令する者よ!! される者じゃないわ!! それを体現するのが貴い者の務めなのよ? それに、良い女には譲れない時があるのよ。ええ、今がその時――フフフ……!」
アリスが力づくで彼女を振り払おうとして、
「フフッ……!」
プルミエールの身体が揺れた。
なにか、外部から衝撃を受けたかのような、奇妙な揺れだった。
アリスが再び彼女の背に手をまわし――
彼女の背に、三本の弓矢が刺さっていることを手で感じ取った。
「……っ!」
――これではだめだ。
アリスはそう思い、再び身体に力を入れ、プルミエールを引き剥がそうとする。
しかし――
「なあに? こんなに美麗で高貴ですっごく良い女に抱かれてるのに、駄々をこねるっていうの? アハハ、アリス、あなたずいぶん我がままなのね!?」
彼女が自分の名を呼び――よりいっそう、抱きこんでくる腕に力を込めていた。
――ああ……
気付いてしまった。
彼女はきっと、意地でも私を離さないだろう。
それが彼女の矜持。
彼女は、愚民は守るべき脆弱な存在だと、ゆえに高貴な自分が救うべきだと、彼女以外に信ずるものがいないようなめちゃくちゃな原理を本気で信じているのだ。
この天使は、それを実行してしまえる強靭な意志を持った――
――馬鹿なのだ。
プルミエールの背。翼の生え際から、どんどんと『血』があふれてくる。
――もう一本。
おそらくはシェイナが放った矢が、また彼女の背に刺さった。
――なぜ、
――なぜ私を守るのですか。
間接的だが、自分はあなたの仇なのに。
「不思議そうな顔ね? ――いいわ、特別に教えてあげる。確かに私は、私の前の愚民たちを殺したクソどもが許せないわ。私の前の愚民を直接殺した奴は、絶対に探し出してぶち殺してやるって決めてるの。だから、私の愚民に手を出した純人族は、見つけたらぶっ殺すわ?」
でもね、と彼女が続ける。
「かといって、アテム人だから、純人族だからと相手を拒絶するのは、結局のところ、アテム王国が異族だからという理由で私たちを排他したことと一緒じゃない。盲目的に拒絶することと同じだわ。私が嫌いなアテム王国と同じことを、私がしたいと思ってるわけ……ないじゃない。だから――っ!」
また一本、彼女の背に矢が刺さり、
「私は私が選んだ愚民は守るわ。あなたが純人だから嫌いというわけでも、アテム王族だから嫌いというわけでも、半異族だから好きというわけでもないのよ。この際、そんなのはどうでもいいわ。――アリス、私はあなたが私の愚民だから守るのよ?」
また刺さり、
「前の愚民を殺したやつは私の敵。でもそれはあなたじゃない。それでいいじゃない。あの愚民五十号――サレなんちゃらが言ったのは、あなたを守ろうという、ただそれだけなのよ。種族がどうたらは……っ……言って……ないわ。つまり、そういう……こと……よ――」
ひどい破綻思考と、めちゃくちゃな原理だ。
でも、なぜかアリスは納得してしまった。
プルミエールは傲慢で、傍若無人で、唯我独尊だ。しかし、それゆえに自分に正直で、その揺るがない自尊ゆえに、取り繕うような嘘をつかない。
それはこのたった一月の共同生活で気付いたことだ。
アリスはプルミエールの、自分を支えてくれている手から力が失せていくのに気付いて――叫んでいた。
――誰でもいいから、
「――っ! 助けてっ!」
◆◆◆
――俺は、なにを茫然と見ていた。
――わらわは、なにを茫然と見ていたのじゃ。
――我輩は、なにを茫然と見ていたのであるか。
◆◆◆
――俺たちは、なにを迷っていたのだろうか。
◆◆◆
一団が、一斉にアリスとプルミエールのもとへ走りだした。
プルミエールの言葉を聞き、サレは思った。
彼女の言葉はさきほど自分たちが抱いた建前の決意になんら相違ない。
種族という観点からその目的を定めようとすれば、おそらく一致団結はできないだろう。
種族が違うからこそ、矜持も違えば、考え方も違う。
――ゆえに、一個人として彼女を守ればいいのではないかと、俺は言った。
それは種族差を無視した考え方だ。
彼女だから守ればいいのではないか、と。
その点において、種族ごとに方法は異なるだろうが、彼女を守るという意義においては相違ない。
それを理解してもらうために、そう説得するために、言葉を紡いだのだ。
――だのに、なぜそれを言いだした俺が迷う。
あの妖しい笑みをたたえる天使は、誰よりもそのことを理解していた。
だから迷わなかった。
――尊敬するよ。今は素直に。
だから、今は高貴な女王を守る愚民として、女王を傷つけた外敵と対峙しよう。
そしてまた、身を呈して愚民を救った女王に、形なき尊敬と、形ある敬意を。
嗚呼、きっと彼女は、民の誰が死にさらされようとも、その身を死との間に滑り込ませるのだろう。
ならば、俺たちは――
「――――守れ!! 二人を!!」
そして、一団とアテム王国の上位軍隊〈第二王剣〉が真っ向からぶつかった。
アリスの助けを乞う言葉が、開戦の狼煙となった。
◆◆◆
「撃ち続けろよ、シェイナ。異族は敵だ。俺たち軍人は王国の理念に生き、秩序を体現するために死ぬ。王からの命令だ――――異族を全て討伐せよ!」
「わかってるわよ。脳筋のくせに、えらそうに言わないでくれる?」
「ならいい。俺も行ってくる」
エッケハルトが大剣を両手で腰の横に構え、後続の兵士を引き連れるようにして走りだした。
――まだ俺の方が早いぜ。
見れば、異族たちもようやく動き出したようだが、迷いなく先に抜剣した自分の方が早い。そう確信した。
とはいえ、相手は異族だ。
翼を持つ種族もいる。走るよりも速い移動手段を持つ者もいる。
「だが――負けられねえよなあ! 俺たちは王剣だ!!」
エッケハルトの鼓舞するような叫びに、後続の二百名の兵士たちが感応して雄叫びをあげた。
元王族を殺すことに対する迷いを、エッケハルトが絶ち切った。
当人も異族たちの進軍に怯えることなく、徐々に徐々に加速前進して行く。
◆◆◆
異族側から駆けだした者の中で、もっとも早くアリスとプルミエールのもとへたどりつく可能性があったのはサレだった。
ギリウスが背の猛々しい大翼を羽ばたかせて飛翔する速度よりも、トウカが腰に佩いていた一本の刀を抜いて身を前に弾く速度よりも、魔人族の強靭な身体性能が勝った。
その速度はまるで突風のように猛然とすさまじく、一歩を踏みしめるごとにその地面が靴の形に埋没するほどの脚力で、その身を前に押し出していく。
――間に合う……!
向こう側から大剣を構えて走り出したエッケハルトよりも先に、アリスとプルミエールのもとへたどりつける。そうサレは確信した。
顔をあげれば、周りの景色が凄まじい速度で流れている。
――さすがに焦点を合わせるのはこの眼でも無理か。
〈殲す眼〉は使いづらいと、そう思った。
しかし、さきに彼女たちの前に到達してしまえばやりようはある。
だから、まずは先に。
だが、エッケハルトより早くと考えていたサレに対し、エッケハルトが先手で行動を示していた。
ぶれる視界の中。大剣を片手に構えなおしたエッケハルトが、ふところから何かを抜く動作を見せ、それを投擲するように腕を大きく振っていた。
何かを投げた。サレにはそんな漠然とした判断しかできなかった。
己の出し得る速度が速ければ速いだけ、向こう側からこちらへ投擲される物の相対速度は速くなる。〈殲す眼〉で破壊しようとも考えたが、どうにもそれを見極める時間が足りない。
ゆえに、
「くそっ!」
サレは、アリスを守るように抱いているプルミエールを、さらに上から守るように、その身を彼女の背面へ滑り込ませた。
瞬間、飛びこんだサレの右肩にエッケハルトが投擲した何かが突き刺さる。
刺さるということは、おそらく刃物だろう。
だが、自分の身に刺さった何かを見極める時間もない。
見上げれば、エッケハルトは目の前まで近接していて、
「邪魔だなあ、おい。――しかたねえ、まずはてめぇからだ」
サレがプルミエールとアリスを守るために身を投げ出したのは思いのほかぎりぎりのことで。
見上げてから身構えるほどの時間もなく――
エッケハルトの大剣が、無防備なサレの首元を狙って斜め上から振り下ろされていた。