138話 「冷姫との対面」(後)
「停戦の申し込みというのは本当なのかな?」
「ええ、本当ですよ。勝てる見込みが――ほとんどなくなってしまいましたから」
――まったくなくなったとは言わないあたりが、テフラ王族らしいというか、なんというか。
サレは思った。
極端というわけではないが、テフラ王族は基本的に負けず嫌いな気がする。
ジュリアスもあれでどうでもいいことに意固地になることがあったし、サフィリスもそうであったように思う。従者を殺されてなお、意志が折れるどころかさらに立ち向かってきた。レヴィは馬鹿だが馬鹿なりにまたよくわからないところで頑固だ。悪いと思ったことは悪いという直情的な負けず嫌い気質がある。
ともあれ、エルサ第三王女はこんなにもおしとやかな印象であるのに、なぜかその負けず嫌いな気風が体中からひしひしと発散されている気がした。
「正式に停戦を取り決めるには、やはり空都でカイム兄様あたりに立ち会ってもらって、文書に調印でもした方がいいのでしょうけど……まずこの場では握手でもして、仮契約という形で」
意外と軽い。
「警戒しなくてもいいですよ。私は確かに場合によっては嘘もつきますけど、その時は自分に危害が波及しないようにある程度外堀を埋めてから嘘で荒らしますから」
なんてたちが悪いやつなんだ……!
「こうして自分の手をあなたに握らせることが、私にとってどれだけ恐ろしい事か、それを少しでも推測していただければと思います」
エルサが黒のドレスを揺らし、片手を差しだしてきた。
か弱い、握れば潰れてしまいそうな白い手だ。
マーキスはその様子を三歩ほど下がった位置から見ているだけだった。
狐顔には笑みがあるが、そこに好戦的な色は乗っていないように思える。
サレはエルサの手をとるべく一歩を踏んだ。
そして彼女の手に近づいて、あることに気付いた。
エルサの手が震えていたのだ。
「――魔人は怖いかい?」
サレはエルサの手を取る前に言った。
顔には嫌味のない笑みが映っている。
どれかと言えば柔らかな微笑だ。
「私は散々あなたのことを見てきましたし、聞いてきましたからね。サフィリス姉様の時も、セシリア姉様の時も、そして今回も。私にとってあなたという常軌を逸した力の権化は、恐怖でしかありません。あなたはやろうと思えば、きっと私を数秒で縊り殺せるでしょう」
サレは否定しなかった。
エルサの細い首を見て、確かにそうであるだろうと客観視する。
首に黒炎の手を伸ばし、その白く柔らかな肌に指を喰い込ませ、爪を立て、ひっかき、血を滴らせ、そして絞めて――命を摘む。
エルサという黒く美しい華を摘む。花弁を一つ一つ毟る。一度の薙ぎ払いで、根元から刈り取る。
やり方は自由だ。
己の黒い炎がそこに触れるだけでも、きっとエルサは燃えて散る。
〈神を殲す眼〉を二度使えば、一度目で法神テミスの神格防護が弾け散り、二度目で破壊の力がエルサの顔面に走り、その美しい顔を弾け散らせる。
そうだ。どうにでもなる。
美貌の女の命を好きに掌握できてしまうという事実は字面において実に魅惑的だ。
不道徳、背徳的な蠱惑。
「私はこの通り脆弱ですから、めったに前線には出ません。だから肌であなたの強さを感じることはありませんでした。今この時が初めてです。正直に言って――」
エルサが顔を上げ、サレと目を合わせながら言った。
黒い瞳が赤い瞳とぶつかるが、黒の瞳はその交差に際して揺れていた。
「とても怖いです。――わかりますか? 私の手はあなたに思い切り握られれば簡単に潰れるほどに脆弱なのです。だから、こうして手を差し出すことに、とても抵抗がある。腹が減った猛獣の前に、肉を差し出しているのと同義かもしれません」
「俺は猛獣か……」
「猛獣ですとも。恐ろしく強い猛獣です。組み伏せられたら、私は死を覚悟しますね。もしくは『ああ、きっとこのままめちゃくちゃに犯されて猛獣の子を孕まねばならないのですね……しくしく』と泣きます」
「おいちょっと声がデカいやめなさい」
後ろの方で「いやいやアイツには無理だって」「だってシオニーすらまだ――」「わりとへたれだよな、あの副長」などと聞こえてきて、
「誤解を招く余地はなかったようだな。とても嬉しいよ……」
いっそ少しくらい勘違いしてくれても良かったんじゃないかと思うが、今は男としての価値に関してはおいておこう。
「――冗談はさておき」
サレはエルサにアリスと似た印象を得た。
冗談が重いのでいちいち心臓に悪い。
「はい、握手をしましょう。サレ・サンクトゥス・サターナさん」
「名前までしっかりだね」
「ええ、フルネームは近頃知りましたけれど」
サレはさらに前に歩みいで、ついにエルサの手を取った。
意外にもエルサの手は暖かくて、なぜだか笑みを浮かべてしまった。
「なにか?」
「いや、なんでも。少し意外なことがあっただけだよ」
話を聞く限りではもっと冷血な印象だったので、手も冷たいのだろうかとたいした根拠もなく思っていた。しかし、そうでもないらしい。
〈冷姫〉との評判はこの点に関して間違いだ。
手を離すとエルサは一歩下がって、マーキスに何か耳打ちをした。
するとマーキスが驚いたように目を丸めて、エルサに問い返していた。
「私もですか……? 〈黄金樹林〉としては、闘争に負けた以上このまま王族関係からは足を洗って、またナイアスで情報稼業に集中しようと思っていたのですが――それに、エルサ殿下にとっても私たちは用済みでしょう?」
「いいえ、この闘争の間であなたたちと行動を共にしてみて、とてもあなたたちのことを気に入りました。ジュリアスに許可を貰わないとまだどうにもできないでしょうけど、このまま私と組む気があるのなら、そのあとで少しくらいの特権は与えましょう。勲章みたいなものです」
「それはそれは、なかなか魅惑的な提案ですね、殿下。あなたのゴシップ記事の一つでもうちのギルドで書かせていただけるともっと喜べるのですが」
「あなたの交渉力次第ですよ」
「では、善処致しましょう」
言って、マーキスがサレの方に顔を向けた。
「いつかぶりですね、〈凱旋する愚者〉の副長さん。あなたのギルドのでたらめさにはほとほと手を焼きましたよ」
「いつかぶりだな、〈黄金樹林〉のギルド長。お前のギルドの陰湿さにはほとほと手を焼いたよ」
「お褒め頂き光栄です。暗躍と覗き見が私たちの趣味ですから」
「最高にイカす趣味だな」
サレは苦笑しながら額を片手で押さえた。
そうしているとマーキスがさらに近づいてきて、おもむろに片手を伸ばしてきた。
エルサに同じく握手の合図だ。
サレはその手を見て、
――まあ、これで良かったのだろう。
良いよな、アリス。
そう加え、マーキスの手を取った。
「ところで相談があるんだけど」
「なんですか?」
サレはマーキスの手を取りながら言う。
「その覗き見趣味を使って、今度うちの女性陣の入浴中の記録をだな……」
「それってどれくらいの数の命を用意しておけばいいんでしょう」
「な、七個くらいあれば生き延びられるかもしれない」
「全力でお断りします」
マーキスも「やれやれ」と言いながら少し笑い、そしてお互いが手を離した。
「まあ、私たちはあなたたちとの関係性において敗北者ですから、湖都ナイアスの慣習的な法に従って、あなたたちに多少の協力はしましょう。一応、同じくナイアスで拠点を共にするギルドですから」
「俺たちはお前たちに何をすればいいんだ?」
「ただ壊さずにおいてくれれば」
マーキスはちらりとサレに視線を向ける。その目には悪戯気な光が宿っていた。
「俺たちは破壊屋じゃないぞ」
「ですが、破壊できるだけの力はあります。そろそろナイアスの他ギルドもあなたたちの事を正しく認識し始めているころでしょう。闘争に参加していなかったギルドも、そしてギルドに所属していないナイアスの住人たちも、きっと理解し始めていますよ。あなたたちの力の強大さをね」
「理解して、それがどういう風に俺たちに関わってくるのだろうな」
「それはこれからテフラ王国がどういう方針を取るかによるでしょう。王国の政治指針が内部に指向するのなら、あなたたちの力を警戒するでしょうね。競合する可能性がありますから。当然警戒です」
「では、外部に指向するときは?」
「どういう風に指向するのかが問題ですが、まあ、たとえば――『アテム王国との戦争などになった場合』」
マーキスが怪しげな笑みを浮かべながら人差し指をあげて見せる。
「おそらく、あなたたちに抱く思いは『好意』に近いでしょう。共通の敵というのは、あちら側を対岸にして『こちら側』を協力させる絶好の存在ですからね。敵の敵は味方、な理論などもありますし、ひとまず同じテフラ王国の組織としては、大半が好意を抱くでしょう」
「なるほどね」
「加えて言うならば、あなたたちの力の強大さもあることですし、あるいは乱世における『救世主』の如く崇めるかもしれません」
「それは勘弁してほしいね。テフラを背負えるほど俺たちは大きくないからな」
「そうですね。では、その時は少しくらい手伝ってあげましょう。一応、私たちだって王族と連帯できるくらいには、テフラのギルドでそれなりの地位がありますからね」
「はは、期待しよう」
二人はそこで会話を切った。
お互いに踵を返し、ゆっくりと歩み離れていく。
その顔に、小さな笑みを浮かべながら。