134話 「王女と戯れの神」(前)
ナイアスとアリエルの間に無数に浮く浮遊島。
そのうちのひとつに建てられた建造物の中に、エルサ・リ・テフラ第三王女は潜伏していた。
その空中建造物は〈黄金樹林〉の本拠地だった。
建造物の内装はナイアスにもあるような雑多な酒場風になっていて、中には黒の装束に身を包んだ黄金樹林のギルド員たちが会話をしている。
それは口論のようでもあり、会議のようでもあった。
酒場の窓にはステンドグラス風に多色の絵が刻まれていて、日光を通して酒場の中を七色に彩っている。
そんな酒場の中で、エルサは椅子にちょこんと座ったまま、ぼんやりとギルド員たちの言葉に耳を傾けていた。
「情報が錯そうしてますね」
「そうですね。転移陣をもっと用意しておくべきでした。一度の行き来では得られる情報に限りがあるようです。おかげでめまぐるしい戦況に情報統合が追い付かないようで……」
エルサの隣には狐顔の男――黄金樹林のギルド長〈マーキス〉が立っている。
「――〈獅子の威風〉と、〈地牙〉は同盟を廃棄したようですね」
エルサはぼんやりとしつつも、酒場の中を飛び交う情報を耳に入れ、一度に脳内で統合し、一つの情報として作り上げていた。
「いつも思うのですが、殿下のその多聞の技術は本当にうらやましいですよ」
「あなたもできるでしょう」
「殿下ほど多くは聞き取れません」
マーキスが軽い笑みを浮かべて自虐気味にいった。
「〈魔術教団〉はどうしました?」
「ああ、あそこもダメです。さっき下で騒動があったでしょう? ――そこであの『魔人』を見てしまったらしく、完全に士気が折れました。なまじ魔術系異族ばかりが集まっているのが余計にネックになったようです」
「――魔人は魔術系異族でしたね」
「ええ。――『あんなのとやり合ってたら命がいくつあっても足りない』とわめいていましたよ」
「そんなことは誰だってわかっているでしょうに。まだ〈獅子の威風〉や〈地牙〉はマシだったというわけですか」
「でしょうねえ。少なくとも――私だったら逃げてますよ。あんな化物が相手では」
「あなただって前に凱旋する愚者の本拠地に単騎で潜入したじゃないですか」
「あれはやりあうつもりがなかったからですよ。私、逃げることに関しては自信があるので」
「――そうね」
マーキスは言いながら、片手をエルサの前に差し出して、そしてその手を術式によって不可視にしてみせた。
「まあ、神様のご助力がなければこんなこともできないわけですが。いやあ、ある意味純人族に生まれてよかったですよ。異族だと神様、力を貸すのを渋りますからね」
マーキスはまた笑った。
二人がそうしているうちにも酒場の中の言い合いはさらに大きくなっていく。
一部は酒場から出ていき、またそのあとで一部が酒場の中に戻ってくる。
ギルド員たちが、情報を求めに転移陣を使ってナイアスに下り、そして一定の情報を得てまたこの浮遊島に戻ってきているのだ。
「そういえば、二重尾行の引き剥がしに使ったギルド員はどうしているのです?」
「ほかの仲間に回収させました。誰も死んではいませんが、一部は顔に踏みにじられたあとがあったり、うわごとで『もっと、もっと踏んで』とか言ってますね。なにかあったのでしょうか」
「あったのでしょうね」
「殿下、結構淡々としてますね。ちょっとボケたつもりだったんですが」
「私もそっち方面の趣向については聞き及んでいるので」
「情報家もここまでくるとこう、見境ない感じで――私もつい尊敬しますよ。同類者にしても」
「あなたは情報に対する趣向が偏ってますからね」
「そうですか?」とマーキスが答えた。
「エルサ殿下の手が広すぎるだけだと思いますよ。私も人の生み出す情報に関しては、かなり情熱的に収集しているつもりなのですが……」
マーキスの笑みの表情が、ようやく少し困惑に彩られた。
それを伏し目からの一瞬の視線移動で見たエルサが、口元に手を持っていってくすくすと小さく笑った。
しばらくして、酒場に変化が訪れた。
それは予想だにしない来訪者の現れに基づいた変化だった。
◆◆◆
「やあ! みなさーん! お元気ですかー? みなさんの愛するロキが来ましたよー!」
「変なのがきやがった」酒場の黄金樹林のギルド員たちが、一斉に頭を抱えた。
そして、すぐに警戒態勢を敷く。不意の来訪者だ。
〈戯神ロキ〉。またの名を、〈欺神ロキ〉。
銀髪の、やたらに派手な色彩の服を着た――とにかく胡散くさい神族だった。
「あれ、なんか元気ないですね? あれー、もしかして今ピンチですか?」
ロキが頭にのせているシルクハットをとって、器用に指でくるくると回しながら、酒場の奥へと歩んでいく。攻撃の仕草は見せていないが、そのふざけた歩き姿には隙がなかった。
ふざけていても、神の威圧感があった。
「おやぁ、エルサお嬢さん、相変わらず美人で、また相変わらずの仏頂面ですねえ。元気にしてましたか?」
「久しぶりですね、ロキ」
「おや、ちゃんとワタシと目を合わせられるようになったんですねえ。これでもワタシ、心配してたんですよ?」
「あなたに心配されるほどではありません」
「ツれないですねえ。まあいいでしょう。ええと、えーっと……マーキスというのはどこですか? ワタシの契約者の一人なんですが……。いやはや、ワタシ、結構力を分け与えた神格者のこと、忘れちゃうんですよねえ。貸し与えたままで放置することが多くて。なんとなーく契約者の位置がわかるんですが、結局なんとなーくで、詳しくはわからないんですよぉ」
「私の隣にいる男がマーキスですよ」
「ほほう?」
ロキはシルクハットを被り直して、いつのまに出したのか、片手にステッキをにぎり、マーキスの顔を覗き込んでいた。
青白いとまで形容できそうな顔色が、にやにやとした笑みを浮かべて覗き込んでくる状況に、さすがのマーキスもやや表情をゆがめていた。
ロキの顔は眉目秀麗というにふさわしかった。しかし、色素の薄さが顕著で、神の存在感や神力の白発光もあいまって、とにかく不気味に見えた。
美しいがゆえの不気味さは神族によく見られる特徴だが、ロキはそれが特に顕著だった。
「あなたがマーキスですか? ほほう、なかなかワタシと気が合いそうな顔をしていますね。――いいでしょう、本当はジュリアスの邪魔になるようなら力を奪ってしまおうかと思ったのですが、個人的に気に入ったのでそのままにしておいてあげましょう」
「……感謝……したほうがよろしいのでしょうか」
「いえいえ、べつに感謝はしなくていいですよ。ワタシの気まぐれですから。周囲を騙しての不可視術式くらいは、貸しといてあげましょう」
「やっぱり、私からすればありがたいことですね」
「ああ、でも」
ロキは再びずい、とマーキスに顔を近づけて、不気味な笑みを浮かべて言った。
「その術式、あまり位の高いものではないので、視覚的には透明化できますけど、そのほかの感覚器には余裕でひっかかりますからね。気を付けた方がいいですよ。――上位のものならほかの感覚器に対する『騙し』も行えるのですが――まあ、あなたには必要ないでしょうね」
「とおっしゃいますと?」
どうせなら貸してくれてもいいのに、とマーキスは内心に浮かべながら問い返した。
対するロキの返答は素早かった。
「そりゃあ、あなたが隠れることや人を騙すことにもともと優れているからですよ。――神族らしいでしょう? これでもワタシ、結構そういう均衡とか、気にするほうなんですよ?」
「まあ、戯れ程度にですが」とロキはケラケラ笑いながら付け加えた。
「ロキ、あなたはこちら側なのですか」
そこへ、エルサが口を挟んだ。
ロキはエルサを見つめ直し、答える。
「こちら側、とはまた、なかなか答えづらい質問を。お嬢さん」
「ですが、そう訊ねるしかありません」
「でしょうね?」
「……」
エルサの眉間がぴくりと動く。
ロキの挑発的な物言いに、わずかに反応したようだった。
「怒らないでくださいよ、エルサ。冗談ですよ、冗談。ワタシはジュリアスに服従していますから。どちら側かといえば、ジュリアス坊やの側です」
「そう。なら、少なくともあちら側ではないということですね」
「断定が欲しいなら、そうと答えておきましょう」
「……」
エルサは沈黙した。いくらかの沈黙の後で、また口を開く。
「なにをしにきたのです、ロキ」
「ただ、遊びに来ただけですよ、お嬢さん。私は戯れの神ですからね?」
ロキはまたニヤニヤとした、人の目に絡みつくような笑みを見せて、エルサに言った。
それから数秒間、エルサとロキの間で視線の応酬が続いた。




