133話 「黒い衝動」(後)
――この男が憎い。
プルミエールに銀の矢をはなったこいつが、憎い。
闘争への覚悟と、死への覚悟を誰もが抱いているといっても、それでも、憎い。覚悟があるから殺されてもいいなどと、果たして仲間にそんな思いを抱けるのか。――そんわけがない。
サレは手から骨を伝って聞こえてくる男の悲鳴の振動と、自分の手が男の頭蓋を握り潰しに掛かっていることを他人事のように感じていた。
憎いが、しかし、殺せない。殺さない。殺すべきではない。
殺すつもりであれば、懐への侵入時に顔面に『神眼』を使っていた。左手にもった『改型・切り裂く者』で胴を薙いでいた。
しかし、それはやらなかった。
だから、引きずった。身体にわざと痛みを増長させるよなやり方で、こうして引きずっている。
手につかんだ頭蓋を石壁に叩き付けて、そいつの頭で石壁を研磨するように、ごりごりと押し付けて壁を走る。
数十メートルを引きずり回して、最後に胸倉をつかんで引き寄せた。
男の意識はわずかの覚醒で、ほぼ気絶する寸前だ。だから、剣の術式を解いて、鞘にしまったあとで、手を開いた。その手を振りかぶり、男の頬に狙いを定めて振るう。平手だ。
平手で意識を覚醒させると、
「……ぁ」
短い声があがった。
サレはヨハネが視線をどうにかこうにか自分のほうへ向けたのを見たあとで、真っ赤な瞳を叩きつけながら言った。
「……もう一度『凱旋する愚者』を狙ってみろ。――次は本気でぶっ殺すぞ……!!」
サレは迫真を声にのせて、言った。
◆◆◆
クシナとシオニーは、二重尾行をおびき出すための敵の囮においついて、適当に絞っていたところでギリウスの声を聴いた。ギリウスによって敵の本命との戦闘が始まっていることを聞き、すぐさま移動を開始した。
そうしてようやく本命との闘争場所へ二人そろってたどり着いた時、銀髪の男の頭蓋を壁にごりごりと押し付けながら走っているサレの姿を見つけた。
その光景を見た二人のうち先にクシナが声をあげる。屋根のうえからサレの顔を覗いて、言った。
「かなりぶち切れてるじゃねえかよ、おい。――あいつ大丈夫か? なんだか珍しいじゃねえか、サターナがあんなにぶち切れるなんて――」
クシナの疑問。
サレが露骨な表に怒りを表したのは、あの最初のサフィリスからのちょっかいの時と、あとは戦景旅団の戦初めの時だ。前者はかなりの熱量だったが、後者はそこまででもなかった気がする。たぶん後者に関しては正々堂々というか、正面からのぶつかりあいだったからだろう。覚悟を定める時間と、言い訳のための要素がなかったから、いっそ開き直れたのかもしれない。
だがともかくとして、今の状態は最初の怒りの時と様相が似ていた。――不意の怒りだ。
うまくはけ口を見つけられない、どうしようもうない怒りだ。
――あ。
サレがその内側からの怒りをため込んで、破裂してしまいそうな印象を、クシナは今のサレの姿に見た。
「――止めるぞ、犬」
「――うん」
隣に立っていたシオニーに言うと、彼女からの反論はなかった。犬という、いつもなら噛みついてこられるような呼び方をしても、彼女は噛みつかなかった。注意が眼下のサレに向いていたからだ。
目的は一致していた。
そうして、虎と狼が屋根から跳躍し、男の胸倉をつかんでいるサレに走り寄った。
◆◆◆
「おい、そのへんにしとけよ。お前今にもそいつぶっ殺しそうな顔してるぞ」
「サレ、プルミはマリアのところへちゃんと着いたから、大丈夫らしいぞ」
クシナがサレの肩に手をおいていた。シオニーはサレの手をとって、ヨハネの胸倉をつかんでいる指を一本一本外していく。
対するサレは、ヨハネの顔をいまだに凝視しながら、それでいて自分でも落ち着こうと息を整えているようだった。
すると、さらに数秒の間があって、ついにサレが手を離し、黒翼をひっこめさせて、踵を返した。一歩、二歩と歩を進め、その場から離れていく。
クシナとシオニーの顔は見ずに、少しだけ肩を落として、その場から離れる。
そうして歩いて行って、さきほどヨハネの頭をめり込ませていた壁にまで歩み寄った。そして――その壁に拳の一撃をぶち込んでいた。
破砕音が鳴る。
石の壁が崩れて、がらがらと破片が落ちていく。
「――――クソッ!!」
サレの悪態の声が、空へと昇って行った。
クシナとシオニーはそのサレの姿を見て、顔を見合わせた。
しかしサレがその場から跳躍し、屋根の上に登って行ったのを視界の端に捉えて、とっさにクシナが言った。
「おい、お前、サターナについとけよ。なんかあったんじゃねえか、あいつ。普通じゃねえぞ。俺はこいつの口割らせとくから、あいつの傍にいてやれよ」
「――私でいいのか?」
シオニーはクシナの目を見て、まっすぐな視線を返していた。
「――は? なんで俺があいつの傍にいなきゃなんねえんだよ?」
「――そっか。――まあ、クシナがそういうなら、私はそれでいいよ」
クシナは内心で、自分の心臓が口から飛び出るのではないかと思っていた。シオニーがサレのあとを追って屋根に登って行くのを見上げながら、
「お前、よくわかんねえところで鋭くて、ときどき恐くなるよ。――てかこういう時に限って俺のことを名前で呼びやがる」
嘆息を交えて、少しの笑みで呟いていた。
◆◆◆
切り替えたはずなのに、あの光景が頭から離れない。あの、火の中に家族の骸が転がっている光景が。
サレは屋根の上で風にあたりながら、深呼吸につとめていた。
――みっともない。……落ち着け。
大きく息を吸って、止めて、ゆっくりと吐く。
「――――ふー」
悲劇の記憶が、プルミエールへの攻撃に対して看過できない焦燥を助長させた。
恐ろしい、とにかく恐ろしい。『それ』を失ってしまうことへの恐怖が、自らの攻撃性を引き出した。
すべてはレオーネとの会話が原因だ。
いやがおうにも、あの光景を思い出さなければならなくなった。
もちろん、理性では思いだすべきなのだとわかってはいるのだが、なおも光景の想起で心臓が高鳴る。
脈は早くなり、なにかに追われているような焦燥感に駆られる。
「くそう……」
どうにかしたいと思っても――どうにもならないのだ。
あの光景は、振り払っても振り払っても、記憶の中に留まり続ける。
悲劇の記憶は、鮮明な焼き痕を頭の中に残していく。
どうしようもないという事実が、さらに焦燥感を煽った。
サレは額を片手で押さえて、俯いた。
「――サレ」
すると、不意に背中側から声が聞こえてきた。シオニーの声だ。
シオニーは銀髪を揺らしながら、屋根の上に着地していた。そのままサレに歩み寄り、サレから一歩のあたりでようやく止まって、サレの後ろから言葉を投げかけていた。
「どうした? なにかあったのか?」
「……大丈夫だよ。なにもないよ」
「――私にまで嘘をつくのか?」
「……」
サレは振り向けなかった。
振り向けば、自分の無様な姿を見せることになる。
今は闘争中だ。
ギルドの副長である自分が、闘争の中で弱みを見せるわけにはいかない。
「――本当に、なにもないよ?」
「……」
今度の沈黙はシオニーのものだった。シオニーは銀の髪を風に揺らしながら、切れ長の目を細めて、サレの後姿を見ていた。
片手を自分の胸におき、心配そうな目でサレを見ていた。
そうして数秒の間があって、シオニーは一歩前に進み出た。いつまでたってもサレは振り向かない。
なら、
――私が歩み寄るから。
シオニーが、後ろからサレの両肩をつかんで、反転させながら抱き寄せた。
サレの顔はあえて見ずに、その頭を片手で優しく抱き寄せて、自分の胸に押し当てる。
自分より少し背の高いサレも、こうして頭を抱き寄せてしまえば少し小さく見えて――
――子供みたいだ。
一人で何かに耐えている姿は、たくましい男というよりも、無理をして我慢をする子供ようで。
胸の中で俯いている様は、か弱くも強がる男の子のようで。――守りたくなる。
――母性って、こんな感じなのかな。
自分は母ではないからわからないが、もしかしたらそうなのかもしれないと、シオニーは内心に思っていた。
「男って、みんなこんな風に強がりなのか? それともサレだけか?」
「……」
最初、サレからはほんの少しの抵抗の力があった。きっと自分の弱みを見せまいと、そう思ったのだろう。
しかし、シオニーはそれより強い力を込めて、サレを押さえた。そこでサレを離してしまえば、そのままどこかへ行ってしまうような気がした。
「――サレが一人で壊れてしまうくらいなら、私がこの手で壊してやるからな」
このまま抱きしめて、抱き壊してしまってもいい。
言いながら、
――はは。私も、結構行くところまで行ってしまっているかもな。
すぐに恥ずかしさがこみあげてくるが、声に出してしまったのでひっこめようもない。事実だけが残るのだ。
「…………うん」
しかし、胸のあたりから小さな声が返ってきて、恥ずかしさが嬉しさに変わる。どうして嬉しくなったのかはわからないが、それでも――
――とにかく嬉しかった。